宗教改革時代のキリスト教

III-1 ルターとドイツの宗教改革起こり

宗教改革と呼ばれる大運動は、単に宗教の分野だけに限定されるものではない。それは政治闘争、経済、民族、国家、階級の対立、思想や文化が複雑にからんだ歴史的変動という性格を帯びている。こうした動きの発火点となったのはマルチン・ルターであった。彼は若いころの魂の苦悩と危機体験を契機にアウグスチノ会修道院に入り修道生活を始めるが、修徳に励むほど救いの問題に苦しむことになり、神に絶望するようになる。そうした闇のなかでローマの信徒への手紙のパウロの言葉「神の義は信仰に始まり信仰に至らせる」(ローマ1・17参照)に開眼し、救いへの道は人間が神の恵みにふさわしくなろうとする努力にあるのではなく、神を信頼し自らをゆだねる信仰のなかにのみあることを、また信仰の究極的な権威は「聖書のみ」にあるということを確信した。これは、カトリック教会の、恵みとともに人間の努力(よいわざ)が求められるこという立場、聖書とともに教会の伝承も権威をもつという立場に対立するものであった。

折りしも贖宥符問題を契機に、彼はローマ教皇庁に異議を唱えて立ち上がることになる。贖宥符とは、元来、ゆるしの秘跡において罪のゆるしを受けた者に課せられる償いが、教会の保証によって免除されることを記した証書で、たとえば十字軍に出陣する者に無償で与えられた。それはやがて病院や橋、教会堂などの公共事業のために献金をする者にも与えられるようになったが、庶民の感覚としては金銭を払って買い求めるものと受けとめられた。さらに、極端になるとそれは煉獄の魂の救いにも効力のあるものとされたり、罪の償いのみならず罪そのもののゆるしまでも得させると吹聴される始末であった。ルターはそこに深刻な問題を感じ取ったのである。彼はそこで「95か条提題」を掲げてこの問題に関する公開討論の開催を提唱した。この願いが聞き入れられて何度か討論会が開催されたが、この間、彼はますます反ローマの姿勢を強めていった。結局ローマは彼を破門に処し、ドイツ帝国議会は彼の追放を決定した。しかし、ルターの主張に耳を傾ける者が増大し、1530年ごろには、ルター派はドイツの主張を二分する政治勢力にまで成長した。 

ルターの唱える福音主義運動は信徒の信仰生活に大きな変革をもたらした。洗礼とミサを残して教会の諸秘跡はすべて廃止され、ミサの神学も変えられた。典礼はラテン語に代わってドイツ語でなされ、説教中心となった。聖書を自らドイツ語に翻訳したルターの業績は大きい。さらに、修道生活や聖職者の身分は廃止され、彼自ら妻帯に踏み切った。また、一般初等義務教育という考えを導入して新しい教育制度を打ち立てた。こうして、教会、家庭、学校の三つが信仰の養成の場として新たに意味づけられたのである。

III-2 ドイツにおける宗教改革の進展

ルターの引き起こした宗教改革運動は、ドイツのカトリック教会を二分しただけでなく、改革運動内部にもさまざまの分裂を生み出す結果となった。第一に急進主義者が現れたことである。なかでもトーマス・ミュンツァーは武装農民の蜂起を煽動し、1524年から1525年にわたって破滅的なドイツ農民戦争を引き起こした。第二にルターに理解を示してきたヒューマニストの巨頭エラスムスが、カトリック教会そのものをルターが拒否するのをみて、彼とたもとを分かつことになった。ところで、こうした分裂は帝国議会にも波及し、ルター派の指示にまわった諸侯たちは、カトリック信仰を保持する皇帝カール五世に対抗して信仰の自由を訴えたため「プロテスタント(反抗者)」と呼ばれるようになった。一つの地域共同体には一つの信仰というのが中世の一致の原理であった。しかし、今やプロテスタント教会の出現によって、一つの地域に複数の信仰理解が存在する結果となり、そこに政治的な権力抗争がからまって、宗教抗争が頻発することになった。こうした動きのなかで結果的に、信仰は政治や国家の保護の監視のもとにおかれることになってしまった。30年余りに及ぶ内乱の後、ルター派はアウグスブルグの和議(1555年)でカトリックと対等な資格と権利を得ることになった。その後、ルター主義はデンマーク、スウェーデン、ノルウェーなどの北方諸国で国教となり今日に至っている。

III-3 スイスの宗教改革

 スイスの宗教改革はツヴィングリによって始められた。彼はカトリック司祭でエラスムスとルターから大きな影響を受けていたが、スイスの傭兵を使って領土拡張戦争を行う教皇庁の姿勢に疑問を抱き、さらには教皇制そのものに批判を向けるようになった。彼はチューリヒでルターの「聖書のみ」を主張し、聖書が明白に命じているもの以外はすべて拒否する運動を激烈に展開したため、チューリヒは大混乱に陥った。事態収拾のため当局は福音主義を受け入れ、ミサは廃止され、修道院も姿を消したが、この動きはまもなくスイス全土に波及した。ツヴィングリの急進派の弟子たちは、国家と教会の癒着、信仰の俗化という悪の根は幼児洗礼にあるとし、それを禁じた。そのため、幼児洗礼を受けている者は洗礼を受け直さなければならないという、いわゆる「再洗礼」を説いた。主戦論者であったツヴィングリはその後、チューリヒ軍を率いてカトリック諸州との武力衝突をくり返しているうちに戦死した。

 ツヴィングリの後、スイスの宗教改革を引き継いだのがカルヴァンである。彼はフランスに生まれ、初めヒューマニズムを基に法律を学んだが、20代半ばに福音主義に転じた。彼はフランス王がルター派の弾圧にのり出したのをみて国外に亡命、『キリスト教要綱』を著して福音主義を弁護し、スイスのジュネーブに宗教改革者として迎えられた。彼はかつての宗教改革者たちが犯した種々の混乱から教訓を得、宗教と政治、教会と国家の機能を明確に分け、両者の担うべき責任を区別した。一時は反対派に追放され、ストラスブールでプロテスタント教会の指導にあたったが、1541年にジュネーブに復帰、1555年までにこの町の宗教改革を達成した。その信仰はルターの福音主義に立ちならがらも、世俗の職業を神の召命とみなし、質素な生活と禁欲を重んじることをもって信徒の生活の聖化をはかった。また、カトリックとは別の長老制を打ち立てて俗権に対しても教会の独自性を保つ道を開いた。カルヴァン主義と呼ばれる彼の路線は、フランス、オランダ、イギリス、新大陸へと広がりプロテスタント運動を強めることに一役かった。なお、彼の『キリスト教要綱』は幾度かの増補改訂を経て、プロテスタント神学の基本的な体系となった。

III-4 イギリスの宗教改革

イギリスがローマ教会から別れた一つの要因は、ヘンリー八世の離婚問題であった。キャサリン王妃との間で男子の王位継承者を得られなかったヘンリー八世は、教会法による婚姻解消宣言をローマから手に入れることができなかった。そこで彼は自国の教会をローマ教皇の支配から切り離して独自の国民教会を設立し、その認可のもとに再婚をはかることを考えた。1534年、彼は首長令を発して自らを英国教会の最高首長と宣言し、教会統治権を王位のもとにおいた。それに対してトマス・モアは抵抗を示したが無駄であった。彼のもとではカトリック教義の変革は行われず、むしろ大陸の宗教改革を支持する者たちを容赦なく弾圧した。後のピューリタン革命の種子がここにまかれたことになる。

 ヘンリー八世の死後、大陸の宗教事情の転変にともなってイギリスに亡命してきた者たちが教会改革運動を進めたため、イギリスは政治的変動とあいまって大きく揺れ動き始めた。こうした動きのなかでカルヴァン主義にのっとったピューリタン(純粋派)が国民の間から生まれた。新しいぶどう酒である福音は長老制教会という新しい革袋に入れなければならないというのが彼らの主張であった。その後、王権と議会との間で政治権力をめぐって革命に次ぐ革命が繰り返されたが、そこでは常に教会制度ならびに信仰の自由の問題が問われたのである。

III-5 カトリック教会の宗教改革

 教会内の腐敗を嘆きそれを改革しようとする動きは、カトリック内部に常に見られたことで、宗教改革の前夜にも新しい修道会や、司祭、信徒からなるおびただしい数の信心会の創設が相次いだ。またエラスムスが展開した信仰刷新運動が、それなりの影響をヨーロッパ各地に及ぼしていたことも事実である。宗教改革運動が起こった困難なこの時代に教皇となったユリオ二世やレオ十世などは、教皇としての務めを十分に果たしたとはいえないが、宗教改革の嵐を受けて教皇庁はようやく自覚と指導力を取り戻し始めた。1542年、教皇パウロ三世は異端審問裁判を再開し、プロテスタント運動を上からくいとめようとした。

 また一方で、イグナチオ・ロヨラによってイエズス会が創設され、カトリック教会の宗教改革の有力な担い手となった。同会は厳格な規律と絶対服従の精神、献身と優れた組織力によって、プロテスタント運動に染まっていった多くの地域をカトリックに戻すとともに、キリスト教の伝えられていない海外諸国への宣教にのり出して、新たなカトリック教会の形成に貢献した。日本へのキリスト教伝来は、こうした世界宣教活動の一環であった。

 カトリック教会の宗教改革の総決算はトリエント公会議(1545―1563年)に見られる。初め教皇庁は公会議の開催に消極的であったが、国内の混乱の収拾を切望したドイツ帝国皇帝カール五世の要望に屈した形で、教皇パウロ三世は開催に踏み切った。この公会議は、教会内にみられた聖職売買や贖宥符販売の禁止、種々の悪習の撤廃、司教による司祭への監督強化などをもって規則の引き締めをはかった。一方、プロテスタント運動に対しては、福音主義神学との対決姿勢を鮮明にし、「信仰のみ、聖書のみ」に対して、伝統的な「信仰と行為、聖書と聖伝」をカトリック神学として確認、表明した、また、原罪と義化の教義を確定し、さらに洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻の七つの秘跡とその教義を確認した。ミサの典礼文をラテン語に統一したのもこの公会議である。また、神学校制度を制定して聖職志願者の養成に力を入れることによって教会に実のある刷新をはかろうとした。こうして、カトリック教会は教義の整備、霊的刷新、世界的拡張をもって次の時代へと向かっていった。

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