天草の殉教者 アダム荒川

アダム荒川の記念碑 (天草市[旧本渡市]殉教公園)

アダム荒川の記念碑
(天草市[旧本渡市]殉教公園)

 1614年1月末、徳川家康による禁教令の噂が九州に流れた。天草を支配していた唐津の領主寺沢志摩守は、一つの通達を富岡城の番代川村四郎左衛門に送った。それは、志岐(現在の天草郡苓北町)の教会にいた宣教師を長崎に連行する命令であった。イエズス会のガルシア・ガルセス神父は強引に船に乗せられたが、その前に、看房のアダム荒川を呼び、教会と信者の世話を頼んだ。アダムは喜んでこの任務を引き受けた。
  アダムの生涯は、神の計り難い道を示している。有馬領の荒川城(現在は有馬吉川)に生まれた。若い頃、ある過ちのため、主君のアンドレア掃部により処刑を命じられた。しかし有馬のイエズス会院長モーラ神父のとりなしで赦された。その日からアダムは剃髪して生涯を教会に捧げたのである。有馬領にあったいくつかの教会で働いた後、1590年頃、志岐の教会に送られ、聖堂の世話や訪問者のもてなしなどと同時に、伝道士として活躍していた。それは聖ディエゴ喜斎が、同じ時期に大坂で送っていた、祈りと奉仕の生活のようであった。
 番代であった川村は、ほどなく、主君の計画がうまくいかないことに気付いた。アダム荒川がいる限り、信者は信仰を守り続けるであろう。老いた伝道士は責任をもって職務に献身していた。そこで川村はアダムを呼び、始めは穏やかに棄教を勧めた。それは川村自身だけの望みではなく、領主と将軍の命であると説明した。
  しかしアダムは、これに応じなかった。川村の態度は一変し、脅しと脅迫で弱い老人に恐怖を与えようとしたが、すべては無駄であった。川村は行動に移った。
  袋湾の浜に裸にされたアダムは二本の丸太に縛られ、朝から晩まで、3月の冷たい風にさらし置かれた。アダムは静かに祈り、近付く人びとに神について話した。一週間たっても変化が見られなかったので、アダムは狭い部屋に監禁された。そこでも老人は信者たちを励ましながら深い祈りの日々を続けた。ついに寺沢の堪忍袋の緒が切れ、アダムが信仰を棄てないのであれば殺すよう命じたのである。信者はアダムの殉教の立ち会いが許されず、6月4日、アダムは富岡城に移され、5日の夜明けごろ城山の裏道を下ったところに連れ出され、そこで斬首された。そこは、小川が潮入りで袋湾に注ぐ場所であった。アダムの遺体は重石を付けられ、湾外の海中に沈められた。
  1964年、本渡(天草市)の殉教公園にある平和のキリスト像の前に、看房アダム荒川の記念碑が建立された。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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