江戸の殉教者 ヨハネ原主水

静岡教会にあるヨハネ原主水の像 (静岡市)

静岡教会にあるヨハネ原主水の像
(静岡市)

 現在、公園になっている静岡の駿府城本丸跡には、手に鷹をもつ徳川家康の大きなブロンズ像が立っている。城内の三の丸跡にはカトリック教会があり、その前庭にヨハネ原主水の像がある。二基の記念碑の間は、わずか200~300m の距離である。1612年、この駿府城本丸において、徳川家康は本格的にキリシタンの弾圧に乗り出し、年老いた公方に仕えていた14人のキリシタンを追放した。
  その中に、ディエゴ小笠原権之丞、ジュリアおたあの名とともにヨハネ原主水の名もあった。主水は、たまたま家を不在にしていたときに追放の報を聞き、行方をくらましていた。しかし、3年後の1615年、岩槻の裏山で捕縛された。手足の筋を切られたうえ額に十字架の焼印を押された。
  ジョアン原主水は下総の国(現千葉県)の臼井城に生まれた。徳川方が北条氏を滅ぼした戦いのとき、北条氏側についた父は領地を失った。そこで息子の主水は徳川氏に仕えるようになった。原主水は背が高く、若い時から勇猛な武者として名をはせた。1600年、大坂でモレホン神父から受洗したが、彼が信仰を深めたのは、追放されたときからである。フランシスコ会が江戸の鳥越で貧しい人びとのために経営していた病院に身を潜めながら、宣教師に協力して活動した。それは、後に江戸に移ったあとも続いた。
  銀三百枚の賞金に目がくらんだ原家の元の家臣が、1623年、町奉行にデ・アンジェリス神父、原主水などの隠れ家を密告した。こうして、デ・アンジェリス神父、ガルベス神父、イルマン・エンポ、原主水は捕えられた。ちょうどそのころ、徳川家光の将軍職任官を祝うために全国の諸大名が江戸に参集していた。この機会をとらえ、家光はすべての諸侯にキリシタン禁令を通告し、捕らえた人びとをみせしめとして火刑に処すよう指示した。
  1623年12月4日、品川において、宣教師と信徒総勢50人が、おびただしい群衆の前で殉教を遂げた、最初に一般信徒たちが殺害され、次いで2人の神父と原主水が炎の中で神に命を捧げた。信徒たちの処刑の問、後ろ手に縛られた馬上の3人は、群衆に向かって説教した。これが江戸の大殉教である。
  3人の宣教師はすでに列福されているが、このたびは、殉教した一般信者の代表としてヨハネ原主水の列福を求めることになった。1956年に、殉教地に記念碑が建てられた。記念碑は、殉教地の至近の場所にあるカトリック高輪教会に移設され、毎年、江戸の殉教者の記念行事が行われている。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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