有馬の殉教者

N・トリゴーによる 『日本におけるキリスト教の勝利』(1624) より、有馬の殉教を描いた版画

N・トリゴーによる 『日本におけるキリスト教の勝利』(1624) より、有馬の殉教を描いた版画

 1613年10月7日、有馬家の本城であった日野江城の前を流れる有馬川のほとりで火あぶりの刑を受ける三人の武士とその家族を前に、二万人の信者が祈っていた。全員がロザリオやろうそくを手にしていた。集った人びとに向かって殉教者の一人レオ武富勘右衛門は次のように宣言した。
  「これで有馬のキリシタンの信仰がお分かりでしょう」。
この殉教は、地元の教会を代表する殉教者と彼らを支援する教会全体の団結をみごとに表わしている。有馬の教会は、キリシタン大名プロタジオ有馬晴信の時代に長い間、宣教師たちのよりどころとなり信者は徹底的に育てられた。1612年から長崎奉行長谷川左兵衛と有馬直純が始めた迫害は、有馬領にりっぱな証しを残した。ロザリオの聖母の祝日の殉教は、それ以降の数多くの殉教を代表するものである。
  アドリアノ高橋主水、レオ林田助右衛門、レオ武富勘右衛門の3人の武士は、それまで有馬家の忠臣であったが、信仰を棄てるように命じられると、キリストと教会に対してさらに強い忠誠を示した。彼らとともに、レオ武富の息子パウロ、アドリアノの妻ヨハンナ、レオ林田の妻マルタとその子マグダレナとディエゴは、うやうやしく命を捧げた。19歳のマグダレナは、神に貞潔を捧げた。
  12歳のディエゴは、有馬にあった「子どもの殉教の組」の長であった。殉教への道中、ディエゴは、有馬川を渡るために背負われることを断り、「イエスさまはカルワリオ山に登るとき歩いて行きました」と言った。彼は純粋な殉教者として十字架を担うイエスの姿を見つめていた。姉マグダレナは処刑の時、足元に燃える薪を拾って頭の上に置き、神への感謝を表わした。母マルタは燃え上がる炎と煙の中で子供たちを励ましていた。「子よ、天を仰ぎなさい」と。
セルケイラ司教はこの殉教を次のように報告している。
  「高来(たかく)(島原半島)のキリシタンたちのあかしは、日本の至るところで福音のすばらしい宣教になるでしょう」。
  はるかローマでも教皇ウルバノ八世は、セルケイラ司教の書簡とマグダレナの遺骨の一部を受け取ったとき、深い感激に涙したという。
  信者たちは殉教者の遺体を執行人の手から奪い、長崎に送った。1614年の宣教師国外追放のとき殉教者の遺骨はマカオに運ばれ、1995年に再び日本に戻ってきた。殉教地で遺体を拾い集めた信者たちは、続いて自らもキリストの証し人となった。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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