八代の殉教者

八代教会にある殉教者記念碑 (熊本県八代市)

八代教会にある殉教者記念碑
(熊本県八代市)

 八代の殉教者は、徳川期最初の殉教者である。熊本の領主加藤清正は、1601年からキリシタンたちに日蓮宗への改宗を命じ、拒否した信者に重罪を科した。この迫害で殉教した信者は、イエスの使徒たちと同じように「人間よりも神に従うべし」と領主に答えた。殉教者は11人、二つの組に分かれている。ヨハネ南五郎左衛門は、1603年12月8日、熊本において、シモン竹田五兵衛は12月9日未明に八代の麦島において斬首された。武士であった両人は、長期にわたるさまざまな弾圧に耐えぬいて、祈りながら従順に命を捧げた。
 同年12月9日の夕暮れ時に、麦島の刑場で、竹田の母ヨハンナと妻アグネス、南の妻マグダレナとその養子、7歳のルドビコ南が、はりつけの殉教を遂げた。彼らは十字架上からも神を賛美し、群衆に向かって信仰を宣言した。その時、殉教者を支え、遺体を秘かに有馬と長崎に送った3人の信者ヨアキム渡辺次郎左衛門、ミカエル三石彦右衛門、ヨハネ服部甚五郎は、1605年に投獄された。この3人は、1601年に宣教師が肥後から追放されたとき、慈悲役として司祭の代わりに教会の責務につき、子供に洗礼を授け、病人を見舞い、教理を教えるなどして、宣教師や司教と連携しながら、りっぱに責務を果たしていた。彼らは庶民であり、数年前に洗礼を受けていた。苦しい獄中生活においても、祈りと宣教に多くの時間を捧げて務めを果たした。
 1606年、渡辺は獄中での辛苦の末、帰天した。他の2人は、1609年2月4日、麦島で処刑された。その時、12歳であった彼らの息子トマス三石と5歳のペトロ服部も殺された。身体に障害があったトマスは父のそばにひざまずいたまま切られた。ペトロの殉教には恩恵の働きが見事に輝いていた。ペトロが殉教地に着いたときには、すでに他の人は皆殺されていたが、恐れることなく父の遺体のそばにひざまずき、小さな手で着物を肩から下ろして、切られるために首をそっと差し出したという。
 全員の遺体は熊本の信者のはからいにより、まず有馬に運ばれ、そこから長崎のトードス・オス・サントス教会に送られた。その後、1614年の追放の時、宣教師たちはその遺骨をマカオに移したが、1995年、マカオが中国返還を機に遺骨は日本に戻ってきた。この殉教についてセルケイラ司教は詳しい報告書を作り、1604年に教皇クレメンス八世宛に、また1609年にパウロ五世宛に送っている。
 現在、八代教会の庭にこの殉教者たちの記念碑があり、毎年、殉教記念祭が行われている。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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