子どもの使命を大切に -国際児童年にあたって-

日本の教会の皆さんへ 1976年の国連総会は、全世界の児童の権利を積極的に擁護していくため、1979年を「国際児童年」とすることを決議しました。日本におけるカトリック教会も、この動きに応じて日本司教団の「宣教司牧委員会」 […]

日本の教会の皆さんへ

1976年の国連総会は、全世界の児童の権利を積極的に擁護していくため、1979年を「国際児童年」とすることを決議しました。日本におけるカトリック教会も、この動きに応じて日本司教団の「宣教司牧委員会」からの声明文という形で、子どもに関して日本の教会の姿勢と今後の方向性を示したいと思います。

 1978年6月28日、故パウロ六世教皇は、ユニセフ(国連児童基金)実行委員長、ヘンリー・R・ラブイス氏との談話の中で、カトリック教会の基本的姿勢を次のように述べられました。 「この分野において、教会は、数世紀にわたって、子どものために思い絶えず関心を持ち努力を続けてきた。この関心は教会の創立者であるイエズス・キリストの『私は言う、だれも子どものように神の国を受けないなら、そこに入れないだろう』(ルカ18章17)という教えに従う教会の忠実さの表れである。しかし、何にも越えて我々が主張するのは、キリストが『このような子どもを受けるものは、私を受け入れるのである。』(マルコ9章37)と言われ、ご自分と子どもとを同一視されたということである。それゆえ、カトリック教会が子どもに奉仕するのは、決して一時的な目的のためでなく、キリストと同一視されたという子どもの尊厳に対する最優先の、また永久に続く使命でもある。……この国際児童年は今日の世界における子どもの計り知れない価値を見直しその評価を促進する年でもある。それは子どもとして、あるいは未成年としてでなく、りっぱな人間としての価値を認める年である。子どもの成長期間は、人間の生涯の本質的な部分でもあり、子どもにはだれも、社会をより人間的に改良し刷新していくために、子ども固有の貢献をする権利を持っている。」

 故教皇が訴えられたのは、どういうことでしょうか。子どもは確かに肉体的にも、知的にも未熟ではありますが、人間としての価値は大人のそれに決して劣るものではなくまったく同等のものです。さらに、子どもであっても、大人であっても、人間としての価値は、能力の多少とか、社会への貢献度の有無などによるのではありません。「神は、その御ひとり子をお与えになるほど、この世を愛され」(ヨハネ3章4)その御ひとり子「みことばは、人となってわたしたちの間に住まわれた。」(ヨハネ1章14)つまり、この救い主イエズス・キリストによって大人も子どもも、父なる神の子としての尊厳をいただいたからなのです。神の御ひとり子イエズス・キリストを兄弟として持つことができ、父なる神の愛に浴している人間であるからこそ、万物のうち他のいかなるものにもまさって人間を大切にすることを主張し、またそのように努力すること-これが教会の基本的姿勢なのです。さらに、子どもは、救い主キリストが、ご自分と同一視されるほどの対象でもある一方、弱い立場にある子どもというものが、何事においても大人の行動や考えに最も影響されやすい立場であることを考えると、大 人の責任と義務が、まことに重要であることをいかに強調しても足りないほどなのです。特に日本の社会を支配する風潮と、物の考え方の中に、あまりにも大人の自己中心的な傾向から来るものが多いだけに子どもの権利を守り、育てていくべき大人の責任を強調したいのです。

 経済大国となった今の日本の社会を支配している価値観は、まぎれもなく現在の大人たちが産みだしたものです。もしこの利己的に傾いた大人の価値観が、子どもの権利をそこなうようなことがあるとするならば、それは、子どもの基本的な人権の侵害となります。こう考えてみると、国際児童年は、むしろ、「家庭の年」として、親をはじめ、大人の反省の年といっても過言ではないでしょう。

 日本でも、この国際児童年には、「子どもの権利」が特に主張されていますが、子どもの権利を考えるならば、同時に、子どもも子どもなりに社会への貢献の義務と使命を持っているということを、決して忘れてはならないでしょう。しかしキリストの教えは、人間が権利を享受し、義務を果たすことに最終的理想を置いているのではありません。すべての人間が唯一の父なる神の子どもとして、互いに真の兄弟として生きることを説いています。つまり、兄弟の権利を守るために、自分自身の権利をある時には進んで放棄し、自分の義務以上のことをするという愛によってしかその兄弟愛が実現できないことを教えているのです。

子どもの使命を大切に(1)
 1、子どもは、だれでも生きる権利を持つ
 まず、第一に生きる権利は、胎児から始まります。そして、父と母とのあたたかい家庭に育てられる権利は、まず、胎児にあるのであって、胎児は親のものではありません。子どもは、決してだれの私有物でもなく、父なる神のものです。立法化された優生保護法のもとに行われる事実上の堕胎が、堂々と行われている日本の社会で、どうして互いの生命を尊重し、助け合っていく子どもが育ち得るでしょうか。自殺の低年化がめだつ現在の現象の原因のひとつに、この大人による生命軽視があるのではないでしょうか。

 最近、学問的にも、実際面にもよい効果を及ぼすようになった「自然法による家族計画」(Natural Family Planning)の普及によって、少なくともこの胎児の殺人を減少させるように努力していくべきです。

子どもの使命を大切に(2)
 2、子どもは家庭の中で育てられる権利を持つ
 福祉国家を目ざしている日本には、児童福祉についての数多くの養護施設等が設置されつつあります。しかし、これと同時に、自己の育児の責任を放棄し、不必要に子どもの養育を他人まかせにしたがる親も出てきています。この施設万能主義は、大人の無責任の表れのひとつでもあります。子どもは、家庭で育つ権利があります。特に乳幼児期は重要で、この時期に注ぐべき親の愛情は、他のだれも決して代行できないほどのものです。子どもは健全な家庭においてのみ、健全に育つのものです。養護施設で見られる悲しむべき現象のひとつに、保護者である者の、子どもの保育に関する無責任な態度があります。それぞれの分野のいわゆる専門家まかせは、どんな発達段階の子どもについてもまして、幼児の心の教育に関して、親なり保護者なりの責任を減少させるものではありません。更に不幸にして、親なり、保護者なりを持つことの出来ない、気の毒な幼児たちのために、信者の家庭が、もっと積極的に里親として、不幸な子どもを引き受けていく姿勢がほしいと思います。なぜなら乳児期の家庭のあたたかさが、人間の将来に想像以上の影響を与えるものだということをだれもが知っているからで す。

 子どもの信仰は、まず何よりも親の手によって育てられるものです。教会学校やカトリック学校での宗教教育は、その補充にすぎないことを、信者である親は自覚しましょう。忙しいから、また、どのように子どもの信仰を育てていくかわからないから、ということを決して、信仰教育の義務を免れる口実にしてはなりません。親である以上、子どもの信仰教育こそが最も大切な義務と責任であることを自覚し、親自身も、必要な指導を受け、学んでいくべきです。日本の社会の特徴のひとつに、子どもの教育には、父親の不在が見られます。すべて母親の手にゆだねられ、学校や、小教区や、施設等への他人まかせが目立ちます。子どもに対する信仰教育の責任が、母親と同様父親にもあることを強調したいと思います。

 両親の間や家族の日常の会話の中に、他人を尊敬し、他人に感謝し、あるいは互いにほめ、はげまし合う言葉や表現、態度が見られないなら、そういうことを、子どもはどこで学びとることができるのでしょうか。親の口から出るものが、いつもお金の不足の不満、他人の批判、軽べつ等しかなかったとするなら、子どもが親を尊敬できなくなっても不思議ではありません。

子どもの使命を大切に(3)
 3、子どもは、子ども固有の能力によって生きる権利がある
 子どもは、家庭においても、学校においても、その他の場でも、健全な教育を受ける権利があります。知育、体育だけでは、人間は育ちません。従来の徳育という言葉で表現されてきた全人格的教育こそ、現在最も見失われがちな点ではないでしょうか。

 大人のつくる社会の価値観の中には、学歴偏重や、消費主義から来る子どもたちの欲求不満、競争意識、さらに、教育ママたちのひとりよがりな期待が、子どもの正しい生き方を変えてしまう傾向が強いのです。世界にふたりとして同じ人間が存在しないということは、ひとりひとりかけがえのない大切な人間であり、その人ならではの良さと、欠点を持っていることを示しています。どんな人も、職業・成功・金銭・社会的地位・健康等によって優劣が決められるのではなく、神のみ前に同等であり、広い心と他人への奉仕に喜びを感じられる人こそ、価値のあることを、福音は教えています。この信仰を持つ信者家庭において、世間一般の評価のように「人並であれ」、「人に負けない人間になれ」、「人に迷惑をかける人にはなるな」という程度の理想で、子どもを教育するならば、一体、親の信仰、福音に根ざした価値観は、どこにあると言えるでしょう。エリートか、タレントになることが、子どもの幸せだと考える風潮は、子どもひとりひとりの固有の人格を無視し、いつも他人との比較で評価されるということを教えているようなものです。

 先に述べた生命軽視、学歴偏重、人並に、エリートに、といった価値観こそ、子どもに、自分の能力以上を要求する異常な親と社会の力を感じさせ、あるいは非行に、自殺においやり、あるいは、不信・欲求不満をおこさせているのではないでしょうか。子ども自身の幸せは、自分の能力を発揮し、大人よりも広い心を持ち、先入観・見え等にとらわれない素直な心を発揮することにあるはずです。だれとでも真の友・兄弟として生きようとする子どもの心に、競争心・軽べつ・優越感・劣等感を植えつけるのは、親や、大人の狭量な人間評価ではないでしょうか。人並みであれ、人に負けない人となれというようなあまりにも普及した人間の評価は、正にひとりひとりを大切に見ることでなく、他人との比較においてしか見られない、悲しい価値観と言えましょう。

 現在、日本の社会のあらゆる分野で他人に迷惑をかけない人というのが、教育における理想となっているかのように見受けられます。大学まで過ごしても、そのような人間にしか育てられないような教育であってよいのでしょうか。これは、それにたずさわる人びとと共に、教会が、これから大人となってくる子どもを受け入れる、大人の世界の責任者として、根本的に見直さなければならない課題でしょう。教育は、高い理想を示してこそ成り立つものです。人に迷惑をかけないという低次元の目標では、人に迷惑さえかけなければ何でもよいというエゴイストしか生み出せません。

子どもの使命を大切に(4)
 4、子どもには、大人より、より高い理想が与えられ、それに向かって自ら成長する道が与えられるべきである
 キリストが示された人間の価値は、人に迷惑をかけないとか、悪いことをしない人間になることでなく、生きている限り、どの人も、天の御父の子としての尊厳を持ち、同じ父の子である人間同士、例外なく皆、兄弟としてかかわりつつ生きていくことにあります。ところが、日本の学校の教育の場でも、マスコミでも、それらの理想は、なかなか示されていません。ですから、そこにこそ、教会学校やボーイ(ガール)スカウト・カトリック学校・カトリック学校・カトリック児童養護施設等が全力を注ぐ場があるのです。

 これらの、いわゆる信仰教育(宗教教育)の場で、神の国の姿が、示され、ひとりひとりの子どもが、神の国のために一役かうべく期待されていくことを示していただきたいのです。特に進学・就職・結婚という、青年にとって重大な決定をする時期に、神の国のために、神の子として、兄弟に仕えるべく全力をつくす、信仰による新たな動機を持つように導くべきでしょう。神の国のために、司祭・修道者として生き、神と人に仕える道のあることを、子どもの時から青年期にかけ、信者である限り、一生に一度は真剣に考え、神の招きに耳を傾け、いかに応えるかを考えさせることはまことに大切なことです。神の子らしく、どんな人にも奉仕していくことが、世間的に見て、いかに愚かで、損なことに見えても、神のまなざしがそこの注がれていることに、目ざめさせてほしいのです。  教会学校・カトリック学校・幼稚園等では、できるだけ身体障害者も多く受け入れ、特別の施設で別々に生きるのではなく、いっしょに学び、ともに祈り、ともに遊び、互いに補い合いながら、生きることの喜びを体験できる機会を増やしてあげてください。皆が幸せにならなければ、自分でも幸せではないという人生観を、徹底して与えるべきです。

 子どもの肉体、知的能力は大人のそれに劣るに違いありませんが、神の恵みである信仰が、子どもにおいて大人の信仰に決して劣るものでないことを、再認識しましょう。「だれでも、この子どものようにへりくだる人が、天の国で一番偉い人である。…‥私は言う。この子どもたちの天使らは天において、常に天におられる私の父のみ前に立っている」(マタイ18章4,10)というキリストの言葉を、あらためて味わうべき時は今です。 他人の目を気にしたり、世間体をまず大切にする心や、事無かれ主義・あきらめのような現実主義は、子どもの心をゆがめ、神から直接にいただくめぐみと導きに、素直に応えることも、実在することもできなくしてしまいます。こうして、大人の考えが、子どもの理想と権利を不当に妨げうることの重大さを、認識してほしいと思います。それら子どもの理想、召命への権利を見いだし、守り、育てていく義務と責任こそ、大人のものです。

 高い理想・使命に目ざめるために、子どもたちがのりこえねばならない障害は、人である限り、だれでもが持つ自己中心の傾きや罪ですが、今ひとつ子どもを囲む家庭・学校・地域社会の大人の利己的な考えもあるのです。「この小さな者をひとりでもつまずかせたら、その人は、ろばのひきうすを首にかけて海の深みに沈められる方がましである。つまずきを与えるこの世に呪いあれ!」(マタイ18章6-7)というキリストの言葉以上に、子どもをつまずかせる者たちの責任の重さを示したきびしい言葉はないでしょう。

子どもの使命を大切に(5)
 5、マスコミは、子どもに正しい判断、価値観を与える義務がある
 教育の分野をより強大な力でおびやかすものは、マスコミです。マスコミには、家庭も教育施設もおよばないほどの力があります。現在日本のマスコミにたずさわる人びとの注ぐ力の決めてになるものは、主に読者数や視聴率でしかないように思われます。これらの電波・出版の力が、いかほど、子どもたちの目や耳にふれ、かれらの心に、大人本位の価値観を植えつけているかわかりません。人間の生命の尊厳・娯楽のあり方・消費主義・社会問題等について、何を教えているでしょうか。生命の軽視・人間への不信・欲求不満等におちいらせてしまうものがあまりにも多いのです。一体、だれがマスコミに対して責任をもち、子どもの心を育て、正しい善悪の判断・人間の生命・人格・社会のあり方等の正しい価値観を与えようと努力しているのでしょうか。商業化しすぎたマスコミは、その責任の大きさを自覚すべきです。

子どもの使命を大切に(6)
 6、子どもは、神の国のため、広い心を持って、神の呼びかけに応える使命を持っている
 今まで述べてきたような権利が子どもにはあり、親や大人にはこれを守っていく義務がありますが、これと同様、子どもには、子ども特有の義務と使命があります。そして、大人は、それを育てていく責任を持っているのです。

 イエズス・キリストは、特に子どもたちをあいし、かれらにこそ、神の国が近いことを強調されました。「イエズスにふれていただこうとして、人びとが幼い子どもたちを連れて来たが、連れてくる人びとを弟子たちはしかった。それを見てイエズスはいきどおり、『子どもたちを私の所に来させなさい。とめてはいけない。神の国を受けるのは、このような者たちである。まことに私は言う。子どものように神の国を受けないと、そこには入れない。』と仰せられ、かれらを抱き、手をおいて祝福された。」(マルコ10章13-16)

 パウロ教皇も言われている通り、「子どもの単純な素直な現実把握の力、かれらの開かれた、だれでも受け入れる心の広さ、先入観や差別意識に毒されず、兄弟愛に敏感に、また、だれにでもすぐ手を広げていく才能に恵まれた純粋な喜びと積極性、また、兄弟のためには大人もできないほどの純粋な犠牲をはらう勇気と理想…」を持っていることを、すべての大人が、もっと理解すべきです。 教会や、教会と関係ある教育機関・福祉施設等で、子どもたち自身の、子どもたちによる、子どもたちのための、兄弟的な運動を育てたいものです。

 国際児童年は、世界の子どものことを皆で考える時でもあります。日本の子どもには、世界の中で使命があるはずです。民族的にも、文化的にも、兄弟として近いはずのアジアの子どものよき友、よき兄弟となっていく使命が、大人の極端な欧米志向型の先入観や、差別意識に毒されずに、推進されていくべきではないでしょうか。今の子どもが、今からアジアの仲間に関心を示し、友となっていく運動が起きるならば、かれらがやがて青年となり大人となっていく21世紀の日本の社会は、アジアの仲間として明るい将来になるにちがいありません。

 今年の正月の日本の小学五,六年生のお年玉の平均は、1万7千円ときいています。二、三年前のことですが、インドでは、1万円で4家族の半月分の食費をまかないさらに、1家族の一年分の家賃を払い、子どもの教育費もまかなったという例があるのです。フィリッピンでは、義務教育という制度が確立していないので、誰でも月謝を払わなければ、学校に行かれません。公立学校の月謝は、1年分が約1万円、私立では3万から5万円位です。この額は、わたしたち日本人には物価が安いという印象しか与えませんが、これらの国々の人びとの大部分にとっては、あまりにも高額で容易に手にすることのできない程の金額なのです。同じ年齢の子どもたちの多数が、日本の子どものお年玉程度の金額のお金はおろか、食べるものもなく、学校に行くこともできないでいるのです。

 このような現実にたくさんの兄弟たちが生きているということに、もっと日本の子どもたちが認識を深め、友愛と共感を持ち、何かできることに手を差し伸べていく場が与えられるべきでしょう。 このメッセージのほかに、子どもたちが理解し、他の仲間にも見せ、ともに考え、ともに行動に移して行けるような子ども向けのメッセージがつくられることを希望します。日本全国の教会学校・カトリック幼稚園・カトリックの諸施設がこれを活用し、またこれを土台にして、さらに子どものためによいものをつくってくださるようお願いします。こうして、日本の子どもたちが、他の子どもたちへの奉仕活動に積極的に動けるよう、皆さんの協力をお願いしたいと思います。

 さらに、教会がカトリック、つまり、普遍的であるという特色から、今の子どもたちに、韓国・中国・フィリッピン・インドネシア等のアジアの言葉を学べるような場が、設置されれば良いと思います。中学で英語を学ぶのが、日本の教育システムであるため、英語以外の外国語には、大学の場で初めてふれるのが現状ですが、そうではなく、小さい時から、隣接諸国の人たちと友だちになり、兄弟となっていくために、必要な程度の会話を修得できる場が開設されてもよいのではないでしょうか。

 日本に存在する神の民は、他の善意な人びと、志を同じくする人びとの指導や協力を求めながら、神によって支えられ、だれもが侵すことのできない子どもの基本的人権を大切にしましょう。すなわち、「子どもは家庭に産まれ、育てられ、本人本位のものの見方よりも高い理想を与えられ、それに向かって自らの成長する権利を持つと、同時に、神の国のために、広い心を持って、世界の人びと、特にアジアの仲間と友になり、兄弟として生きていくという神のよびかけ応える使命を持っている」ということを、この国際児童年にあたって、はっきりと認識し、これからの日本の教会の歩みの第一歩としたいものです。

1979年7月12日
日本カトリック司教協議会
日本宣教司牧委員会

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