古代のキリスト教

I-1 イエス・キリスト

人となられた神の御子イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて 福音を信じなさい」(マルコ1・15)といって宣教を開始された。今から約2千年前、イスラエルでのことである。そのときイエスは30歳ぐらいであったという( ルカ3・23参照)。イエスは神の国の到来を「福音」として告げ、特に罪びとと 呼ばれた人々や貧しい人々のただなかに身をおきながら、全身全霊を尽くしてそれを示された。イエスが行った種々の奇跡、神への信仰をふるい起こした力強い教えと慰めの言葉、それに彼の人格そのものが、罪をゆるし、新しいいのちに解き放つ神のあわれみと愛を人々に体験させた。その結果、多くの弟子たちが彼に従ったが、一方、イエスに敵対する支配層の憎悪と警戒心もまた、いや増していったのである。

イエスは3年にわたる宣教生活の間、弟子のなかから12人を選んで使徒と名づけ、彼らを自分のそばにおき、神の国の福音を告げ知らせるために派遣すべく忍耐強く養成した。だが、彼らはイエスが逮捕され十字架上で殺される事態になるや、師を見捨てて逃走した。しかし、この彼らに大きな変化が起こったのである 。生前イエスが預言していたとおり復活を体験した彼らは、人々が殺害したナザレのイエスこそ「神によって死者から復活させられた救い主(キリスト)である 」(使徒言行録2・32参照)と臆することなく証言し始めた。復活されたキリストはこの使徒たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)と命じ、父なる神のもとに昇って行かれたのである。

I-2 使徒と初代教会

「復活したキリストこそ真の救い主」と証言する使徒たちのもとに生まれた小さな群れは、最初「ナザレ派」と呼ばれ、ユダヤ教の一分派とみなされたが、次第にユダヤ教とは別の信仰であることが人々の目にもはっきりしていった。まもなく彼らは「キリスト者(イエスを油注がれたメシア、救い主と信じる者の意)」と呼ばれるようになっていった(使徒言行録11・26参照)。初め使徒たちは、地中海沿岸都市に離散していたユダヤ系移民を宣教の対象としたようである。イエスの十字架上の死からわずか20年から30年ほどの間に、パレスチナから数千キロも離れたローマをはじめ沿岸の主な町にキリスト信仰が伝播し、早くもそこにはキリスト共同体(教会)が形成された。

紀元70年に勃発したユダヤ戦争では、ローマ軍はユダヤ教のより所であったエルサレムの神殿を徹底的に破壊し、ユダヤ人は祖国を失って各地に離散していった。一方、ユダヤ教からたもとを分かつことになったキリスト教は比較的順調に拡大していったものの、1世紀の教会内部には早くも対立がみられた。あくまでもユダヤ教の遺産(割礼や儀式などの宗教的な規定や民族主義)を守ったうえでキリスト教信仰のあり方を考えようとする一派と、キリストの福音はそれらを超えたところにあるとする、いわゆる「異邦人キリスト者」との対立である。結局、パウロが提唱した後者の信仰観が主流となり、キリスト教信仰は民族や言語、性別や社会の身分などに左右されるものではなく、神の国の福音をどのように受けとめるかにかかっているとみなされた。まさにキリストの福音は「民全体に与えられる大きな喜び」(ルカ2・10)と理解されていったのである。

ローマ帝国における権力と富の集中化は、少数者の大土地所有という構造のうえに成り立ち、その結果さまざまな社会のゆがみが露呈していた。土地や職を失った各地の貧民はローマやアレキサンドリアなどの大都市に流入し、不安と貧困の生活を強いられていた。初期のキリスト信者のほとんどは、このような当時のローマ社会の底辺の人々や差別されている人々で占められていた。

I-3 使徒教父の時代

紀元1世紀が終わるころには、イエスと直接交わった弟子たちは姿を消し、教会は第2世代目の時代に入る。各地の教会共同体の指導者に立てられた人々は、最初の使徒たちの按手によって信仰とあかしを受け継ぎ、信者の群れを導いていった。使徒教父と呼ばれる彼らの代表的な人物として、ローマのクレメンス、アンチオケのイグナチオ、スミルナのポリカルポなどの名があげられる。またこの時期、信仰共同体のなかには司教、司祭、助祭など種々の奉仕職が分化し、定着しつつあった。

2世紀半ばまでには、キリスト教固有の信仰生活の形が整えられた。第一にキリストの復活の日(日曜日)は主日と呼ばれ、その日には復活を記念して感謝の祭儀が行われた。そこでは、旧約聖書や当時編集されつつあった「イエス語録」、使徒たちの手紙が朗読され、会衆は賛美の歌を歌い、司祭の説教に耳を傾けた。さらに、キリストの最後の晩餐が十字架のあがないと復活の記念として祝われた。第二に信者の群れに加わるしるしとして洗礼が定められたが、それに先立って洗礼志願者には一定期間の信仰教育がほどこされた。第三にキリスト者たちは、当時の社会の腐敗から身を清く保ち、物心両面にわたって互いに助け合い、キリストにおける兄弟的な交わりを深めた。しかし、こうした生き方は周囲に秘密結社的な印象を与え、人々の敵意と警戒心を招く結果になったことも見逃せない。

I-4 迫害時代

ローマの宗教政策は基本的には寛容であり、国家的一致の象徴であるローマの神々や神格化された皇帝の像を礼拝しさえすれば、土着の宗教は承認された。ただ、厳格に唯一神を奉ずるユダヤ教だけは例外とされていた。

ところで、キリスト教がユダヤ教の一派とみなされていた間は、皇帝礼拝を免除されていたが、別の宗教であることが明らかになると、法的規制が強められるようになった。キリスト信者が一切の偶像礼拝を拒んだことは、社会の安定と秩序を脅かす犯罪とみなされたのである。さらに、信者の礼拝集会は人肉を食する秘密結社とうわさされ、キリスト信者に対する人々の嫌悪をあおったことも迫害の嵐を激しくした一つの要因である。

迫害は初めは地方レベルで、しかも散発的であった。ローマ帝国が、国家の方針としてキリスト教に対して本格的に弾圧を加え始めたのは、3世紀半ばのデキウス帝からである。この時にはアレキサンドリアの神学者オリゲネス、カルタゴの司教チプリアノなどが殉教した。さらに4世紀初頭、ディオクレチアヌス帝は帝国各地の教会堂の破壊を命じ、キリスト信者に棄教を迫った。迫害は毎回、突発的かつ短期間であったが、そのたびに多くの棄教者が続出し、迫害の終息後には教会内部に深刻な問題をもたらした。すなわち、ひとたび信仰を捨てた者は、以後教会の交わりに永久に復帰できないのか、あるいは、このような者にも救いの道がまだ残されているのかという議論である。これをめぐってドナトゥス派の厳格主義が現れたが、結局、すでに指導的な地位にあったローマ教会をはじめ教会の主流は、背教者にもゆるしの道が開かれているということで収拾をみた。

コンスタンチヌス大帝の治世、313年の「ミラノ勅令」をもって、ついにローマ帝国はキリスト教を合法的なものとみなした。以後、帝国と教会との関係は急速に改善され、日曜日はキリストの復活の日として国家の休日となり、迫害時代に教会が被った損害には国家賠償が支払われた。さらに4世紀の終わりに、テオドシウス帝はキリスト教を国教と定めるに至った。

こうして200年以上に及んだ迫害の時代は終わり、かわって、 国権の手厚い保護がキリスト教に加わることになった。しかし、それは同時にキリスト教の変質と教会の堕落につながる危険性をも抱えこむことになった。

I-5 正統と異端

ローマ帝国の精神的風土は多神教とヘレニズム文化によって彩られていた。そうしたなかに広がっていったキリスト教は、自己の純粋さを保つために当初から幾つかの戦いに直面しなければならなかった。

一つは帝国内で盛んであった種々の密儀宗教との対決である。その多くはキリスト教の洗礼や聖餐式に類似した儀式を行っていたため、聖書信仰との境目があいまいになる危険性が常にあった。また一方では、宗教の本質は超自然的知恵(グノーシス)を得ることであるとする哲学的な宗教も盛んだった。それは、霊肉二元論をうちたて、精神や魂を罪と滅びの原理である物質や肉体よりも優れたものとみなしていた。ごく初期から教会内部にはこの立場からキリストを理解しようとする者が現れ、キリストはグノーシスの現れであり、地上のイエスの肉体は仮にそう見えただけのことと唱えた。しかし、そうなれば神のことばの受肉や十字架のあがないも意味をなさなくなってしまうとして、早くも使徒パウロやヨハネは、こうした異質の信仰と戦わなければならなかったのである。

以上のような外からの迫害や内からの異端との戦いという教会の危機に対処していく過程で、正統信仰を保つ道筋が次第に整えられていった。
第一に司教制の確立である。すでに2世紀初頭、アンチオケのイグナチオは、司教は使徒たちのあかしを継承する正統信仰の担い手であり、教会は司教を中心として成立することを主張している。司教、あるいは司教団こそはあらゆる異説に対抗する防波堤、教理と信仰教育の担い手とされた。
第二に「信仰の尺度」と呼ばれた信条が制定された。初代教会以来、洗礼志願者は信者会衆の前で信仰定式文を読み上げて信仰告白を行っていたが、それが正統と異端を見分ける尺度として用いられるようになった。
第三に、正統信仰を裏づけ、保証する文献として聖書正典が定められた。すでに教会は旧約聖書を正典として受け入れてきたが、それに加えて典礼の場で用いられた、ナザレのイエスをキリストと証言する文献が新約聖書として定められたのである。

こうした司教制の確立、信条の制定、聖書正典の成立は、ほぼ迫害の終息と同じ時期にあたっている。ここにカトリック教会の土台が定まったのである。

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