ディエゴ加賀山隼人とその家族

 ディエゴ加賀山隼人とその家族の処刑は、小倉、日出(ひじ)(大分)、熊本の三か所で執行され、最初の殉教と最後の殉教の間に17年の開きがある。それはキリスト信者の家族と彼らの純粋な信仰の証しである。
  ディエゴ加賀山は、1566年、高山右近の居城であった高槻城で生まれ、少年期に同宿として活躍したので、おそらく安土のセミナリオで勉学に励んだと思われる。武士として高山右近に仕え、右近追放後には細川忠興の家臣になり、その立派な人格と功績により、小倉の総家老にまで取り立てられたが、つねに公然とキリスト信者として行動した。とくに小倉時代にはセスペデス神父の指導のもとで、その教会の指導者になった。細川忠興による1611年の宣教師追放後にも、ディエゴは信念を通し、それによって主君との対立がますます深くなった。ディエゴは、ついに家老職を解かれて、2年間、蟄居の身となり、貧しい生活を送った。特にこの時のディエゴの徳と祈りの精神が人びとに感化を与えた。ディエゴ加賀山隼人の信仰に勝つことができなかった細川忠興は、将軍の圧力を恐れ、彼の処刑を命じた。1619年10月15日、小倉市外で斬首された。最後の時まで冷静な態度と祈りの精神を守り通した。同じ時、同じ理由でディエゴのいとこバルタザル加賀山半左衛門とその息子ディエゴも豊後の日出で殉教を遂げた。

花岡山中腹にある墓碑と殉教碑 (熊本市)

花岡山中腹にある墓碑と殉教碑
(熊本市)

 ディエゴ加賀山には3人の娘があった。次女ルイザと三女は中津で細川忠利に預けられていたが、父と同じく信仰深い生活を送った。長女みやは、すでに小笠原玄也と結婚していた。小笠原は細川家の親戚でもあったので処刑を免れたが、人里離れた貧しい家に子供たちと一緒に監禁された。13年間およぶ厳しい生活の中でも、子供たちの信仰をりっぱに育てた。1632年、細川が熊本に移封されたとき、彼らも同行を命じられた。1636年、一訴人が賞金目当てに玄也とその家族を長崎奉行に訴え出たので、奉行からも幕府からも迫られ、忠利はついに玄也とその家族の処刑を命じた。1636年1月30日、花岡山の麓にある禅定院において、玄也、みや、それに9人の予供と4人の奉公人が殉教を遂げた。
 世を去る前、彼らが親戚と友人に送った遺書が現存しており、読む人に深い感銘を起こさせる素晴らしい信仰の証しを示している。江戸末期、花岡山の中腹でその墓が発見され、現在その傍らに碑が建てられている。そこでは毎年、殉教記念祭が行われている。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

PAGE TOP