日本における殉教者、今日的意味とその位置づけ

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日本のカトリック教会は、殉教者の血から生まれ、殉教者の血のうえに立てられたといっても過言ではありません。殉教者のこころや生き方に対する深い共感なしに、日本の教会のアイデンティティを理解することは困難でありましょう。
殉教者というと、ともすれば、英雄的な信仰と徳に加え、強靭な精神力によって栄冠を勝ち得た勝利者として描かれることが多くありました。このような勝利主義的、英雄的な殉教者の紹介は、現代の日本に生きる人びとの共感を得にくくなっていることは事実かもしれません。またキリシタン殉教の時代、われわれの日常とは、大きくかけ離れており、大昔に起こった出来事に過ぎないのでしょうか。現代に生きる日本の教会にとって、殉教の精神は、すでに意味を失ったのでしょうか。
今回、列福審査の対象となっている殉教者の大部分は信徒であり、キリシタン時代に禁教令や迫害がなかったら、おそらく、ごく普通の庶民として平和な生涯を送り、歴史の中に埋没していった人びとでしょう。彼らは英雄や勝利者として行動したのではありません。ただ神との間に、きわめて密接な関係を築くことができた人びとです。だから自分たちの時代背景の中で、殉教という実を結んだのです。「殉教」に通じる神との密接な関係を深めることは、時代を超えて教会に求められる基本的な生き方であります。
「ペトロ岐部と187殉教者」は、それぞれ、現代に通じるメッセージをもっていますが、その根底に流れる共通点は、神と一致した生き方を貫いたこと。言い換えれば、神の価値観を公言し、福音的でない価値観を、勇気をもって拒否したことではないでしょうか。
現代人にとって福音のメッセージは、一見すると不合理で弱々しく、説得力に欠けるように感じられるかもしれません。それどころか、社会からは受け入れられず、反発を生むかもしれない、それでもなお、勇気をもってイエスの価値観に生き、それを証していくことこそ、いま私たちに求められる霊性ではないでしょうか。

「ペトロ岐部と187殉教者」の列福調査は、ヨハネ・パウロニ世教皇来日直後、1981年に開かれた日本カトリック司教協議会総会の決定によって正式に開始されました。それから四半世紀を経た今年の5月、教皇庁列聖省の神学審査委員会は、188殉教者の列福を了承し、あとは、同省の枢機卿会議の承認と教皇の裁可を待つのみとなりました。
そこで、これらの殉教者を思い起こすことが、決して時代遅れの英雄崇拝でないことを知っていただくために、簡単なプロフィールを、このウエブサイトに掲載することにしました。
188殉教者については、すでに研究者によってたくさんの書籍や論文、記事が発表されているので、さらに詳しく知りたい方々はそれらを参照してください。
私たちの先輩たちが、一日も早く列福されるよう、お祈りくださることを切にお願いする次第です。

(カトリック中央協議会 殉教者列福調査特別委員会)

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