大坂の最後の宣教師 ディオゴ結城了雪

ディオゴ結城が京都から、 1625年12月16日に、 イエズス会の上長 マスカレンハス神父に当てた手紙

ディオゴ結城が京都から、 1625年12月16日に、 イエズス会の上長 マスカレンハス神父に当てた手紙

 巡察視ヴァリニャーノ神父の宣教計画の眼目は、邦人司祭の育成であった。ディオゴ結城はその計画の実りを証明する司祭となった。信仰生活、学問、人間関係、精力的な宣教活動は、成熟した司祭像を示している。
 ディオゴ結城了雪は、1574年、阿波の国に生まれ、父は当時「島の公方」であった足利義助の家臣であると同時に、その親戚でもあった。少年ディオゴは高槻に移った安土のセミナリオに入り、1587年に初めて追放への道に踏み出した。監禁されていた生月から秘かに有馬に行き、1595年、天草でイエズス会に入会した。河内浦のコレジオで勉学を終え、1601年から3年間、中浦ジュリアンとともにマカオに留学した。
 1607年、伏見の教会に任命され、そこから徳島に渡って蜂須賀家政と足利義種の前で神の教えを述べた。1612年、司祭叙階のために有馬に呼ばれ、セミナリオで教えながら神学の勉強をしていたが、1614年、高山右近とともにマニラに追放された。1615年、そこで司祭となった。その時フィリピンのイエズス会のレデスマ管区長は結城神父の横顔を見事に記している。
  「ディオゴ結城神父、日本人、実直、仕事熱心で日本人の間で効果をあげ、感化を与えた。数日前に日本に帰国」
  1616年、ひそかに長崎に戻り、京都に派遣された。以後、京都、大坂は彼の宣教の拠点となり、そこから毎年のように五畿内、四国、そして江戸にまで足を延ばし、信者を訪れた。またディオゴは、津軽に追放されていた信者を見舞ったこともある。1619年に起こった京都の大殉教の時にはベント・フェルナンデス神父と同宿ミカエル草庵とともに信者を支え励まし、殉教者の遺体を葬った。宣教師たちは次第に迫害者の手に落ち、ついに五畿内の司祭は結城神父一人になった。結城神父は、イエスのように一人で十字架の長い道を辿ることになったが、その熱心さは衰えることがなかった。
  だが、このような生活は長くは続かず、彼は、とうとう大坂の山中で捕えられ、1636年2月、大坂で穴吊りの刑でその道のりを終えた。その時にも忠実な同宿ミカエル草庵が結城の傍らにいた。殉教に立ち会うために長崎奉行から遣わされた九郎兵衛という役人は、長崎に帰って次のように報告している。
  「自分は山中に隠れ住んで宿る場所もなく、食べ物は自然の中から得ていたと、老人ながら自信に満ちて語る結城のことばを、役人らは信じた」。
  殉教のとき、結城神父は62歳であった。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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