薩摩の殉教者 レオ税所七右衛門

 1605年、ドミニコ会の宣教師たちは、川内川の入江の京泊にある小高い丘に、聖ドミニコに捧げた小さな教会を建てた。教会にあるロザリオの聖母像の前で、1608年7月22日、「背丈が高く、やや痩せ型の柔和な武士」レオ税所七右衛門敦朝がハシント・オルファネル神父から受洗し、3か月後、息子ミカエル敦吉も受洗した。同年11月17日、レオは信仰のために命を捧げた。信者としてのレオ税所七右衛門敦朝の生活は、わずか四ヶ月弱であったが、教皇パウロ五世にその殉教を知らせたセルケイラ司教は、レオを次のように紹介している。
  「神の御慈悲がその心に触れた人のようであった」

京泊教会跡への巡礼 (鹿児島県薩摩川内市)

京泊教会跡への巡礼 (鹿児島県薩摩川内市)

 レオ七右衛門は1569年都城に生まれ、1596年、主君・北郷加賀守三久に随伴して新しい領地平佐(現在の薩摩川内市)に移った。滞在中、信者であった友人パウロ吉右衛門からイエスについて聞き、京泊の教会へ行った。洗礼を受けたとき、主君はすでに家臣に対し、キリシタンになることを厳しく禁じていた。しかし、レオ七右衛門は命の危険を承知のうえで洗礼を願った。その信仰の道は、たった一行に要約できる。神は殉教者になるべくして彼を選び、レオは素直に喜んで神の招きに心を開いた。
 友人、親族および仲間の武士はレオ七右衛門に対し、主君の意に従って表面的にでも信仰を棄てるよう勧めていた。だがレオはいつものように落ち着いて笑みを浮かべながら、背教への勧めをことごとく拒否した。彼は胸中、別の世界を見ていたようであった。「自分でもよくわからないが、近ごろ神様のことばかりを考えずにはいられません」と友人のパウロに打ち明けた。
 十字架にかけられて殺されることを望んだが、叶わず、自分の屋敷前の十字路で夜明けごろ処刑された。
 いつものように静かにゆっくり祈りを捧げて首を刀のもとに差し出した。レオの遺体は京泊の教会のそばに葬られたが、後に長崎の聖ドミニコ教会に移された。その後、1614年にマニラに送られたが、1649年の地震によって消失した。
 殉教者としてすでに列福された3人のドミニコ会宣教師、ハシント・オルファネル、フランシスコ・モラレス、ホセ・デ・サン・ハシントがレオの殉教を証明している。毎年11月には「川内殉教祭」が行われ、人々は京泊教会跡でレオが語る信仰のメッセージに耳を傾けている。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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