伝説の宣教師 トマス金鍔次兵衛

 神話の人物のようにその名前はいろいろな場所と結びつき、いわば神出鬼没である。彼について信じ難いほど奇妙な噂が流されていたが、実際にその生涯は短く、活動の場は基本的に長崎地方であった。トマス次兵衛は、1600年ごろ大村に生まれ、信者であった両親レオとクララは、後に殉教したと伝えられる。幼くして自発的に有馬のセミナリオに入り、卒業後イエズス会の同宿になったが、1614年、宣教師とともにマカオに追放された。1620年、日本に戻り、その2年後マニラに渡って聖アウグスチノ会に入会した。1628年、セブ島で司祭に叙階されてフィリピンで活動を始めたが、迫害に苦しむ日本の教会に戻る望みをかなえようと、いろいろな方法を探った。1631年、侍に変装して帰国に成功した。長崎奉行所の馬丁になり、クルス町の牢に囚われた宣教師や信者を訪れるなど、至る所に出没して使徒職を果たした。隠密によって彼の人相書きが作られるに及んで、次兵衛は外海の山中に逃れた。そこは江戸時代に「次兵衛谷」として知られるようになり、現在、彼が隠れ住んだ洞穴は巡礼地となっている。

「金鍔」神父が隠れていた次兵衛岩 (長崎市外海町)

「金鍔」神父が隠れていた次兵衛岩
(長崎市外海町)

 大村家の記録には、西彼杵半島の横瀬浦と面高から長与に至るまで行われた「金鍔狩り」の様子が詳しく記されている。その後、戸町の裏山の洞穴に身を移し、「金鍔谷」として知られるその場所から長崎の中心部に潜入した。マカオに残る記録によれば、1634年、トマス次兵衛神父は、長崎に住まう、あるポルトガル人の家でミサを行い、ポルトガル人たちに秘跡を授けたという。
  トマス次兵衛は帰国以来、幾度も難を逃れたが、1636年11月1日、ついに片淵で捕らえられ、クルス町の牢に押し込められた。奉行は、彼を援助したポルトガル人の名前を自白させるため、また探索に長い時間を費やした恨みを晴らすため、さまざまな恐ろしい拷問を試みたが、すべては徒労に終わった。恩人を一人も裏切ることなく、トマス次兵衛はすべての苦しみに耐えぬいた。1637年8月21日に穴吊りにされたが、23日になって、入港したポルトガル船の乗組員に関する取り調べのため牢に戻された。この時にも誰の名前も言わなかったので、11月6日、数人の信者とともに、西坂で再び穴吊りにされた。すでに衰弱しきっていたトマス金鍔次兵衛は、その日のうちに壮絶な殉教を遂げた。37歳であった。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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