萩・山口の殉教者

メルキオール熊谷の記念碑 (山口県萩市)

メルキオール熊谷の記念碑
(山口県萩市)

 ザビエルが育てた山口の教会は、1605年、2人の秀でた殉教者を出した。メルキオール熊谷豊前守元直は名高い熊谷直実の子孫で、毛利輝元の最有力家臣の一人であった。ダミアンは堺に生まれ、目の光を失っていて貧しく、路上で琵琶を弾きながら旅をし、山口に着くと、そこに住み着いた。元直は、1586年、黒田孝高の勧めでキリスト教を知り、翌年、洗礼を受けた。最初は信仰について深い知識がなく、あまり熱心ではなかったといわれる。1600年の関ヶ原合戦の後、主君に従って安芸・三入(みいり)高松城を後にし、毛利輝元とともに山口へ行った。元直は、圧迫されている教会の状況の中で新たに信仰の道を見いだし、教会に対する自らの責任を感じたと思われる。以来、元直は信者の保護者となった。彼は自分の知行に小さな教会を建て、毛利輝元に相対し公然と信者として行動した。
 ダミアンも山口でキリストに出会い、洗礼を受けた。後に結婚し、貧しいながら次第に牧者なき教会の信者の伝道士となった。ザビエルによって洗礼を受けた有名なロレンソのように目が不自由であっても、心は神によって輝いていた。熊谷元直もダミアンも自分の教会のためにすべてを捧げた。
 メルキオール熊谷元直は、1604年、萩城の落成のとき、毛利輝元に従って萩に移ったが、ダミアンは山口に留まった。教会の崩壊を望んでいた輝元は、この2人の指導者がいるかぎり、自らの目的を果たせないことを知り、口実をもうけて2人の処刑を決めた。元直は、1605年8月16日の夜明けごろ、萩の屋敷で、ダミアンは、同月19日深夜に山口の一本松の刑場で斬首され殉教者となった。手に縄を受けた元直は屋敷を包囲していた役人にむかい、自分を輝元の前に引き出すよう願った。宣教師たちの記録によれば、「この武士はよくイエスの御受難を黙想する人であった」。
 ダミアンは、19日の夜、毛利の役人から所用のため湯田まで同行するよう言われて道に出た。しかし途中で馬を止め、これは湯田ではなく処刑場への道であると言い、驚く役人にむかい、盲目の自分にとって道は夜でも明るいひなたであると述べた。ダミアンは馬から下りるとひざまずき、祈りながら殺されるのを待った。視力を失ったダミアンの道は、確かに光の道であった。
 萩の教会の墓地にはビリオン神父が建てた熊谷の碑がある。ダミアンの首は、それを見つけた信者たちの手で長崎に送られ、1614年、宣教師たちによってマカオに移されたが1995年に再び日本に戻ってきた。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

PAGE TOP