ローマを見た宣教師 ジュリアン中浦

生家跡にある中浦ジュリアン顕彰碑 (長崎県西海市)

生家跡にある中浦ジュリアン顕彰碑
(長崎県西海市)

 ジュリアン中浦の生涯には三つの特徴がある。遣欧使節として渡欧した国際的な視野、イエズス会の司祭、そして神と人への愛と奉仕に邁進し、殉教に至る徹底性である。
  ジュリアンは1567年ころに西彼杵半島の中浦に生まれ、65年ののち、その豊かな生涯を穴吊りの責めで終えた。
  気丈で温かい心をもつ少年ジュリアンは、大きな夢を抱いていた。それはローマに赴いて教皇に拝謁することである。しかし遣欧使節の副使としてその夢が現実になろうとした時、ジュリアンは、伝染病である三日熱にかかっていた。皆の勧めを押し切って謁見に臨んだものの熱で震える少年ジュリアンと、彼を温かく抱きしめる84歳の教皇グレゴリオ十三世との対面は、日本の教会の歴史における一つの頂点といえるであろう。
  帰国後の1591年、ジュリアンは聚楽第で秀吉に謁見した後、天草でイエズス会に入会した。その後、当地のコレジオで勉学を終了し、修道士として活動を始めた。ジュリアンは最初の任地として、大きな実りが期待される南肥後の八代に派遣された。
  1601年、神学の勉強のため再びマカオに渡ったが、長崎に戻ったジュリアンを待っていたのは辛い試練であった。それは理由も明確にされずに司祭叙階が延期されたことである。有馬のセミナリオ、京都、博多で職務を果たしながらこの試練を乗り切ったジュリアンは、1608年、長崎でついに司祭に叙階された。その後、1614年の追放で多数の殉教者を出した口之津に任命され、そこから毎年、天草、八代、柳川、小倉の信者を訪問した。体力が衰え始めたころ、ジュリアンは小倉に移って活動を続けていたが、1632年、細川忠利が熊本に移封されたとき、捕らえられて長崎のクルス町の牢に送られた。奉行はジュリアンの棄教を切に望み、10か月の間、彼に激しい責め苦を与えた。だがジュリアンの決心を変えられるはずはなかった。捕らえられる数年前、ジュリアンはすでに「キリストとローマ教会のため」と記し、殉教の覚悟を固めていたのである。1633年10月18日、ジュリアンの前に牢獄の門が開かれた。その日、西坂で穴吊りの責めを受けたのは、ジュリアンを含め、8人であった。その中でフェレイラ神父が転んだが、他は全員、キリストのために命を捧げた。その一人 ルカス・デル・エスピリトゥ・サントは、すでに1987年に列聖されている。ジュリアンは、同月21日に息を引き取った。記録に残る彼の最後のことばは、「この大きな苦しみは神の愛のため」であった。西海市の中浦ジュリアンの生家跡に、彼の夢と精神を表わす美しい記念碑がある。地球儀の大海を渡る船、その船の帆は十字架を形どっている。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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