ローマまで歩いた不屈の人 ペトロ岐部

ペトロ岐部が殉教した江戸の伝馬町牢屋敷跡 (東京都中央区十思公園)

ペトロ岐部が殉教した江戸の伝馬町牢屋敷跡
(東京都中央区十思公園)

 ペトロ岐部は「世界を歩いた神父」として知られている。確かにその生涯は旅であった。だが彼をその旅に駆り立てた力は、神と同胞に対する愛のほかにない。ペトロは司祭となって帰国し、迫害に苦しむ日本の教会のために自分を与え尽くすことを熱望した。
  ペトロ岐部は、1587年、豊後の国 国東半島の岐部に生まれ、少年時代は有馬のセミナリオで育てられた。その時イエズス会に入会する私的な誓願を立てたという。後に同宿になったペトロは、1614年、宣教師とともにマカオに追放された。だがそこでは彼の意に反し、司祭への道も閉ざされたと思われた。神と同胞に尽くしたいとの耐え難い望みに駆られ、ペトロ岐部は、1618年ころ、マカオを出奔し、インドのゴアまで行った。そこから現在のパキスタン、イラン、イラク、ヨルダンなどを横断した。ことばも風俗も知らず、砂漠の生活になれない者の一人旅は、生死をかけた決死行である。エルサレムに立ち寄って聖地巡礼をした後、彼がローマにたどり着いたのは、1620年であったと思われる。
  ペトロ岐部は、ようやくの思いでローマのイエズス会の修練院を訪ねたが、非情にも、彼を受け入れないようにとの回状が、すでにマカオから届いていたことを知る由もなかった。
  しかしペトロ岐部に会ったイエズス会の長上たちは、彼の司祭叙階に便宜を計った。1620年、司祭に叙階されてすぐ、イエズス会への入会が許された。リスボンに移って誓願を立てたペトロは、帰国の途についた。交易船を利用して日本に上陸しようと考えたが、マカオ、アユタヤ、マニラとも、そのとき、すでに鎖国の日本との貿易を打ち切っていた。それでもペトロ岐部は帰国を断念することなく、1630年、ついに薩摩の坊津に上陸することができた。リスボンを出帆してから、8年の歳月が流れていた。
  潜伏期の彼の心情をよく表す一つのエピソードが、マカオのコレジオの院長マヌエル・ディアスの手紙に記されている。1633年、中浦ジュリアンたちの殉教の時、岐部神父は長崎の山中に潜伏していた。フェレイラが背教したと聞いて、夜中、山から下りて町に入り、フェレイラに会って次のように励ました。「神父様、一緒に奉行所へ参りましょう。あなたは背教を取り消し、私とともに死にましょう」。フェレイラは断ったが、岐部の行動は、兄弟の救いを願う司祭の心情をよく表している。その後、岐部神父は活動を東北地方に移し、そこで数年間、活動したが、もはや潜伏は困難であることを悟り、宿主に害が及ばぬよう仙台で捕らえられることにした。
  江戸に護送されて取り調べを受け、これには将軍家光が直々に立ち会ったこともあった。さまざまな拷問の末、取り調べ奉行井上筑後守の命により穴吊りにされた。それでも信仰を捨てないペトロ岐部を見た役人は、真っ赤に焼けた鉄棒を彼の腹に押しつけ、絶命させた。ペトロ岐部の処刑について記した井上筑後守直筆の所見が、今も残っている。
  「キベヘイトロはコロび申さず候」

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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