西坂の殉教者 ミカエル薬屋とニコラオ福永ケイアン

印刷する
ミカエル薬屋が最後の長を務めたミゼルコルディア(慈悲の組)の跡  (長崎市)

ミカエル薬屋が最後の長を務めたミゼルコルディア(慈悲の組)の跡
 (長崎市)

 1633年7月28日、疲れ果てた2人の男が、ゆっくりと西坂へ続く石段を登っていた。後ろ手に縛られ、その回りで役人、執行人らが警棒をふるい道の行く手を開いていく。群衆の中には数人の若いポルトガル人の顔も見られる。殉教者の1人ミカエル薬屋が突然唱い始めた。
  「すべての民よ、神をほめ賛えよ」
 彼のそばで1人の役人が死刑の宣告を記した捨て札を掲げている。「この者は施しを集め、その金で殉教者の未亡人や孤児および宣教師に援助をしていた」。ミカエルは興善町の住民で、少なくとも1618年から慈悲役、すなわちミゼリコルディアの組の長の務めを果たしてきた。敵意に満ちた社会の中で追放、投獄、拷問に対し、ミカエルは静かに善行を行っていた。慈悲の行為は迫害者に対するミカエルの答えであり、ミカエルに対するイエスの答えでもある。
「私が飢えていた時に食べさせ、渇いていたときに飲ませ、牢にいたときに訪ねてくれた」
 7月28日、長崎の良きサマリア人であったミカエル薬屋は、西坂の殉教地で炎に包まれ、愛の最後の証しを見せた。長崎のミゼリコルディアの組の創立から、ちょうど50年目であった。
 もう1人の殉教者、イエズス会の修道士であったニコラオ福永ケイアンは、近江永原に生まれた。彼は安土セミナリオの生徒で、1588年にイエズス会に入会し、天草のコレジオで勉強した後、修道士として宣教に身を打ち込んだ。1614年まで博多の教会に留まり、そこからマカオに追放されたが、1619年、秘かに日本に戻り、おもに大村領で活動した。イエズス会の報告書は、「説教する」、「日本語でよく説教する」など、彼について簡単に記している。最後の報告書は、彼が「殉教の時にも説教した」と記している。それは、イエスのみ言葉に捧げられた生涯であった。ニコラオは、1633年に始まった穴吊りの責めを最初に体験した宣教師である、7月28日に穴に吊り下げられ、31日、聖イグナチオの祝日の朝、息を引き取った。
 日本語が堪能であった長崎生まれのポルトガル人は時折殉教地に近付き、ニコラオの声も役人の話しも聞いている。役人たちは横柄な態度で、「後悔することがないのか」と尋ねると、ニコラオは快く「はい、将軍様をはじめすべての日本人をキリスト信者にしなかったことを」と答えた。
 最後に聞こえたニコラオの声は、聖母マリアの連願であった。1年後の1634年、マカオで行われた調査の時、その若いポルトガル人たちは、見聞きしたことを生々しく証言した。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

PAGE TOP