雲仙の殉教者

5月の雲仙殉教祭では 記念碑に花が捧げられる (長崎県雲仙市)

5月の雲仙殉教祭では
記念碑に花が捧げられる
(長崎県雲仙市)

 雲仙岳は美しい山である。心奪われるその自然は、みごとな四季の移り変わりを見せる。だがそこには、四季をとおして変わることのないシンボルがある。大地獄の焼けただれた岩と湯煙の中で腕を広げる石造りの十字架である。その十字架によって、雲仙はもっともりっぱな祭壇のひとつになっている。
  雲仙は1627年から1632年の間、印象的な殉教の歴史を刻んだ。ときには集団が、ときには個人や少人数のキリシタンがそこで責め苦を受けることになった。1632年12月、5人の宣教師が熱湯の試練に耐えた後、長崎の西坂で処刑された。彼らは5人とも205福者の内に数えられている。
 
  パウロ内堀作右衛門をはじめとする殉教者たちは、南高来の主立った信者で、彼らの中には、1612年から信仰のために追放、投獄、拷問を受けて殉教した人びとの子孫や両親もいた。全員が宣教師の協力者や宿主であり、宣教師なき後は、代わって地元の教会を世話し、その教会のために命を捧げた。みな、島原半島の誇りである。その中の5人は、1621年に有馬の教会が教皇パウロ五世宛に送った書簡の中で、忠誠を誓う署名をしている。拷問の結果、棄教した者もいたが、信徒だけのもっとも代表的な殉教は1627年2月と5月に起き、彼らは素晴らしい愛の証しを示した。
  1627年2月21日、松倉豊後守の命により、キリシタンに対する拷問が森岳城の濠で始まった。そのとき、パウロ内堀の3人の息子バルタザルとアントニオ、5歳のイグナチオも殉教した。他の殉教者は両手の三本の指を切り落とされ、額に焼印が押された後、釈放されたが、パウロ内堀たち16人は、熱心に宣教を続けたため一週間後の28日に雲仙に送られ、数時間の拷問のすえ熱湯に投げ落とされた。「ご聖体は賛美されますように」が、彼らの最後の言葉であった。
  5月17日、ヨアキム峰助太夫たち10人の殉教者が雲仙に登った。彼らが牢内に留め置かれたのは、庄屋などの役職についていたため処刑前に領主の財産報告を書き記すよう命ぜられていたからである。彼らは切られた指のまま、この最後の任務を忠実に果たしたのである。この殉教者の中には64歳の八良尾村の庄屋のパウロ鬼塚もいた。彼は、1622年に殉教した福者ペトロ鬼塚の父であった。
  雲仙の札の原には、福者アントニオ石田たちに捧げられた教会がある。また毎年5月には、雲仙殉教祭が行われ殉教者のことばに耳を傾ける。
  「はるかなるパライソを身近に、今ぞ見きこの喜びに心高鳴る」

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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