京都の大殉教

中山正美作「都の大殉教」より テクラ橋本(バチカン美術館蔵)

中山正美作「都の大殉教」より
テクラ橋本(バチカン美術館蔵)

 1619年10月6日、鴨川の六条から七条の間、現在の正面橋のあたりで、将軍秀忠の命により、52人の信者が火あぶりの殉教を遂げた。うち11人は子供であった。日本の教会の殉教史で大殉教と呼ばれる殉教は三つである。1622年9月10日の長崎の殉教、1623年12月4日の江戸の殉教、そして、これから紹介する京都の大殉教である。長崎の殉教者は全員が列福され、江戸の大殉教では3人の宣教師が列福されている。いっぽう京都の大殉教については、詳しい記録があるにも係わらず、長く放置されていた。しかし、この大殉教は、さまざまな意味で深い意義がある。これは日本の幼児の殉教であり、若い母親の奉献であると言えるであろう。殉教の目撃者が次のように記している。
  「私は京都にいた時、信仰を棄てないという理由で55人のキリシタンが殺されるのを見ました。彼らの中には母親の腕に抱かれた小さな子どもたちもいました。母親たちは『主イエスよ、この子供たちの魂を受けてください』と叫んでいました」
  京都の教会は、1612年まで栄光の日々を送っていたが、1619年には迫害の結果、惨めなものに変わった。信者のほとんどは貧しく、「ダイウス町」と呼ばれた通りに住み、平穏に信仰を守り続けていたが、1619年の初め、徳川秀忠は新たに迫害を強化し、それまで無関心を装っていた京都所司代板倉勝重は信者のほとんどを牢に入れた。牢内の苦しみにより、すでに数人が帰天していたが、伏見を訪れていた秀忠はまだ牢内に信者がいると聞いて激怒し、牢内の信者のみならず釈放された者全員の処刑を命じた。秀忠自ら、処刑方法までも詳しく決定したという。将軍の激怒と対照的に、殉教者は大いに喜んだという。彼らは、すべてをキリストに捧げるため熱心に準備し、最期まで立派に証しを立てた。殉教者たちは牢から出され、みせしめのために六条から七条まで引き回された後、27本の十字架に縛られた。夕暮れになると、十字架を囲む薪の輪に火が付けられた。その中でヨハネ橋本太兵衛、妻テクラと5人の子供の殉教が、とくに人びとの目を引いたという。3人の子供と一緒に縛られたテクラは、最期までわが子らを堅く抱き締めていた。当時の役人たちの記録からも、その殉教が人びとに与えた影響の大きさが見て取れる。
  後日殉教者となる司祭、ベント・フェルナンデスとディオゴ結城は、殉教者を世話し遺体を葬り、殉教の記録を作成した。京都市が建都1200年を祝った1994年8月、鴨川のほとりに記念碑が建てられた。美しい鞍馬石に「元和(げんな)キリシタン殉教の地」と刻まれている。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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