司祭年開始のミサ説教 2009年6月18日 聖イグナチオ教会

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なお、このミサの第一朗読はイザヤ61章1-3a節、福音はマタイ9章35節-10章1節でした。

司祭年開始のミサ
「キリストの忠実、司祭職の忠実」

2009年6月19日
イエスのみ心の祭日
原田豊己神父

 教皇ベネディクト十六世は、2009年6月19日から2010年6月19日まで「司祭年」とすることを発表されました。司祭年開始のミサにあたり、司祭年のテーマである「キリストの忠実、司祭職の忠実」を思い起こしたいと思います。

 ミサの第一朗読は、イザヤ預言書から取られました。昔、流謫の地バビロンで故郷を思い涙した旧約の民は、祖国に帰りましたが、その状態は貧しく、乏しく、困窮の中にありました。第三イザヤは、その民に向かって経済的困窮、政治的な不安、廃墟と荒廃、今なお続く屈辱の状態にある民に与えられる神の栄光を預言しました。「主の恵みの年」が来ると。レビ記25章でヨベルの年といわれ、その年に神の恵みとして与えられる解放と自由が、今、油注がれた者にとって告げられたのです。
  時代が変わっても同様の状態にある民に向かって、イエスはガリラヤの町カファルナウムにおける宣教の開始に同じ言葉を繰り返します。
イエスは、宣教の開始にこのイザヤ預言書の朗読により、自らを霊に満ちた者、「油注がれて聖別された者」、「貧しいものに福音を告げ知らせる者」、「主の恵みの年」を告げる者としてあらわしました。そして「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と述べられました。イエスはご自分を、祭司、預言者、王としての救い主であることを示されたのです。
  私たちは、「主が私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために」という言葉を深く心にとめたいと思います。なぜなら、私たち司祭は、聖なる油を注がれて、教会の中でイエス・キリストの祭司職そのものに参与する役務的祭司職にあずかるものとされているからです。この役務的祭司職にあずかる私たち祭司のアイデンティティーの根本が、「主が私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために」あることを深く心に刻みたいと思います。
  イエス・キリストの祭司職、預言職、王職の系譜に連なる役務的祭司職に生きる者としてのアイデンティティーが、第三イザヤによって、またイエス・キリストによって根本的に示されているからです。

 マタイの福音は、日々司祭が奉仕を通して体験するあらゆること、すなわち、町や村をまわり、教え、福音を述べ伝え、病気やわずらいをいやし、弱り果てた群衆、打ちひしがれている人々を見ることを、イエスの行動を通して描いています。さらに、司祭生活を基本である奉仕の姿を通して、この奉仕職にあこがれ、引き継いでゆくものが現れることをも教えてくれます。そのため、イエスが「深くあわれまれた」ように、司祭の生き方、司祭生活は、「深くあわれむ」ことにあることを心に留めなければなりません。
  「深くあわれむ」と訳された言葉「splagchnizomai」は、新約聖書において特徴的に用いられています。この動詞は、共観福音書のみ12回使用されています(マルコ4回、マタイ5回、ルカ3回)。イエスが主語として使用される場合は、神の似姿として創造された人間が苦しんでいる状況を理解し、受け入れ、助けるイエスのみが持つ心根を示しています。また、「よきサマリア人のたとえ」では、サマリア人がその深いあわれみを模範として、実行する人間として描かれています。単なる同情や、限られた民族、血を分けた兄弟に対する偏った愛の表現として律法学者が持つ哀れみ(eleos)と明確に区別されています(参照ルカ10章「よきサマリア人のたとえ」の律法学者の答え)。
  イエスに倣って「深くあわれむ」という行為は、司祭生活の根本原理だと考えます。司祭の心は、よきサマリア人のようにイエスの「深くあわれむ」心に支配されなければなりません。

 主キリストは、神の民に祭司職を与え、奉仕の務めにたずさわる人々を選んで祭司としてくださいました。
今日「司祭年」の開始にあたり祈ります。
  私たち司祭が、預言者イザヤの熱意と主イエス・キリストの「深くあわれむ」心で満たされますように。
  聖ヨハネ・マリア・ビアンネ没後150周年にあたり、聖人の模範に倣い、神のため、人々のために自らをわたして、キリストに従い、たゆみなく信仰と愛の証しを立てることができますように。アーメン。

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