生月の殉教者 ガスパル西玄可とその家族

黒瀬の辻にある、ガスパル西の墓 (長崎県生月)

黒瀬の辻にある、ガスパル西の墓
(長崎県生月)

 1987年に聖トマス西が列聖されたとき、トマスの父ガスパル西を思い出した人は少なかったかも知れない。しかしガスパルは、その息子以上に、すばらしい模範を全教会に残したと言っても過言ではない。
 ガスパル西は、1556年、平戸の生月島に生まれた。父はドン・アントニオ籠手田左衛門の家臣であり、島の総奉行を務めた。ガスパルは、1558年、2歳のとき父とともにガスパル・ヴィレラ神父から受洗。それ以降の生涯はキリストの教えに導かれたものになった。ガスパルは成人し、若き未亡人ウルスラ・トイと結婚し、連れ子ガスパル・トイを息子とした。ガスパル西はウルスラ・トイとの間に四人の子をもうけた。長男は西家を継いだヨハネ又一、次男はトマス六左衛門、三男はミカエル加左衛門、そして一人娘マリアがいた。
 ジェロニモ籠手田とそのいとこバルタザル籠手田が、信仰を守るために六百人の家臣とともに領地を捨て、1599年に長崎に退去した。この時、ガスパル西は管理職を解かれたが島を離れず、引退して妻ウルスラとともに生月の伝道士となった。ガスパル・トイは有馬のセミナリオに入り、その後イエズス会に入会した。トマスも有馬のセミナリオで育てられ、末子のミカエルは父の家に留まった。その時、娘マリアは館の浜の奉行となった近藤喜三の息子と結婚していた。そのころキリシタンに対する松浦鎮信の態度が次第に厳しくなっていたので、近藤もマリアに信仰を棄てさせようと責めたてた。マリアは信仰を守るために愛する夫と離れて実家に戻った。近藤喜三は、空盛上人と名乗る平戸の僧侶、高野と手を組んでガスパル西を領主に訴え出た。ガスパルが主君の命に背いてキリストの信仰を棄てないばかりか、信者たちの信仰を支え、洗礼を授けることさえしていたというかどで処刑されることになった。
 ガスパルは、はりつけを願ったが、山田の奉行井上右馬允が拒否した。ならば、1563年にコスメ・デ・トーレス神父によって大きな十字架が建てられたという黒瀬の辻で処刑されることを、ガスパルは願った。願いは聞き届けられ、ガスパル西は、1609年11月14日、友人であった右馬允の手で斬首された。同じ頃、少し離れた所でウルスラとヨハネ又一も殉教を遂げた。
  1634年、トマス西神父は長崎で殉教し、その同じ年には広島に住んでいたミカエル加左衛門も兄に宿を提供したかどにより、その妻と幼児とともに処刑された。このようにガスパル西とウルスラは家族全員を導き育て、神に捧げたのである。
  生月のキリシタンは鎖国時代にもガスパルたちの墓を大切に守り続けた。1993年、彼の墓の傍ら、黒瀬の辻に、再び大きな十字架が建てられた。ガスパル西玄可は純粋なキリストの十字架の証し人である。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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