教皇ベネディクト十六世の334回目の一般謁見演説 神へのあこがれ

11月7日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の334回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の4回目として、「神への […]


11月7日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の334回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、10月17日から開始した「信仰」に関する新しい連続講話の4回目として、「神へのあこがれ」について解説しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はシリア情勢に関してイタリア語で次の呼びかけを行いました。なお、この呼びかけは、同時にアラビア語、フランス語、英語、スペイン語訳も発表されています。
「シリアにおける悲惨な暴力的状況を特別な懸念をもって見守り続けています。シリアでは戦いがやまず、毎日、犠牲者の数が増え、人々が深い苦しみのうちにあります。とくに自分の家を離れなければならない人々にそれがいえます。シリア国民に対するわたしと全教会の連帯と、シリアにおけるキリスト教共同体との霊的なきずなを示すために、わたしはシノドス教父の代表をダマスカスに派遣したいと望みました。残念ながら諸事情と事態の進展のために、この計画を望んだ形で実行することはできませんでした。そのためわたしは、教皇庁開発援助促進評議会議長のロベール・サラ枢機卿に特別な使命をゆだねることにしました。今日から11月10日まで、同枢機卿はレバノンに行き、シリアの教会の司牧者と信者と面会します。彼はシリアから来た難民も訪ね、聖座が国内と国外のシリア国民のための特別な支援を要請したカトリックの慈善団体の会議を主宰します。わたしは神に祈りをささげるとともに、紛争当事者と、シリアの善益を願うすべての人にお願いします。努力を惜しまずに平和を追求し、対話を通じて公正な共存へと導く道を歩み、紛争の適切な政治的解決をめざしてください。わたしたちは、手遅れになることがないように、可能なあらゆることをすべきです」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 「信仰年」にあたってご一緒に考察の歩みを行っています。今日わたしたちは、人間的・キリスト教的経験の一つの魅力的な側面を考えます。それは、人間が自らのうちに神への神秘的なあこがれを抱いているということです。『カトリック教会のカテキズム』はいみじくも次の考察から始まります。「神へのあこがれは人間の心に刻まれています。人間は神によって、神に向けて造られているからです。神はたえず人間をご自分に引き寄せておられます。人間はただ神のうちにだけ、求めてやまない真理と幸福を見いだします」(同27)。
 このことばは、現代の多くの文化的状況においてもまったく共感でき、いわば当然のことのように思われます。しかしそれは、世俗化された西洋文化においては挑発のように受け止められます。実際、多くの現代人は、自分は神へのあこがれなどまったくもっていないと反論するかもしれません。社会の大部分の人は、もはや神を待ち望んだり、神にあこがれたりすることはありません。神は無関心な対象となり、だれも神について語ろうとさえしないのです。けれども、わたしたちが「神へのあこがれ」と呼んだものは、完全になくなったわけではありません。それは現代においても、多くのしかたで人間の心のうちに現れます。人間のあこがれはつねに具体的なよいものに向かいます。しばしばそれは精神的なものではありません。しかし、あこがれは次の問いの前で立ち止まります。本当によいもの「そのもの」とは何でしょうか。そこで人間は、自分以外のもの、人間が作り出すことができず、むしろ、それを認識するよう招かれているものに直面します。人間のあこがれを本当に満たすことのできるものとは何でしょうか。
 わたしは回勅『神は愛』の中で、人間の愛の経験の中でこのような動きがどのように実現されるかを分析してみました。現代において、愛の経験を、我を忘れ、自分から脱出する瞬間として捉えることが容易になりました。それは人間が自分を超えるあこがれに満たされる経験です。男と女は、愛を通じて、互いに新たなしかたで、いのちと現実の偉大さ、すばらしさを体験します。自分の経験したことが単なる幻想でないなら、また、他の人の善を同時に自分の善に至るための道として本当に望むなら、そのときわたしは進んで自分を中心に置かないことを望みます。自分自身を放棄するに至るまで他の人に奉仕します。それゆえ、愛の経験の意味に関する問いへのこたえは、意志の清めといやしを通ります。意志の清めといやしは、わたしが他の人のために望む善そのものから求められるのです。本当に望みどおりの善をかなえるために、自らを訓練し、鍛え、場合によって矯正しなければなりません。
 こうして最初の忘我は旅路となります。「それは、自分のことだけを考える状態から脱出し、自己をささげることによって自分を解放し続けることです。こうして人は、真の意味での自己発見へと、さらにまた、神の発見へと導かれます」(回勅『神は愛』6)。人はこの歩みを通じて、最初に体験した愛の認識を少しずつ深めることができます。そして、愛の示す神秘がますます姿を現します。実際、自分が愛するどのような人も、人間が心に抱くあこがれを満たすことはできません。そればかりか、他者への愛が真実なものとなればなるほど、愛の起源と目的は何か、そしてどうすれば愛を永遠のものとすることができるかについての問いがますます大きくなります。それゆえ、人間の愛の経験は、自らのうちに、自分自身を超えさせる動きを含んでいます。善の経験は、自分の外に出て、人生全体を包む神秘の前で自らを見いだすように人を導くのです。
 同じような考察を、人間の他の経験についても行うことができます。たとえば、友愛、美の経験、認識への愛です。人間が経験するあらゆる善は、人間自身を包む神秘をめざしています。人間が心に抱くあらゆるあこがれは、決して完全に満たすことのできない根本的なあこがれの反映です。このような深いあこがれは、あいまいな形で隠れている場合もあります。それゆえ、このあこがれから直接、信仰に至ることができないのは当然です。要するに、人間は自分を満足させることのできないものをよく知っています。しかし、心からあこがれる幸福を経験させてくれるものを、想像することも名づけることもできないのです。人間のあこがれのみから出発して、神を知ることはできません。そこから、依然として神秘が残ります。人間は絶対者を尋ね求める探求者です。それも、少しずつ、不確かなしかたで歩む探求者です。しかし、すでにこのあこがれの経験が、聖アウグスティヌス(Augustinus 354-430年)が述べた、「安らぎを得ることができない心」の経験が、きわめて重要です。この経験は、人間が深いところで宗教的存在者であり(『カトリック教会のカテキズム』28参照)、「神を乞い求める者」であることを示します。わたしたちはパスカル(Blaise Pascal 1623-1662年)のことばを用いてこういうことができます。「人間は人間を無限に越えるものである」(『パンセ』:Pensées, ed. Chevalier 438; ed. Brunschvicg 434〔前田陽一・由木康訳、『パンセⅠ』中央公論新社、2001年、308頁〕)。目は、光に照らされたときに対象を認識します。そこから、光そのものを知りたいというあこがれが生まれます。この光そのものこそが、世のものごとを輝かせ、美の意味を照らし出すからです。
 それゆえわたしたちは、超越的な次元に対してきわめて冷淡に思われる現代においても、人生の真に宗教的な意味に至る道を開くことは可能だと考えるべきです。人生の真に宗教的な意味は、信仰のたまものが馬鹿げたものでも不合理なものでもないことを示します。そのために、一種のあこがれの教育を行うことが大いに役立ちます。これは、まだ信じていない人の歩みのためにも、すでに信仰のたまものを与えられた人にも当てはまります。この教育は少なくとも二つの側面を含みます。第一は、人生の真の喜びの味わいを学ぶこと、あるいは学び直すことです。すべての満足がわたしたちに同じ効果をもたらすわけではありません。ある満足はよい効果を残します。それは心を落ち着かせ、わたしたちをいっそう活動的かつ寛大なものとすることができます。これに対して、他の満足は、初めの光が消えた後、そこから生まれた期待を失望させ、場合によって、幻滅、不満、または空虚感を残すように思われます。家庭、友愛、苦しむ人との連帯、他者に奉仕するための自己放棄、認識、芸術、自然の美への愛といった人生のあらゆる領域で、若い頃から真の喜びを味わう教育を行うこと――これらすべてのことは、内的な味覚を訓練し、現代に広まった軽薄で卑俗なものに対抗するための効果的な抗体を作り出します。大人も、このような喜びを再発見し、真実なものへのあこがれを抱く必要があります。そのために、つまらないものへの捕らわれから心を清めなければなりません。こうして、うわべは魅力的に思われても、実際にはつまらないことが分かるすべてのもの(それは自由ではなく中毒をもたらします)を振り払い、拒絶することが容易にできるようになります。ここから、今お話ししている神へのあこがれが生まれるのです。
 第二は(これは第一のものとともに歩むものですが)、実現したことに決して満足しないことです。まことの喜びは、わたしたちの心に、健全な意味での安らぎを得ない状態を生み出すことができます。この状態は、もっと多くのことを求めるようにわたしたちを促します。すなわち、より高く深い善を望ませるのです。同時に、有限なものは皆、わたしたちの心を満たせないことをいっそうはっきりと悟らせます。こうしてわたしたちは、自分の努力で作り出すことも得ることもできない善を、無防備でめざすことを学びます。またわたしたちは、困難や、自分の罪から来る障害にもめげないことを学びます。
 このことに関連して忘れてならないことがあります。このあこがれの動きは、つねにあがないへと開かれているということです。わたしたちは間違った道に歩み入ることもあれば、人工的な楽園を追い求めることもあります。まことの善にあこがれる力を失ったかのように思われることもあります。しかし、罪の深淵の中でも、人間の中であの火花が消えることはありません。この火花が、まことの善を認識し、味わい、上昇の道を歩むことを可能にします。その際、神はご自身の恵みを与えながら、たえず助けてくださいます。さらにわたしたちは、あこがれを清め、いやす道を歩まなければなりません。わたしたちは、天の祖国、すなわち、何ものもわたしたちから奪うことのできない、永遠の完全な善をめざして歩む旅人です。それゆえ、人間の心のうちにあるあこがれを、抑圧するのではなく、解放しなければなりません。それはこのあこがれがまことの高みへと達するためです。あこがれの中で神へと窓が開かれるなら、それはすでに心の中に信仰が存在することを表すしるしです。この信仰は、神から与えられるたまものです。聖アウグスティヌスも述べるとおりです。「神は延期して待たせることによって希望を拡大し、希望によって魂を拡大し、拡大することによって魂の容量を大きくするのです」(『ヨハネの手紙一講解』:In Johannis epistulam ad Parthos tractatus 4, 6, PL 35, 2009〔岡野昌雄・田内千里・上村直樹・茂泉昭男訳、「ヨハネの手紙一 講解説教」『アウグスティヌス著作集26 パウロの手紙・ヨハネの手紙説教』教文館、2009年、464頁〕)。
  この旅路を歩むとき、自分たちがすべての人の兄弟であると感じようではありませんか。信じていない人、探求している人、真理と善にあこがれる真実な動きによって自らに問いかける人とともに歩む旅人であると感じようではありませんか。「信仰年」にあたって祈りたいと思います。心から神を尋ね求めるすべての人に、神がみ顔を示してくださいますように。ご清聴ありがとうございます。

略号
PL  Patrologia Latina

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