1987年「世界平和の日」教皇メッセージ

1987年「世界平和の日」メッセージ
(1987年1月1日)
「発展と連帯:平和への二つの鍵」

1987年「世界平和の日」メッセージ
(1987年1月1日)

「発展と連帯:平和への二つの鍵」

1.すべての人々へのアピール・・・・・・
 教皇パウロ6世は、平和こそが「新しい年にもたらされる発展を治める」という希望と確信によって、元日を「世界平和の日」として祝うよう善意あるすべての人々に呼びかけられました。(AAS 59,1967,P.1098)。20年たった今、わたくしは再びこのアピールを人間家族すべての構成員に向かって繰り返します。わたくしとともに平和を考え、平和を祝ってくださるようにお願いします。今日のような困難の真直中で平和を祝うことは、人間性への信頼を高らかに告げることです。

この信頼ゆえに、わたくしは全世界のすべての人の普遍的な願望である平和をともに祝い、学べると確信してこの呼びかけをしています。わたくしたち全員が、この平和への願望を分かち合えば、すべての人々のための平和を、全員で達成しようという思いと努力で一つになれるのです。

 わたくしが選んだ今年の「平和の日」のテーマは、人類の深い真理、すなわち「わたくしたちは一つの人間家族である」ということです。この世に生を受けたというだけではなく、わたくしたちは他のすべての人々とともに家族であり、同じ家計の中にあるのです。この一つであるということは、人間家族の異なる種族、文化、言語や歴史におけるあらゆる豊かさと多様性のうちに表現されています。そして、人間家族の基礎となる連帯は、地球上での共存・共生という根本的事実を認識することから生まれます。

 1987年は回勅「諸民族の進歩推進について」( ポプロールム プログレッシオ) の 発布20周年に当たります。教皇パウロ6世の回勅は、人々の総合的発展を目指しての協調的働きを支持する荘厳なものでした(「諸民族の進歩推進について」5番参照)。教皇パウロ6世の「発展とは平和の新しい名です」(5番76,87 )という文言は、わたくしたちの平和探究へのひとつの鍵を明記しています。男や女や子どもたちが人間の尊厳を充分に生きることなくして、本当の平和があるといえるでしょうか?他者を犠牲にして、特定のグループや国家の利益となるような社会、経済、政治的関係で支配される世界に、永続的な平和がありえましょうか?わたくしたちは父である神の似姿として等しく創られているからこそ、同じ尊厳をもつという、際立った真理を適切に認識することなくして、本物の平和が確率されるでしょうか?

2.連帯についての考察・・・・・・
20回目の世界平和の日のメッセージは、昨年の「東西、南北-ひとつの平和」のテーマと密接な関係があります。私はそのメッセージで「・・・人間家族の一致は、わたくしたちの生活と平和に対するひたむきな努力に対して、非常に現実的な影響を及ぼすものです・・・人間家族の一致とは、わたくしたちが新しい連帯、人間家族の連帯・・・新しい関係、すべての人による社会的連帯へ取り組むという意味です」(4番)と強調しました。

 人間家族の社会的連帯を認めることは、わたくしたちが一致することを基に、ことを進める責任をになうということです。それは基本的に他者に譲渡できない人権を授けられた者として、すべての人の等しい尊厳を効果的にまた例外なく促進することを意味します。それは家庭生活や、地域共同体、世界における営みと同様に、わたくしたち個々人の生活のあらゆる領域に影響を及ぼします。わたくしたちが、共通の人間性において兄弟、姉妹であることを一度把握するなら、わたくしたちを一つにする連帯の見地から、生活への姿勢を決定できます。この決定は平和という根本的で普遍的な課題に取り組む際に、特に本質的な要素です。

 わたくしたちの生涯には、人類が一つであることを非常に意識して、そのために協力しようとした時期や出来事があります。初めて地球の写真を宇宙から見ることができたその時以来、わたくしたちの惑星やその無限の美ともろさに対する理解にかなりの変化が生じました。宇宙探究の業績の結果「全人類の共通の遺産」という表現に、新しい意味が付加されました。異なった芸術や文化の豊かさを相互に分かち合うことと比例して、人類の共通性をも発見できるようになったのです。若者たちは、特に地域や世界的なスポーツ大会やそれに類する活動を通じて、一つであるという感覚や兄弟性の絆を強めています。

3.実行に移すに際して・・・・・・
 同時に、近年災害に見舞われたり、戦争や飢餓にさらされている人々に兄弟、姉妹としての手を差し伸べる機会がしばしばあります。わたくしたちは政治的、地理的、あるいは思想的な境界線を越えて、人間家族のより恵まれていない仲間を援助しようとする、集団的な望みが強まっていることを目のあたりにしています。アフリカのサハラ砂漠南部の兄弟姉妹の、今もなお続いている悲劇的な苦悩は、世界の至る所で人類の連帯の在り方を具体的に示す機運を生みました。わたくしが1986年にタイのカトリック緊急援助団体と難民事務局(COERR)に対して教皇ヨハネ23世国際平和賞を贈った理由は、まず自国を追われて絶間ない困窮のさなかにある人々に対して世界の注目を向けさせたかったからです。次いでカトリックとそうでない人々の、多くのグループが、家や食べ物もなく悲嘆に暮れている人々の必要に応えようとして発揮した、協力と共同の精神を強調したかったからでした。そうです、人の心は仲間たちの苦しみみに対し、卓越した寛大さで応じるのです。この応答の中に社会的連帯が増大しつつあることに気づきます。つまり、わたくしたちが一つであること、また一つであることを認めねばならないこと、それが個人と国家にとっての共通善の本質要素であることを、言葉と行為で宣言しているのです。

 これらの実例は、わたくしたちに、様々な方法で協力しうること、共通善の促進に協働しうることを示しています。しかしながら、わたくしたちにはもっとなすべきことがあります。それは、わたくしたちは人類に対し、また世界のすべての人々やあらゆるグループとの関係について、基本的態度を決定し採択する必要があるということです。ここにおいて、いかに全人類家族の連帯への決意が平和への鍵となるかが分かります。人類の善や人々の間の善意を促進する計画は連帯実現への第一歩です。苦しんでいる人々の手助けへと駆立てる共感や愛の絆は、別の方法でわたくしたちが一つであることを前面に打ち出します。しかしながら、わたくしたちが心すべき挑戦は、全人間家族との社会的連帯への姿勢を選ぶことです。この姿勢であらゆる社会的、政治的状況に向かうことです。

 こうして、例えば国連機構は「1987年」を、家のない人々に住まいを、との願いを込めて「国際住居環境年」を制定しました。それによって、人間らしい生活に必要な最低の環境すらない何百万もの家族に対する、人道的、政治的、経済的な連帯の態度を支援し、注目を喚起しようとしています。

4.妨害の現実を乗り越え・・・・・・
 残念ながらこうした連帯への妨げは、枚挙にいとまがありません。連帯達成に悪影響を及ぼすものとして、人間の根源的な平等と尊厳を無視ないしは否定する思想や政策があります。わたくしはこられの中で特に、次のことを憂慮しています。

---外国人嫌いは、国民を自分たちだけに限定したり、国家が国内にいる外国人を   差別するような法律の制定へと向かわせます。 ---勝手に道理にあわない方法で国境を閉鎖することは、人々の自由やよりよい生   活、愛する人々との解逅、家族訪問や他者への関心や理解を示そうとする可能   性を奪っています。 ---憎しみや不信を宣伝するイデオロギーや人為的に制約を規定する体制も妨げの   ひとつです。 人種的差別、宗教的不寛容、階級差別は多くの社会に公然とあるいは内密におこなわれています。もし政治的な指導者が、国策や外交政策にこのような分裂や制限を制定するなら、こうした偏見が人間の尊厳の中核を破壊します。それが反動の有力なよりどころとなり、さらに分裂、敵対、抑圧や争いを押し進めます。昨年、人々を苦しめ、社会に大混乱を巻き起こしたもうひとつの悪にテロリズムをあったことも忘れてはなりません。

 効果的な連帯はこれらのすべてに対しての解毒剤です。なぜなら連帯の本質的な特徴が、すべての男女の根本的な平等性にあるとするなら、どんな人やどんなグループの人であっても基本的な尊厳と人権に矛盾するいかなる政策も受け入れることはできないからです。むしろ、人々の間に開かれた誠実な関係を樹立し、正当な同盟を促進し、名誉ある協力によって人々を結びつける政策や計画が、推進されることでしょう。こうした動きは人々の間の実際の言語、種族、宗教、社会、文化の相違を無視することはありません。また、長年にわたる分裂や不正の克服に伴う多くの困難を否定しません。たとえどんなに無力に見えても、人々を結びあわせる諸要素に最高位を与えます。

 連帯の精神は対話に開かれている精神です。真理に根ざすと同時に、発展していくために真理を必要とします。破壊するよりも打ち建てることを、分裂よりも一致をもとめる精神です。連帯は普遍的な望みなので様々な形態をとります。地域間の合意は、共通善を促進し、相互交渉を励まし、緊張を緩和します。災害防止や特定地域の生活改善となるような技術や情報の分かち合いは、連帯の一助けとなり、広いレベルでのさらに進んだ調整を容易にします。

5.発展についての考察・・・・・・
 人間の真剣な取組みにおいて、恐らく発展という分野以上に社会的連帯を必要とする分野はないでしょう。20年前に教皇パウロ6世が、あの有名な回勅でいわれたことの多くは今日特に適用されます。教皇は非常にはっきりと、社会的な疑問が世界の中で取沙汰されるのを見ていました(「諸民族の進歩推進について」3番)経済的発展だけでは不充分であり、社会的進歩が要請されるという事実に最初に注目させた人です(前掲書35番)。さらに教皇は、発展は総合的でなければならないと主張しました。すなわち個々人の発展と全人的発展です(前掲書14-21参照)。彼は完全な人間尊重(ヒューマニズム)の立場に立っています。それは人間のあらゆる領域における完成された発展であり、「人生にまことの意味を与える」(前掲書42参照)絶対者に向かうものです。このような人間尊重(ヒューマニズム)は誰でもが探究しなければならない共通目標です。「個人のあらゆる次元での進歩は、人類の連帯精神にもとづいた進歩と軌道を一にしたものでなければなりません」(前掲書43番)。

 20年後の今、わたくしは教皇バウロ6世の教えに敬意を払いたいと思います。今日の変化した状況において、教皇の深い洞察、特に発展における連帯の精神の重要さはいまなお有効であり、新しい挑戦に強力な光を投げているからです。

6.今日 その適応
 発展の分野で連帯に取組むことを考察する時、最初の、そして最も根本的な真理は、「発展とは人々の問いである」ということです。人々こそは真の発展の主体であり、目的です。人々の総合的な発展が到達目標であり、すべての発展計画の基準です。全人類が発展の中心であることは、とりもなおさず人間家族が一つであるからです。このことは、将来に起きるであろういかなる技術的、科学的発見によって左右されるものではありません。生活条件の改善のために集められるすべての焦点は、人々にこそあるのです。真の発展過程においては、人々は積極的に活動にかかわり、受信的受容者は誰一人いないはずです。

 連帯にかかわる発展の他の原則は、個人と社会の本当の利益となる価値を助長することです。必要としている人々に手を差し伸べるだけでは充分ではありません。わたくしたちは、かれらが新しい生活を建設して社会の中に尊厳と正義に基づく正当な権利を有する場を見いだせるよう協力しなければなりません。すべての人々は、良いもの、本当のものを求め、手に入れる権利を持っています。すべての人々には、生活を向上させるものを選ぶ権利があり、社会生活は決して道徳的に中途半端なものではありません。社会的選択は、社会にある人々の真の良さを促進するか、または、 引下げるか、いずれかの結果をもたらします。

 発展の分野で、特に発展援助の分野において、「無償」といいながら、結果的にはその値として生命を要求するような計画が提出されることがあります。経済的成長を目的に、避妊計画や中絶方法などを強要する政府の計画やそれらの援助についての申請は、人間の真の自由と品位を否定することなので、人間家族の連帯を脅かすものであると、確信を持ってはっきりと宣言しなければなりません。

 生活の向上を目指す価値の選択が個人的発展につながることは、社会の発展にもそのまま適応されます。真の自由を妨げるものは、何であれ社会と社会制度の発展の妨げとなります。搾取、脅迫、力による支配、社会のある団体が他の団体と交流することの否定は、容認できませんし、人間連帯の発想に矛盾します。社会や国家間でのこのような現実は、残念ながらしばらくの間は成功しているようにみえます。しかしこのような状況が長く続けば続くほど、それは、より長びく抑圧と暴力を増大させる原因となりうるのです。破壊の種は、すでに制度化された不正の中に蒔かれました。ある地域およびある国に対する発展の手段を否定することは、その地域の人々を社会的不安へと陥れます。それは憎悪と分裂を引き起こし、平和への希望を破壊することなのです。

 総合的発展を育む連帯は、すべての人々の正当な自由と、すべての国の正義に基づく安全を守り、保障するものです。この自由と安全なしに発展の真の条件を満たすことはできません。個人だけではなく、国家においても国民に影響をおよぼす選択にあたっては、これらのことを配慮しなければなりません。国家家族での同等の仲間として、その成長と発展を確保するのに必要な自由があるか否かは、相互の尊敬にかかっているのです。経済、軍事、政治的優越感を他の国々への権利という形で追求するなら、真の発展も、真の平和も脅かされるでしょう。

7.連帯と発展: 平和への二つの鍵
 以上の理由から、わたくしは今年、連帯と発展を平和への鍵として考えるよう提唱しています。この二つの現実はそれぞれ特有の意味を持っています。わたくしたちが目指す目標実現には双方を必要とします。連帯はその本質において倫理的なものといえます。連帯は人間性の価値を肯定するからです。したがって、地球のうえでの人々の営みと国際的な諸関係もまた倫理的なものになります。すなわち、人類共通の絆は、わたくしたちが協調して生活し、相互の善を促進するように求めます。なぜ連帯が平和への根本的な鍵であるかの理由はこの倫理的かかわりあいにあるのです。

 この同じ光に照らされて、発展は完全な意味をおびてきます。もはやある状況や経済条件を改善することではありません。発展は究極的に平和への問いです。それは、他者や人間共同体全体にとって善となることを達成しようとする努力を生むからです。

 真の連帯のもとには、搾取や、少数の利益をもとめての発展計画の乱用という危険もありません。むしろ発展はこうして同じ人間家族の異なる構成員相互のかかわりを通して、かれら自身を富ませる過程となります。連帯が行動の倫理的根拠であり、発展は兄弟に手を差出して兄弟となることですから、両者は人間文明の顕著な特徴である、あらゆる多様性と相互補完性のなかで、より豊かに息づくことができます。この原動力から、真の平和である調和のとれた「秩序ある安定」が生まれます。そうです。連帯と発展は平和への二つの鍵です。

8.現代のいくつかの問題・・・・・・
 1987年初頭に世界が直面する多くの問題は、極めて複雑で、ほとんど解決不可能のように見えます。しかし、人間家族はひとつであり、平和は実現可能であると確信するなら、平和の鍵である連帯と発展についての共通な考察が、これらの重大な事柄へ多くの光をあたえてくれることでしょう。

 多くの発展途上国が負っている対外負債問題については、それに関係する人々が、評価や対策において、今まで述べてきたような倫理的考察を意識的に加えるなら、確かに新しい見方が可能でしょう。この事柄をめぐる多くの局面--保護貿易主義、資源の価格、投資の優先権、負債国の国内条件の考慮と契約履行への遵守等--は連帯して安定した発展を追求しながら解決策をさがすことによって、多くの効果をもたらすでしょう。

 科学および技術面では新しく強力な分裂が技術所有者とそうでない者との間に生じています。このような不平等は平和と調和のとれた発展を促すものではなく、むしろすでに存在している不平等の状況を、一層ひどくします。発展の主体と目的が人々であるなら、技術的に遅れている国々への寛大な技術的援助は、連帯の倫理的規範です。したがって、技術的に遅れている国々を疑わしい実験の試験場にしたり、問題となる廃棄物の処理場や捨て場とすることはなくなるはずです。国際機関やある国では、この分野に顕著な努力が傾けられています。このような努力こそ、平和への重要な貢献といえます。

 現代世界が直面している、最も重大な問題である軍備縮小と発展に関する最近の資料は、現実の東西緊張と、南北不平等が世界平和に重大な脅威を与えている、との事実を指摘しています。人々および国々の安全が保障されている平和な世界は、発展と軍備縮小のために積極的に連帯するよう求めています。すべての国々は、当然、他の国々の貧しさから影響を受けます。軍備縮小の話し合いによる結論がでないため、すべての国々は苦しんでいます。また人の生命という高い代償を払った、地域戦争と呼ばれる戦争を忘れることはできません。すべての国々は、世界平和のための責任があります。そしてこの平和は、兵器に基づいた安全が、人間家族の連帯に基づく安全に置き換えられるまでは、築きあげることはできません。正当な防衛に必要な最低限の兵器にとどめ、発展途上国の自立を助ける手段を拡大してくださるよう、もう一度、わたくしは皆さまにお願いします。このようにしてのみ、共同体は真の連帯をいきることができるのです。

 平和を脅かすもうひとつの原因、つまり世界中であらゆる社会をその根底からゆるがしていることがらがあります。それは家族の崩壊です。家族は社会の基本的細胞です。家族は発展が生じるか生じないかの最初の場です。もし家族が健康で健全であるなら、社会全体の発展の可能性は多大なのです。しかし、多くの場合、現実はそうではありません。

 多くの社会では家族は第二義的な要素になりました。家族は多方面からの干渉によって相対的に扱われ、多くの場合、必要としている保護と支援を国家から受けていません。その構成員が活躍できるような環境を育み、供給する正当な手段にも欠けています。家族崩壊の現象、生き残るために別離を強要された家族、家族として生活する家を見つけられなかった人々など、これらすべては人道的未開発のしるしであり、その価値観を混乱させている社会のしるしです。人々および国家が健全であるとの基本的尺度は、家族の発展にどれほどの重要性が与えられているかにあります。家族にとって有益な条件は社会および国家の調和を促進し、これが家庭で、また世界で平和を育むのです。

 今日わたくしたちは、捨てられたり、市場で働かされているこどもたちの驚くべき光景を目にします。貧民街や非常な大都市でこどもたちを数多く見かけます。かれらにはほんのわずかの食べ物しかなく、将来への希望はほとんどありません。家族構成の崩壊、その構成員の分散、特に非常に若いこどもたちの分散があり、必然の結果として、麻薬の乱用、アルコール中毒、一時的で無意味な性交渉と、他の人による搾取などがのしかかってきます。このような現実であるからこそ、人間家族は社会的連帯を通して全人格の発展を育成しようとするのです。相手の目を見ること、兄弟、姉妹の望みや心配を知ることは、連帯の意味を発見することです。

9.わたくしたちへの挑戦
 平和は危険にさらされています。国内での平和と国家間での平和(「諸民族の進歩推進について」55番参照)が危険にさらされています。教皇パウロ6世は、20年前、このことを明確につかんでいました。教皇は、世界における正義の要求と世界平和の可能性との間に、本質的な関連を見とりました。回勅「諸民族の進歩推進について」が発布されたその同じ年に、「世界平和の日」が制定されたのは単なる偶然の一致ではありません。そして、わたくしは彼の発意を、喜びのうちに継承しています。

 教皇パウロ6世は、平和の鍵としての連帯と発展に関する、今年の考察の中心的考えを、すでに書きあらわしています。教皇はいいます。「平和とは、いつ壊れるかわからない、力の均衡の結果である戦争のない状態とは違います。それは、神の望まれた秩序を打ちたてようとする日々の努力のうちに形造られて行くものであり、その秩序の中で、より完全な正義が人々の間を律して行くものなのです。」(前掲書 76番)
10.神を信じる者、特にキリスト者のかかわり・・・・・・
 神を信じているわたくしたちは、皆が切望している調和のとれた秩序が、たとえ不可欠な要素であっても、単なる人間的努力だけでは獲得できないと確信しています。この平和、すなわち、個人の平和と他の人々の平和は、同時に、祈りと観想のうちに追及されなければなりません。こう言いながら、わたくしはアシジで最近開催された「世界平和を祈る集会」での感動的な体験を思いおこしています。宗教的指導者、キリスト教会の代表者、教会共同体、そして世界の諸宗教が、平和のための祈りと観想を通して、連帯の生きた姿を具現したのです。参加者全員にとっては、目にみえるかかわり合いであり、他の多くの人々は精神的にわたくしたちに結ばれていたのです。平和を追及し、平和を作る者となるため、心の強い結びつきによって、正義が栄え、平和にみちた社会を築くよう働く(詩編 72:1参照)ための連帯でした。

 詩編作者がわたくしたちに描いて見せている公正な指導者とは、貧しい人や苦しんでいる人に、正義を与える人です。「彼は、貧しい者に心を配り、貧しい者の命を救い、その命を圧迫と暴カから解く・・・・」(詩編 72:13-14)。これらの言棄は、今日わたくしたちの眼前におかれます。アシジでの集会に跡を残した平和への願望が、すべての信仰している人々、特別な意味でキリスト者の原動カとなるよう切望してやみません。

 なぜならキリスト者は、霊感を受けた詩編の言葉に、主イエズス・キリスト、すなわち傷ついた者や苦しむ人を癒し、貧しい人に福音を伝え、抑圧された者に自由を与えられた方の姿を見出すからです。イエズス・キリストこそ「わたくしたちの平和」と呼ぶかたであり、平和を築くために「憎しみの壁を打ち壊した」かた(工フエゾ 2:14)です。そうです。まさにこの平和を作り出そうとの切望が、アシジの集会を満たし、将来どのようにこの平和の日を開催して行くかについて実践的考察をするようわたくしたちに呼びかけています。

 わたくしたちもまたキリストのようになり、和解を通して平和の建設者になるよう招かれています。すべての人々、すべての国々に正義をもたらすよう働きながら、地上に平和を建設する仕事を通して、キリストの協力者となるよう招かれています。わたくしたちは、人類連帯を完壁に実現した次のキリストのみ言葉を決して忘れてはなりません。「他人からしてほしいと思うことを、あなたたちも他人に行え。これが、律法であり預言者である」(マタイ 7:12)。この命令が実行されない時には、キリスト者は、自らが分裂を引き起こし、罪を犯しているのだと認識しなければなりません。この罪は、信仰共同体および社会全体に深刻な影響をおよぼします。なぜなら、それは、生命の創造者であり、生命を維持される神に背くことだからです。ナザレトでのマリアとヨゼフの隠れた生活の時から、イエズスが見せた思恵と知恵は、わたくしたちの家族、国家、そして世界における相互関係の模範です。主キリストの公生活で際立っている言葉と行いによる他者への奉仕は、人間家族の連帯が、根本的に拡大され、深められたことを示してくれます。正義と平和のためになされる努力を、気高いものとする、超越的な目標が与えられました。

 最後に、世界がもうすでに知っている連帯の究極的行為があります。すべての人々のための、イエズス・キリストの十字架上の死は、わたくしたちキリスト者のとるべき道を示してくれました。平和への努カを効果的なものとするためには、主キリストの超越的能力をわけあたえて頂かなければなりません。キリストの死は、この世に生を受けたすべての人々に命を与え、キリストの死からの勝利は、連帯と発展とが要求している正義が、永続する平和に道を開いてくれるという決定的な補償となったのです。

 キリスト者のあらゆる努力の中に、イエズス・キリストを救い主、また主として受けいれる姿努が反映しますように。また、社会的連帯の精神のうちにわたくしたちの祈りが人々の発展を願い、平和の根源にかかわり続けていきますように心から願iっています。

11.最後のアピール・・・・・・
 わたくしたちは、ともに新しい年、1987年を迎えました。人類が過去の分裂に決定的な終りを遂げる年、人々が心から平和を求める年となりますように。このメッセージが連帯の一つである人間家族へのかかわりあいに、あなたがた一人ひとりをもっと深く結ぶ機会となりますように。社会で、人間のあらゆる価値を育む総合的発展の中で、すべての兄弟、姉妹の真の善を追及するようカづける拍車となりますように。

 このメッセージのはじめに、わたくしは、連帯というテーマに促され、全世界のすべての人々に新年のこ挨拶をしようと思いたったと言いました。そして今、この同じ呼ぴかけをあなたがた一人ひとりに探り返します。しかし次のような方法で特別なアピールをしたいと思います。

一政府の指導者およぴ国際機関の責任者に:平和を確保するため、個人と国家の総合的発展への努カを倍増してください。

一アシジにおける世界平和を祈る日の参加者全員、また精神的にわたくしたちとともにいた人々に:世界平和の証人となってください。

一若い兄弟、姉妹、世界の若者たちに:全世界の若者との兄弟的連帯による新しい平和のきずなを作り出すため、あらゆる手段を講じてください。

 そしてわたくしは暴力とテロリズムを行使している人々にも聞いてもらえるとの望みをもって、あえてこの呼ぴかけをします。少なくとも、今わたくしの声に耳を傾けているあなたがたに、以前にもした同じお願いを操り返えします。目標を暴力行為という手段で獲得しようとする誤りからぬけでてください。

 目標それ自体は正当であっても、無実な者を殺したり、傷つけたりすることから離れるよう懇願します。社会の秩序ある組織を傷つけないでください。あなたがた、また他のだれであっても暴カによって真の正義を獲得することはできません。もし望むなら、自分を変えることができます。あなたには自分の人間性を宜言し、人間の連帯を認めることができるのです。

 どこにいても、何をしていても、すべての人の顔に、兄弟、姉妹をみるようにしてください。わたくしたちを結びつけるものは、わたくしたちを離し、分裂させるものよりもはるかに多くあります。すなわちそれは、共通の人間性です。

 平和とはいつも、神の贈り物であり、また、わたくしたちにかかっているものです。そして平和への鍵は、わたくしたちの手の中にあります。すべての扉を開けるために、それを使うか、使わないかは、わたくしたち一人ひとりにかかっているのです。

1986年12月8日
  バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

PAGE TOP