溝部脩司教による連載記事「殉教者と私たち(最終回)」

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殉教者と私たち (最終回)

殉教者は政治犯か
 殉教者は国の法律に抵触したのであって、刑法に従って処罰されて当然であると、昔の為政者も国民の多くも考えた。法の観点から見れば、まさにその通りである。意識的に国法を犯したのであり、しかも限られたエリート集団ではなく、農民に至るまでこぞって、自ら望んで殉教の道を選んだのであり、為政者にとってはまさに脅威の集団と言えた。確かに政治と絡んでいるし、政治的理由で処刑されている。しかし、処刑される側は、政治的理由によるとは考えていないところに問題の複雑さがある。
 キリシタン時代、「神国」日本を侵すものとして、キリスト教は排斥された。この「神国」日本ということが、教会にとって一番引っ掛かった問題であったし、現在もそうである。戦国時代は混沌(こんとん)から国家統一に向かった時代であり、国家という意識を国民に高めていく必要があった時代でもあった。その中で「神国」日本こそ「国是」(建国の原理)であり、これに反するものは一切排除するというのが為政者の論理であった。
 織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も、「神の国」日本を意識し、自らを神の国を守護するものとして戦神(八幡)、または守護神として自らを神格化したのであった。八百万(やおよろず)の神々が存在する日本にあって、それらを一つにまとめる求心力、それこそ政治であり、為政者なのであった。
 キリシタン時代、教会は日本と日本文化を評価し、日本という土壌に土着化するために、ありとあらゆる試みを行った。聖フランシスコ・ザビエルから始まり、アレッサンドロ・バリニャーノ(イエズス会)、ペドロ・ゴメス(同)といった人々に代表される涙ぐましい日本の教会の伝統である。しかし、それでも「神国」日本という大原則は教会の前に立ちはだかった壁であった。教会内外の識者と呼ばれていた人々は早くもそれに気付いて、文化受容などというのはまやかしに過ぎないと酷評し、最大の、そして唯一の問題は、一神教にあると批判していた。
 教会の問題は、「第一のマンダメント(おきて)」である、と識者より指摘されている。教会はすべてのものの上にデウス(神)があり、これを何よりも敬うことを教え、それに反することを禁じた。「神国」日本なる「国のかたち」は決して認めることができない。
 百八十八名日本殉教者の一人で、熊本で殉教した小笠原玄也(ディエゴ加賀山隼人の長女みやの夫)は、主君の細川忠興から表面だけでも棄教するように勧められた時に、「大御所様、公方様、…忠興様何と仰せ出され候とも、此の上はころびまじく候」と答えている。将軍であろうとも、幕府であろうとも、主君であろうとも決してこの信念は曲げられないとの意思表示である。まさに確信犯である。
 現代日本の教会は、さまざまな試みを通して、日本の社会に浸透しようと試みている。しかし、決して譲れないものがあるとしたら、それは何であろう。キリシタン時代の殉教者は、現代の教会に基本的な問題を突きつけているのである。

(カトリック新聞 2006年9月17日)

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