米沢の殉教者

北山原殉教地 (山形県米沢市)

北山原殉教地
(山形県米沢市)

 1629年1月12日、雪に覆われた米沢の北山原、糠山、新藤ヶ台の三か所で、53人の信者が喜びと祈りの雰囲気の中で、すべてをキリストに捧げた。彼らはたいてい10家族ごとにまとめられた。米沢の殉教者には圧倒的に武家が多かったが、その中には武家に仕えていた者や、知行地の農民も含まれている。その年齢は、1歳の幼児から老夫婦まで、多くの世代を含んでいる。
 米沢教会の歴史にも特色がある。1610年ころ、上杉景勝に仕えた名将甘糟右衛門は、江戸でルイス・ソテロ神父から受洗し、霊父と同じルイスと呼ばれた。右衛門は一族の者に信仰を伝え、2人の息子ミカエル甘糟太右衛門とビンセンチオ黒金市兵衛に加えて、他の武士の家族にも信仰の種を撒いた。彼は信徒の数が増すごとに信心の組を作り、それによって家臣や知行地の農民の間にも信仰を伝えた。ルイス甘糟を中心とする仲間たちは教理を教え、祈りの集会で指導的な役割を果たしていた。パウロ西堀式部、ヨハネ板斎主計、アントニオ穴沢半右衛門などが、そうした使徒職の指導者であった。とくに甘糟右衛門による「殿談義」は高く評価されていた。各地で迫害が起こっていた1614年から1629年ころ、仏教が盛んな米沢で、千人を超えるキリシタンが信仰を守っていた。しかしこの15年間、ある年を除けば、米沢に宣教師は住んでいなかったのである。たいていは会津若松に住む司祭や修道士ヨハネ山が、時おり信者を訪れ、秘跡を授ける程度であったという。このように当地の教会は、信者の手で作られた信仰の共同体であった。信者でない地元の武士や住人たちとの関係も良かったようである。
  上杉景勝の存命中には迫害がなかったが、跡を継いだ息子定勝の代になると、もはや幕府の圧力を避けることはできなかった。殉教者たちの純粋で堅固な信仰、家族の愛のきずな、少年たちの曇りのない喜びが、この殉教の特色である。
  彼らの大多数は、北山原で処刑され、そこに葬られた。1927年、教会はこの殉教地を譲り受け、1929年、殉教三百年を記念して碑を建てた。大樹の下に石造りの十字架が建てられ、その十字架上に等身大のイエスの像、両側に等身大の聖母マリアと使徒ヨハネの像が立っている。米沢の殉教者は教会で全うされる十字架の神秘を私たちに思い起こさせ、十字架を担うイエスに従う模範を残したのである。

(カトリック中央協議会 列聖列福特別委員会)

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