1981年「世界広報の日」教皇メッセージ

1981年「世界広報の日」教皇メッセージ 広報と自由に伴う責任 1.教皇ヨハネ・パウロⅡ世は、「自由」について、繰り返し説いています。『人間の贖い主』および『いつくしみ深い神』という二度の回勅で、重ねて「自由」の重要性を […]

1981年「世界広報の日」教皇メッセージ
広報と自由に伴う責任

1.教皇ヨハネ・パウロⅡ世は、「自由」について、繰り返し説いています。『人間の贖い主』および『いつくしみ深い神』という二度の回勅で、重ねて「自由」の重要性を強調してきました。
「自由」は、人間をして人間たらしめるものである。真の人間であるためには、「自由」でなければならない。「自由」への希求は現代の人間性の根底から発し、普遍的なものである。基本的人権を備えてはじめて、人間には権利や義務が発生する。……回勅はそう述べています。

2.今年1月1日「世界平和の日」に発せられた教皇メッセージも、「自由」を訴えています。「『自由』」に奉仕するために、人は自由に対して敬意を抱かねばなりません」というのが、その一節です。
教皇は、また、2月2日に、つぎのように述べています。「つぎの世界広報の日のテーマは、『責任ある自由に奉仕するための広報』です。取材と報道という使命を果たそうと思えば、どうしても人は自由でなければならず、同時に責任ある自由の行使をすることが肝要です。だから、より大きい責任と、より広汎な自由のためのよりよい情報をこそ、目標にしなければなりません。
情報を通じて、個々の人間は、人類の運命のためにより大きい責任を持つことができるのです。正しい情報がなければ、責任ある行動は不可能になります。なぜなら、人間が責任ある自由を行使するためには、全世界を正しく、そして大きい視野の中に捉えなければならないからです。旧約聖書の「格言の書」には「遠い国から来たよい消息(おとずれ)は、渇いた人が受ける冷たい水のようだ」(第25章25節)とあります。どんな遠い国から来た福音(よいしらせ)も、いっさいの削除や制限を加えられず、一方的な解釈を押しつけられることなく、人々の眼に触れるよう、願わずにはおれません。
しかし、私がすでに何度も説いてきたように、自由を、好き勝手なことをする権利と混同してはなりません。好きなことをする自由は、やがて悪を行なう権利をも要求し始めることでしょう 。私が今日の世界で、あなたがたが讃え、守ってほしいと願う自由とは、人間が人間であるがために必要な自由のことなのです。」

3.今日、報道・広報の機関は、人間生活のほとんど全分野に影響力をふるっています。人間が「自由」を求め、そして実際にそれを得るか失うかは、メディアに左右されることが多いのです。「広報に関する司牧指針」(第13項)は、「報道・広報メディアの重要性と究極的な存在意義は、それを利用する人間の自由な選択にかかっている」と述べています。つまり、報道する人や広報する人と同時に、その受け手のほうにも「自由」がなければならないわけです。理想を申すならば、メディアを通じて受け手に届く膨大な情報と意見は「あらゆる人をして人類社会の前進に参加させなければならない」(前回、第19項)のです。そのための理想は、あらゆるメディアが真実を述べ、それを正しい視野の中に置き、誠実かつ正直に事実を報じることなのです。

4.しかし、現実には、メディアは利用されることによって「社会的・心理的な奴隷制」さえつくっています(現代世界憲章、第5項)。それに目をつむることは、現実を知りながら、あえて無邪気を装うそしりを免れないでしょう。
今日の世界にも、罪はなお生きています。利己主義、侵略、貪欲、野心、権勢欲が横行しているのは事実です。あらゆる人間がこうした悪徳と闘わねばならないと同様、報道・広報に携わる者もこのような罪に打ち勝ち、愛の文明をつくる方向に努力しなくてはなりません。

5.最近しきりに論じられている「世界の新しい報道秩序」について、ここで一言、触れておきたいと思います。アジア、アフリカなどの開発途上国の人々は、彼らの国に伝えられるニュースや報道のほとんどが、はるかに遠い先進国の報道機関によって管理され、歪められている場合が多いと、抗議しています。つまり、第三世界の出来事は、正しい形で世界各地に伝播されていない、というのです。
遅れた開発途上国の声は、私たちの耳にまで、なかなか届きません。貧乏で、自分自身のメディアを持つ資金がないうえ、豊かで強い先進諸国によって情報操作が行われているからです。・・・・・開発途上国のこのような主張がもし事実なら、それは関係国すべての「自由」の侵害ということになります。

6.しかし、開発途上国の側にも、同じほど不幸な事態が見られます。新しく政権を握った人々が、直ちに国内メディアを手中に収め、ニュースの自由な流れを阻止しようと図ることです。これもまた、情報を得る市民の「自由」と表現の「自由」の侵害であります。そうした事態がいかなる場所で起ころうとも、カトリック教会は、あらゆる制限に対して、はっきり反対の立場をとるものです。

7.報道・広報メディアの「自由」が抑制され阻害される方法は、いくらでもあります。国家によるメディア独占、あるいは管理、政党による管理、少数の人によるメディアの一手掌握、大広告主などからの経済的圧力、クローズド・ショップ制を固持する労働組合からの圧力、読者(または視聴者)獲得競争や受け手の下劣な趣味に媚びた利益追求……等々がそれです。そして、いずれの場合も、メディアの「自由」の阻害は、受け手の「自由」の侵害になるのです。世界の至るところで、右に挙げたような圧力が、メディアに対して加えられつつあります。カトリック教会はその誤りを指摘し、よりよい情報の流れのために全力を尽さねばなりません。

1981年5月24日
ヨハネ・パウロ二世

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