広島の殉教者

 1624年の広島の殉教は、徳川家光による最初の迫害である江戸大殉教をきっかけで起こったと言われる。将軍は全国でキリスト教を根こそぎにする方針を固め、各地の信者たちは、純粋に信仰のために命を捧げた。

広島キリシタン殉教の碑(広島市己斐)

広島キリシタン殉教の碑(広島市己斐)

 フランシスコ遠山甚太郎は、1600年、甲斐の国(現在の山梨県)の浅野幸長の家臣の家に生まれた。主君幸長が紀伊の国和歌山に入城した時、遠山家も彼に従った。宣教師追放後の1616年、甚太郎は、当地でフランシスコ会のアポリナル・フランコ神父から受洗した。何のためらいもなくキリスト教を受け入れる環境に恵まれた少年、甚太郎は、アシジの聖フランシスコの霊性に従って生きる道を選んだ。それ以来、遠山の屋敷はすべての宣教師のより所となり、彼自身は地域の信者の支えとなった。1619年、浅野長晟が広島に移封されたので、甚太郎も彼の地に移った。
  ここには福島正則の時代からの信者の共同体が残っており、遠山は、武士のマチアス庄原市左衛門と町人のヨアキム九郎右衛門と親しくなり、3人ともイエスと広島の教会のために命を捧げた。
  柔和で落ち着いた遠山には大きな勇気が秘められていて、たとえ大名であろうと親戚であろうと、自分の信仰を害することを許さなかった。霊父フランコ神父が大村の鈴田の牢に入れられたと聞き、彼はそこまで行って自らもともに殉教を望んだが、広島の宣教師の指導に従って自分の番を待った。江戸の大殉教を見て自分の領地に戻った領主は信者たちに棄教を命じ、従わねば処刑すると告げた。だがフランシスコ遠山は喜んで殉教に備え、1624年2月16日、屋敷内の聖母像の前で断首された。24歳であった。
  マチアス庄原は広島の牢番であった。彼は、牢に囚われていたイエズス会のアントニオ石田神父から受洗した。以来、マチアスは、牢の内外で宣教師たちに熱心に協力していた。ヨアキム九郎右衛門は長い間伝道士として活動したため、殉教の前にさまざまな拷問を受けた。マチアスは2月17日、九郎右衛門は3月8日、2人ともはりつけの殉教を遂げた。
  広島市の旧山陽道が走る己斐の丘の麓に広島の殉教者の記念碑がある。毎年2月、そこで広島教区主催の殉教記念祭が行われている。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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