教皇ベネディクト十六世の210回目の一般謁見演説 アッシジの聖フランチェスコ

1月27日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の210回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2009年2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する […]


1月27日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の210回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2009年2月11日から開始した「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話の第27回として、「アッシジの聖フランチェスコ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇は、ポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所解放65周年にあたって、イタリア語で次の呼びかけを行いました。
「65年前の1945年1月27日、ドイツ語名アウシュヴィッツで知られる、ポーランドのオシフィエンチム市のナチスの強制収容所の鉄門が開かれ、わずかな生存者が解放されました。この出来事と、生き残った人々の証言は、ナチス・ドイツが作った絶滅収容所で行われた、かつてない残酷な犯罪の恐怖を世界に知らしめました。
  今日は『国際ホロコースト記念日』が行われます。それは、この犯罪のすべての犠牲者、とくにユダヤ人に対する計画的な絶滅の犠牲となった人々を思い起こすとともに、自分のいのちを危険にさらしながら迫害された人々を守り、殺害の狂気に反対した人々を顕彰するためです。わたしたちは深い悲しみのうちに無分別な人種的・宗教的憎悪の犠牲となった多くの人々に思いを馳せます。彼らはこの常軌を逸した非人間的な場所へ移送され、投獄され、そこで殺害されたのです。この出来事の記憶と、とくにユダヤ人を襲った『ショア(ホロコースト)』の悲劇が、すべての人の尊厳に対する深い尊敬の念をますます呼び起こしてくれますように。それは、全人類が自らを一つの大きな家族と感じられるようになるためです。全能の神が人々の心と思いを照らしてくださいますように。このような悲劇が二度と起こらないために」。


   親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  最近行った講話の中で、わたしは、それぞれ聖フランチェスコとグスマンの聖ドミニクスによって創立された、小さき兄弟会(フランシスコ会)と説教者兄弟会(ドミニコ会)が、当時の教会の刷新のために摂理的な役割を果たしたことを明らかにしました。今日わたしはフランチェスコの人となりをご紹介したいと思います。フランチェスコは真の意味で聖性の「巨人」です。彼はすべての時代、すべての宗教のきわめて多くの人を魅了し続けています。
  「一つの太陽が出て世を照らした」。『神曲』(天国篇第11歌〔寿岳文章訳、集英社、1987年、100頁〕)のこのことばをもって、偉大なイタリアの詩人ダンテ・アリギエリはフランチェスコの誕生を暗示します。フランチェスコは1181年末ないし1182年初頭にアッシジで生まれました。富裕な家庭に生まれた(父は織物商でした)フランチェスコは、当時の騎士道の理想に熱中しながら、何不自由のない幼年期と青年期を過ごしました。20歳のとき戦争に参加し、捕虜となりました。彼は病気にかかり、解放されました。アッシジに帰った後、ゆっくりとした霊的回心の過程が彼の中で始まりました。この回心の過程は、それまで行っていた世俗的な生活様式から次第に離れるように彼を導きました。この時期に有名な二つの出来事が起こりました。一つは重い皮膚病の人との出会いです。フランチェスコは馬から降りて、この重い皮膚病の人に平和の接吻をしました。もう一つは、サン・ダミアーノ聖堂での十字架像からの呼びかけです。十字架上のキリストは三度、生き返って、フランチェスコにこういいました。「フランチェスコよ。行って、壊れたわたしの教会を修復しなさい」。サン・ダミアーノ聖堂で主のことばを聞いたという、この単純な出来事は、深い象徴的な意味を秘めています。直接的な意味では、聖フランチェスコはこの聖堂を修復するよう招かれました。けれども、この聖堂の壊れた状態が象徴的に示していたのは、当時の教会の悲惨で不安定な状況でした。表面的な信仰は生活を形づくることも造り変えることもありません。聖職者は不熱心です。愛は冷めています。教会の内的崩壊は、一致の喪失と、異端運動の誕生ももたらしました。しかし、この壊れた教会の中心に、十字架につけられたかたが立ち、語りかけます。このかたが刷新を呼びかけます。手作業で小さなサン・ダミアーノ聖堂を具体的に修復するようフランチェスコを招きます。サン・ダミアーノ聖堂は、徹底的な信仰と熱心なキリストへの愛をもって、キリストの教会そのものを刷新するようにという深い招きの象徴でした。おそらく1205年に起きたこの出来事は、1207年に起こったもう一つの似たような出来事を思い起こさせてくれます。それは教皇インノケンティウス3世の見た夢です。インノケンティウス3世はこんな夢を見ました。全教会の母教会であるサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂が崩壊しようとしています。すると、一人の小さく取るに足りない修道士が、倒れないように大聖堂を肩で支えます。興味深いことに気がつきます。一つは、教会が崩壊しないように助けるのが教皇ではなく、小さく取るに足りない修道士であることです。教皇は、自分を訪ねてきたフランチェスコこそがこの小さく取るに足りない修道士だと認めました。インノケンティウス3世は、深い神学的教養と強大な政治権力をもつ、力のある教皇でした。にもかかわらず、教会を刷新できるのは、この教皇ではなく、小さく取るに足りない修道士なのです。その人こそが神が招いた、聖フランチェスコだったのです。しかし、もう一つのことに注目することが重要です。それは、聖フランチェスコが教会を刷新したのは、教皇抜きにでも、教皇に反対してでもなく、むしろ教皇との交わりのうちに初めてそれができたということです。二つのことはともに歩みます。すなわち、ペトロの後継者、司教、使徒継承に基づく教会と、今この時に教会を刷新するために聖霊が造り出す新しいカリスマです。この二つが一緒になって真の刷新を生み出すのです。
  聖フランチェスコの生涯に戻ります。父ベルナルドーネ(Pietro Bernardone)が貧しい人々への度を超えた気前のよさを叱ったために、フランチェスコは、アッシジの司教の前で、象徴的な行動として、衣服を脱ぎました。こうして彼は父からの財産を放棄することを望みました。創造のときと同じように、フランチェスコは無一物でした。彼が手にしていたのは、神が与えてくれたいのちだけでした。この神のみ手に彼は自分をゆだねたのです。その後フランチェスコは、1208年に別の根本的な意味をもつ出来事が彼の回心の歩みの中で起きるまで、隠修士として過ごしました。マタイによる福音書の一節――それは、イエスが使徒たちを宣教に派遣することばでした――を聞いたフランチェスコは、自分が清貧のうちに生きて、説教に献身するよう招かれていると感じました。他の仲間も加えて、1209年、フランチェスコはローマに行きました。それは、教皇インノケンティウス3世に新しいキリスト教的生き方を行う計画を提出するためでした。フランチェスコはこの偉大な教皇から父の愛をもって迎え入れられました。教皇は、主の照らしを受けて、フランチェスコが始めた運動が神から来るものであることを見抜いたからです。「アッシジの貧者」は、聖霊が与えるすべてのカリスマを、キリストのからだである教会に奉仕するために用いなければならないことを悟りました。そのため彼は、つねに教会の権威者との完全な交わりのうちに行動しました。聖人たちの生活においては、預言のカリスマと統治のカリスマの間の対立は存在しません。もし何らかの緊張関係が生じた場合、聖人たちは忍耐強く聖霊の示す時を待つことができるのです。
  実際には、19世紀また20世紀の一部の歴史学者は、いわゆる伝統のフランチェスコの裏側に、いわゆる歴史的フランチェスコを造り出そうと努めました。福音書のイエスの裏側にいわゆる歴史的イエスを造り出そうと努めるのと同じようにです。この歴史的フランチェスコは教会の人ではなく、キリストとのみ直接結ばれた人と考えられました。彼は、教会法も位階制度もない、神の民の刷新を行おうと望んだというのです。真実はこうです。聖フランチェスコは本当の意味で、イエスと神のことばとの直接の関係をもっていました。彼はイエスと神のことばに、「いかなる注釈もなしに(sine glossa)」、そのまま、その徹底性と真理を少しも曲げずに従うことを望みました。このことも真実です。フランチェスコは当初、必要な教会法的規定を備えた修道会を作るつもりはありませんでした。むしろ彼は、神のことばと、ともにおられる主とともに、ただ神の民を刷新したいと望んだだけでした。それは、神の民がみことばにあらためて耳を傾け、キリストに文字通りに従うよう呼びかけるためでした。さらにフランチェスコは知っていました。キリストは決して「わたしの」キリストではなく、つねに「わたしたちの」キリストです。「わたし」がキリストを所有し、教会に反対してキリストのみ心と教えを再構築することなど不可能です。むしろ、使徒継承の上に築かれた教会との交わりのうちに、初めて神のことばへの忠実も新たにされるのです。
  実際のところ、フランチェスコが意図していたのは、新しい修道会を作ることでもありませんでした。彼はただ、来るべき主のために神の民を新たにしようとしただけです。けれどもフランチェスコは、苦しみと痛みをもって悟りました。万事は秩序をもたなければならないことを。そして、教会法さえも、刷新に形を与えるために必要とされることを。そこでフランチェスコは、教皇や司教たちを含めた教会との交わりに、心から完全な意味で加わりました。フランチェスコはつねに、教会の中心が聖体であることを知っていました。聖体のうちにキリストのからだと血が現存するからです。司祭職を通じて、聖体は教会となります。司祭職があるところで、キリストと教会の交わりはともに歩みます。神のことばも教会のうちにのみ宿ります。歴史的フランチェスコと教会のフランチェスコはまさにこのようなしかたで、信者でない人、他の教派・宗教の信者にも語りかけました。
  フランチェスコと、ますます数を増したその兄弟は、ポルティウンクラのサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂に住みました。サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂はフランシスコ会の霊性の優れた意味での聖地です。アッシジの貴族の家庭出身の若い女性クララ(Clara 1193/1194-1253年)もフランチェスコの学びやに加わりました。こうしてフランシスコ会第二会、すなわちクララ会が創立されました。クララ会という、このもう一つの体験は、教会において目覚しい聖性の実を生み出すことになります。
  インノケンティウス3世の後継者の教皇ホノリウス3世(Honorius III 在位1216-1227年)は1218年の勅書『クム・ディレクティ』(Cum dilecti)をもって初期の小さき兄弟会の特別な発展を支持しました。小さき兄弟会はヨーロッパ諸国で宣教を始め、モロッコにまで達しました。1219年、フランチェスコはエジプトでスルタンのマリク・アル=カミル(Al-Malik al-Kamil 1180-1238年)と会談を行い、そこでイエスの福音を宣教する許可までも得ました。わたしは聖フランチェスコの生涯におけるこの出来事を強調したいと思います。それは大きな現代的意味をもつからです。キリスト教とイスラーム教が衝突していた時代に、信仰と自らの柔和という武具のみを意図的に身に着けたフランチェスコは、力強く対話の道を歩みました。年代記は、イスラームのスルタンがフランチェスコを心から温かく歓迎したと述べています。これは現代においてもキリスト教徒とイスラーム教徒の関係を力づけるべき模範です。キリスト教徒とイスラーム教徒は、真理と、相互の尊敬と、相互理解のうちに対話を推進しなければなりません(『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』3参照)。その後1220年にフランチェスコは聖地を訪問したと思われます。彼がまいた種は多くの実を結びました。すなわち、イエスが特別に宣教を行った地におけるフランチェスコの霊的な子らです。今日わたしはフランシスコ会聖地準管区の大きな貢献を感謝のうちに思い起こします。
  イタリアに戻ると、フランチェスコはフランシスコ会の統治を総長代理のピエトロ・カターニ(Pietro Cattani 1221年没)修道士にゆだねました。教皇も、ますます会員を集めていたフランシスコ会をウゴリーノ枢機卿(Ugolino 1170頃-1241年)、後の教皇グレゴリウス9世(Gregorius IX 在位1227-没年)の保護にゆだねました。会の創立者フランチェスコは完全に説教に専念しながら(説教は大きな成功を収めました)、後に教皇の認可を受ける『会則』(Regula)を起草しました。
  1224年、ラ・ヴェルナの隠修所で、フランチェスコはセラフィムの形をした十字架につけられたキリストを見ました。そして、この十字架につけられたセラフィムとの出会い以降、彼は聖痕を受けました。こうしてフランチェスコは十字架につけられたキリストと一つになりました。それゆえ、このたまものはフランチェスコの主との深い一致を表します。
  フランチェスコが死んだ――すなわち、帰天(transitus)した――のは1226年10月3日の晩、ポルティウンクラにおいてでした。霊的な子らを祝福した後、フランチェスコは裸で大地に身を横たえながら亡くなりました。2年後、教皇グレゴリウス9世はフランチェスコを聖人の名簿に加えました。ほどなくして、フランチェスコをたたえるためにアッシジに大聖堂が建てられました。この大聖堂には今日でも多くの巡礼者が訪れています。巡礼者は聖人の墓を崇敬し、ジョット(Giotto di Bondone 1267頃-1337年)のフレスコ画を見ることができます。この画家はフランチェスコの生涯をすばらしい形で描きました。
  フランチェスコは「もう一人のキリスト(alter Christus)」の姿を示すといわれてきました。彼はまことにキリストの生きたイコンでした。フランチェスコは「イエスの兄弟」とも呼ばれました。実際、イエスに似た者となること、福音のキリストを観想し、キリストを深く愛し、キリストの徳に倣うこと――これがフランチェスコの理想でした。とくに彼は内的・外的な清貧を根本的に重んじ、これを自分の霊的な子らにも教えました。山上の説教の第一の幸い――「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5・3)――は、聖フランチェスコの生涯とことばのうちに輝かしく実現しました。親愛なる友人の皆様。聖人たちはまことに聖書の最高の解釈者です。彼らは神のことばを自らの生涯の中で受肉させながら、それをいっそう魅力的なものにします。それは、神のことばが本当にわたしたちに語りかけるようにするためです。フランチェスコは献身と完全な自由をもってキリストに従うために清貧を愛しました。このフランチェスコのあかしは、わたしたちをも、内的清貧を培うようにと招き続けます。内的清貧は、神への信頼を深めるとともに、簡素な生活様式と物質的富からの離脱を一致させます。
  フランチェスコにおいて、キリストへの愛は、至聖なる聖体の秘跡の礼拝によって特別な形で表されました。『フランシスコ資料集』(Fonti Francescane)にはさまざまな感動的表現が見いだされます。たとえば次のものがそれです。「全人類は恐れます。全宇宙はおののき、天は叫び声を上げます。祭壇上の司祭の手の中に、生ける神の子キリストがましますからです。ああ驚くべき恵みよ。ああこの上ないへりくだりよ。宇宙の主、神であり神の子であるかたが、これほどまでに身を低くして、わたしたちの救いのため、つつましいパンの形のもとに身を隠しておられるのです」(Francesco di Assisi, Scritti, Editrici Francescane, Padova 2002, 401)。
  「司祭年」にあたって、フランチェスコが司祭にあてて述べた勧告を思い起こせることをうれしく思います。「ミサをささげたければ、それを清い形でささげることはいうまでもないことですが、主イエス・キリストの至聖なる御からだと御血のまことのいけにえを畏敬の念をもって行いなさい」(Francesco di Assisi, Scritti, 399)。フランチェスコはつねに司祭を敬いました。そして、司祭をつねに尊敬するようにと勧告しました。たとえ司祭が個人としてあまりふさわしい者でない場合もです。彼はこの深い尊敬の理由を、司祭が聖体を聖別するたまものを与えられていることに見いだしました。親愛なる司祭職にある兄弟の皆様。聖なる聖体は、わたしたちが清い者であることを求めます。それは、自分たちが祝う神秘と一貫した形で生きるためです。この教えを忘れずにいようではありませんか。
  キリストへの愛から、人間とすべての神の被造物への愛が生まれます。ここにフランチェスコの霊性のもう一つの特徴があります。すなわち、普遍的な兄弟愛と、被造物への愛です。これが有名な『太陽の歌』に霊感を与えました。これはきわめて現代的なメッセージです。最近の回勅『真理に根ざした愛』で述べたとおり、唯一、持続可能な発展は、被造物を尊重し、環境を破壊しない発展です(同48-52参照)。今年の「『世界平和の日』メッセージ」の中で、わたしは、堅固な平和を築くことは被造物の尊重と結びついていることを強調しました。フランチェスコは、被造物のうちに造り主の知恵といつくしみが示されていることを思い起こさせてくれます。フランチェスコは、自然は、神がその中でわたしたちに語りかけることばだと考えました。自然の中で、現実は透明になり、わたしたちは神「について」、神「とともに」語ることができます。
  親愛なる友人の皆様。フランチェスコは偉大な聖人であるとともに、喜びに満ちた人でした。フランチェスコは、その単純さ、謙遜、信仰、キリストへの愛、すべての人へのいつくしみによって、どんなときにも喜ぶことができました。実際、聖性と喜びの間には深く切り離すことのできない関係があります。あるフランス人の著作家がこういっています。世界にはただ一つの悲しみがあります。それは聖人でない悲しみです。神の近くにいない悲しみです。聖フランチェスコのあかしを見れば、次のことが分かります。聖人であること、神の近くにいること、これこそが真の幸福の秘訣です。
  フランチェスコがこよなく愛したおとめであるかたの助けによって、わたしたちがこの恵みを得ることができますように。わたしたちは「アッシジの貧者」が述べたのと同じことばで自分をこのおとめにゆだねます。「聖なるおとめマリアよ。この世で生まれた女の中で、たぐいのないかた。最高の王、天の父であるかたの娘であり、はしためであるかた。わたしたちの至聖なる主イエス・キリストの母。聖霊の花嫁よ。わたしたちのために祈ってください。・・・・主であり、師である、あなたの至聖なる愛する子に」(Francesco di Assisi, Scritti, 163)。

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