中世のキリスト教

一言で中世といっても、それは通常4世紀から15世紀にわたる千年以上もの長い期間をさす。中世におけるキリスト教の展開はきわめて複推であるが、主に三つの時代に区分できよう。
第1期は4世紀から10世紀にかけてで、キリスト教の伝播の時期といえる。この時期、地中海周辺に限られていたキリスト教が、アルプスを越えて全ヨーロッパに広がった。
第2期は11世紀から13世紀の最盛期で、教会の指導カが絶頂に達し、学問、建築、修道院など多岐にわたってキリスト教文化が咲き誇った時期である。
第3期は14世紀から15世紀の衰退期で、キリスト教によるヨーロッパ統一も解体に向かい始め、さらに次の宗教改革の時代につながっていく時期である。

II-1 民族大移動

4世紀の後半になると、ゲルマン諸民族がアルプスを越えて次々と移住し始めた。その波を受けて、イタリア半島に拠点をもっていたローマ帝国は、政治、経済、社会、文化のあらゆる面にわたって混乱をきたし、ついに帝国とともに栄えたギリシャ・ローマの古代文明は消滅した。しかし、教皇の指導と援助のもとにアングロサクソン、ゲルマン諸族のキリスト教化がねばり強く行われ、その結果フランク王国はカトリック国となった。アイルランドの使徒パトリック、スコットランドで活躍したコロンバン、ゲルマン人の使徒と呼ばれるボニファチオなどが有名である。

7世紀半ばになるとマホメットを指導者とするイスラム教やサラセン勢力が破竹の勢いで拡大し、ヨーロッパ世界を包囲する形となった。短期間の侵攻で、キリスト教の発祥の地や古代教会の栄えた地中海沿岸が、ことごとくキリスト教から奪われる結果になった。これは後にヨーロッパ諸国のキリスト教徒が十字軍を起こし、聖地奪回の遠征を企てる原因となる。こうした長年にわたる混乱がようやく収まるのは、9世紀初頭のカール大帝の時代に入ってからであるが、それもつかの間、10、11世紀には北欧のノルマン人が活発に南下し、ヨーロッパ各地はその侵略に脅かされた。しかし、この北欧の民族も次第に定着し、既存の文化やキリスト教に同化していった。

このような民族の大移動は、結果的にそれぞれの民族がもつ文化や伝統がキリスト教に新しい活力を注ぐことになり、中世のキリスト教文化の開花を準備することになった。しかし、ゲルマン社会への土着化は同時に、教会が封建制度のなかに深く組み入れられたことをも意味し、多くの問題に直面することにもなったのである。

II-2 教義論争

キリスト教がヘレニズム世界に広がるにつれ、本来の信仰内容を保ちながらヘブライ的、聖書的な枠組みを超えて、ギリシャ的な思弁によってどのようにイエス・キリストを再理解し、それを適切に表現するかが問題になってきた。ことに東方教会では激しい教義論争が展開され、4世紀初めのアリウス論争から8世紀の聖画像論争に至るまで、教会は正統と異端をめぐって激しく揺れた。このような論争はしばしば宮廷内部の権力抗争とからんで、いっそう複雑な状況を呈した。

教会は問題解決のために、司教を中心とする「公会議」をしばしば開催し、論争に決着をつける場とした。なかでも325年の第1ニケア公会議、381年の第1コンスタンチノープル公会議、451年のカルケドン公会議は、教会史上重要な意味をもった。これら一連の論争と公会議の諸決定は、次の点を正統信仰として確認したのである。すなわち、イエス・キリストは真の神にして真の人である。父と子と聖霊は等しい神性を有する唯一の神である。キリストの人格(ペルソナ)のうちには神性と人性が分離も混合もなしに、しかも区別されて存在するということである。これらは、いわゆる三位一体と神人両性論と呼ばれ、世界信条としてキリスト教共通の遺産とみなされ、今日に至っている。

一方、西方教会ではアウグスチヌスが登場し、多くの著作をもって古代教会以来の豊かな信仰の遺産を受け継ぎ、さらにそれを再構築して次の世代に引き渡すという偉業を残した。それは、以後の教会にはかり知れない影響をもたらすことになった。

II-3 教権と俗権の対立

ローマ帝国の衰退に反比例して、ローマの教皇の力は強まっていった。事実、5、6世紀には有能な教皇が続出し、ゲルマン人の相次ぐ侵略からローマ市を守ることに貢献した。そのため476年に西ローマ帝国が滅亡した際には、教皇庁は政治勢力としても機能し始め、従来の帝国の直轄領は教皇領とされ、世俗の権勢と富を合わせもつようにさえなった。また、フランク王国がキリスト教に転じ、カール大帝が西ローマ帝国の復興に着手した際には、カトリック教会とゲルマン諸国家との結びつきはさらに強まった。しかし、カール大帝の死後、帝国はまもなく分裂し、962年にはオットー大帝が「ドイツ国民による神聖ローマ帝国」の名のもとに西ヨーロッパを再統一した。キリスト教は帝国の拡張の波に乗って東ヨーロッパに広がったが、1054年、9世紀以降ロシアに根を張っていたギリシャ正教会は、こじれた教会政治と典礼問題のためにローマ教会から分裂してしまった。

11世紀前半、教皇庁をローマ貴族の私物化から解放しようと、神聖ローマ帝国はイタリアに干渉し始め、特にハインリヒ三世は自らよしとする聖職者を教皇座をはじめ各地の教会指導層に送り、内部改革をはかった。それは功を奏し、教会は自らの使命にめざめて種々の刷新がなされたが、同時に、外部からの干渉そのものを教会の自立性への重大な侵害と受けとめるようになっていった。その結果、教会と国家、教権と俗権の間の緊張、衝突は免れない状態に進展していった。とりわけ、教皇庁は二つの問題解決に挑んだ。一つは聖職位売買(シモニア)の問題で、すべての聖職位はただ教皇庁のみによって任命されるべきであって、その他の権力は一切これに関与してはならないという指針である。この具体策として教皇の個人的顧問団である枢機卿制が設けられ、教皇の選出はこの枢機卿団の秘密投票によってなされることになり、今日に至っている。もう一つは、私婚制の撤廃である。西方教会では司祭以上、東方教会では主教以上の聖職者(教役者)には独身を要求されていたが、実際には遵守されていなかったのが実情だったからである。

ところで、両者の対立はドイツ王ハインリヒ四世と教皇グレゴリオ七世の叙任権闘争において頂点に達した。教皇はハインリヒ王を破門、王はそれを解いてもらうために「カノッサの屈辱」にさらされるはめになった。この事件を契機に教会と国家の力関係は変動し、次の12、13世紀には教皇権は絶頂期を迎えることになる。

II-4 教皇権の隆盛と衰退

1198年から18年間にわたって在位した教皇インノチェンチオ三世の時代、教皇権は政治、経済、社会、文化の多面にわたり隆盛をきわめた。教皇は聖俗両権の関係を太陽と月にたとえ、俗権は教権を反映するにすぎないとまで断言、文字どおり教皇権は全ヨーロッパ大陸に及び、皇帝や国王は彼の意のままに任免された。この時代、スコラ学は精緻をきわめ、ゴシック様式の大聖堂がパリのノートルダム寺院をはじめ各地に建立され、またフランシスコ会やドミニコ会などの新しい修道会が誕生した。1215年には第4ラテラン公会議が開かれ、カトリック信者の宗教的な義務が制度化された。一方、武力をもってアルビ派の異端運動撲滅をはかり、また第4次十字軍を招集し派遣したのもこの時代である。

しかし、14世紀に入ると教皇権の隆盛にもかげりがみえ始める。1294年から1303年に在位した教皇ボニファチオ八世は、フランス王フィリップ四世と争うが破門制裁も威力を失い、かえって経済封鎖を受けて窮地に陥るはめになった。ボニファチオ八世の急死後、フランス王は教皇庁を南フランスのアビニョンに移し、以後約70年にわたってそれをフランス勢力下においた。その間の教皇はすべてフランス人であった。このようなフランスによる教皇幽閉策、教皇庁の私物化に対抗して、1378年から40年近くもの間、ローマに対立教皇が立てられるという異常な事態に進展した。この教皇庁の分裂は統一中世そのものの崩壊を意味した。こうした非常事態をのり切るために、各国の司教たちは公会議を重ねて開催して教会の方針を定めようとしたが、この動きはローマ・カトリック教会の最高権威は公会議のみにあるという「公会議至上主義」を生み出し、教皇庁と対立することになった。ここに改めて、キリスト教世界における至上権は何かをめぐる論争の激化を招いたのである。

II-5 修道院の隆盛

修道生活の起源は古代の二元論的世界観や禁欲主義によるものではない。ことに4世紀以降、キリスト教の公認に伴い教会の世俗化が進行し始めると、キリストへの信仰を徹底的に生きようとする者たちが、俗界を離れて砂漠や荒れ地に隠遁生活をするようになった。初め彼らはそれぞれの志に従って独自の行に励み、個別の生活をしていたため「単独者(モナコス)」と呼ばれた。しかし4世紀半ばになると、次第に彼らは共同生活を営むようになり、祈りと食事をともにし、さらに人々の喜捨によらず労働による自立をはかった。また、こうした集団に属する者は貞潔、清貧、従順という誓いを立て、生涯を修徳生活にささげるという制度が確立した。西方教会では6世紀に、ベネディクトがその後の修道生活の基礎づくりに貢献した。一日の生活は祈り、労働、休息に三分され、修道生活は自己の魂の救済のみならずこの世の救済に仕えるものとされた。以後、修道生活はヨーロッパの文化・文明の歩みにおいてはかり知れない役割を果たすことになる。

千年にわたる中世の間、修道生活にも波があった。個人としては財を所有しなくとも労働と種々の寄進を受ける結果、修道院自体には巨大な富が集中し、しばしば俗権との癒着がからみ、堕落に走った。しかし、そのたびごとに自己改革が内側から繰り返され、息を吹き返したのもまた事実である。たとえば、10世紀初頭のフランスのクリュニー改革をはじめ、多くの刷新運動は政治や社会にも多大の影響を及ぼした。また、11世紀末期に創設されたシトー修道会は、優れた農業技術をもって当時の農業革命にはかり知れない貢献をした。一方、13世紀に創設されたフランシスコ会、ドミニコ会の両托鉢修道会は徹底した清貧の実践と説教、学問の活動によって教会の霊的刷新を展開した。

II-6 文化の繁栄と時代の変動

ヨーロッパ中世が生み出した最大の産物の一つは大学制度である。それは教会や修道院の付属学校と連携しながら発達し、ついには知識の統合という普遍的な制度にまで成長し、今日に至っている。なかでもスコラ学と呼ばれる学問体系は理性と信仰の統合をめざし、トマス・アクィナス、ボナベントゥラなど多くの知的統合者が出た。トマスの『神学大全』はゴシック大聖堂に匹敵する一大知的構築といえる。しかし、こうした統合も後期スコラの時代になると、揺らぎ始め、神学の真理は哲学の真理とは限らないという二重真理の主張がドゥンス・スコトゥスやオッカムのウィリアムなどによって主張されるようになった。また、13世紀末から14世紀にかけてドイツにはマイスター・エックハルトに代表される神秘思想が盛んになる。神との直接的な合一体験の前には、目に見える教会の制度や秘跡、教義などは必要ないとされる考え方が次第に広がっていった。このような一連の流れは、ヨーロッパの新たな方向転換を暗示しているといえる。

14世紀に入ると、アビニョンの教皇幽閉事件や対立教皇の出現を前にしてジョン・ウィクリフやヤン・フスがキリスト教の根幹にふれる問い、すなわち、キリスト教とは何か、キリスト教における究極的権威は何かを問うようになった。ウィクリフはそれに答え、キリスト教を支える究極の権威は、教皇や教会、公会議にではなく聖書にあると主張した。彼のこの考えはボヘミア地方に飛び火し、反ドイツ感情に彩られたチェコ民族主義と結びついてフスを生み出す。彼はローマ教会を攻撃し、宗教改革を訴えたために異端と宣告され火刑に処せられたが、それを契機にボヘミアの反ローマ、反ドイツ闘争というフス戦争が勃発した。それは次の宗教改革への道を準備することになった。 

15世紀にイタリア都市のブルジョアを中心に始まったルネサンス運動は、またたく間にヨーロッパ世界に拡大した。それは、文明の黄金時代は過去にあるとする姿勢で、人間性に重きをおき、「原点に戻れ」を合言葉とした。歴代の教皇はこの運動の推進に力を注いだが、同時に中世千年の歴史を、あたかも存在しないかのように飛び越す混乱をも抱えたのである。

PAGE TOP