メッセ-ジ「洗礼のめぐみを一人でも多くの友に伝えよう」

「洗礼のめぐみを一人でも多くの友に伝えよう」 発刊に際して  日本における宣教の歴史は、どの教区においても、大体百年前後に達しています。「 開拓は百年後にようやく実るもので、その実りを味う人びとに開拓者がなめた辛苦は到 […]

「洗礼のめぐみを一人でも多くの友に伝えよう」

発刊に際して

 日本における宣教の歴史は、どの教区においても、大体百年前後に達しています。「 開拓は百年後にようやく実るもので、その実りを味う人びとに開拓者がなめた辛苦は到 底理解できるものではない」と一般に言われていますが、宣教に関しても同じことが言 えると思います。宣教師たちは、国粋主義、軍国主義をはじめさまざまな困難にもめげ ず、教会の基礎を築きあげました。そして教会は終戦後ようやく信仰の自由を得て、万 人の救いを望み給う神のご意志を遂行すべく福音宣教に従事しています。それは社会と 共に歩む教会であり、福音の輪を社会の各層に広めゆく営みです。それには、なんとし ても共に力を合わあせて広めてゆく兄弟が必要です。この問題を皆さまと共に考え促進 させるため、私たちの委員会でこのメッセ-ジをつくりました。日曜日の説教の時これ を読んでいただき、さらに信徒養成のため、また受洗者の準備のためなど資料の一つと してご利用くだされば、とねがっています。

宣教司牧司教委員会

委員長  冨沢 孝彦

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 ヨハネ・パウロ二世教皇が、日本を訪れてくださった時から一年たちました。ここで もう一度、私たちの牧者である教皇の呼びかけを思いおこし、日本のキリスト者として の私たちの使命について考えてみたいと思います。

 教皇が訪日最初の日に福音を引用していわれたように、「イエズスにお目にかかりた いのですが」(ヨハネ12・21)という人が、私たちのまわりにはたくさんいるはず です。だれもがキリストに出会い、福音を知る権利があるのです。(パウロ六世〈福音 宣教〉53・57・80項参照)主イエズス・キリストは、私たちキリスト者だけの救 い主ではなく、他の宗教を信じる人たちにとっても、無神論の人たちにとっても、救い 主なのです。キリストは、すべての人のあがないと罪のゆるしのために、十字架の死を えらばれ、その復活によって、すべての人が新しい生命に招かれているのです。(ヨハ ネ・パウロ二世〈人間の贖い主〉10・14項参照)

 しかし、使徒たちでさえ、彼らよりも先にキリストに出会った知人や仲間たちの紹介 (証言)がなければ、キリストに出会うことはできませんでした。つまり、具体的には、人を通して、私たちははじめてキリストに出会う機会をいただくのです。(〈福音宣教〉24項参照 )

 ですから、すでに洗礼のめぐみを受けている私たちは、自分のところでこのキリスト との出会いを止めてしまってはいけないのです。それは、神がさらに私の友人に伝えさ せるために、先に私をお呼びになったということなのです。なぜ他の人よりこの私が洗 礼のめぐみに浴したか。この神のご計画について考えるとき、私たちをかりたてるのは、このめぐみを友にも伝えたいという強いのぞみではないでしょうか。

 日本の教会の特色の一つは、信者の数が少なく、一億二千万人の中で、わずか四十万 人という小さな群れであるということです。しかし、明治以降、およそ百年の宣教の歴 史を経て、社会にキリスト教のイメ-ジはひろがりました。また、キリスト教に好意を もっている人たちの数が多いのも、他の非キリスト教国にはみられない、日本独特の現 象でもあります。私たちが、さらに呼びかけるべき人たちは、意外にたくさんいるので す。

 でも、キリストに出会うということは、ただキリストについての知識がふえるという ことではなく、古い生き方を変え、新しく生まれ変わるという回心を意味します。それ が、私たち一人ひとりの福音化ということです。それが、福音を生きるということです。  自分自身の利益ばかりを追求する生き方、自分と家族のみの救いを求める生き方、だ れも邪魔されない平凡なマイホ-ム主義、日本さえ平和で豊かなそれでよいという閉鎖 的な考えの「古い人」を捨てることが必要です。またそれは、すべての人の幸せのため に自分もなにかしようという決意を持ち、みなの幸せが私個人の幸せと感じられるよう なひろい心を持ち、自分の持っているよいものを持たない人のために役立てようとする 寛大な心の「新しい人」となることでもあります。さらに国際的な面では、アジアの人 びとのため、全人類の幸せのために貢献するような日本をつくる努力が、社会の福音化 につながるのです。

 キリストの救いのわざを通して、神の愛によって、すべての人に新しい生命への道が ひらかれました。それほどまでに私たち一人ひとりが神に愛され、期待されていること は、大きな喜びです。神のめぐみに協力するなら、かならず社会全体の福音的な前進が 可能であるという希望をも与えてくれます。ここに洗礼のめぐみを喜び、感謝する動機 があります。洗礼を受け、福音化されつつ成長し、新たに生れかわった人びとがいなけ れば、新しい社会も、新しい人類も生れてはこないのです。(〈福音宣教〉15項参照)  私たちは少数ですが、このためにこそ神に選ばれ、期待されているのです。私たち全 員の目標は、日本の、そして世界のすべての人びとが、この世でも、また死後も、神の めぐみによって、より幸せになることです。それは、自己中心の生き方ではなく、みな の幸せのために神と共に生きていくことにあります。私たち自身の福音化をはじめ、ま わりの人びとの福音化が、家庭で、学校で、職場で、地域社会で進められていくとき、 日本は全人類に真に貢献できる国となるでしょう。でも、それほどの影響を社会におよ ぼすためには、どうしてももっと多数の仲間を必要とします。ですから、洗礼のめぐみ を一人でも多くの友と分かち合い、社会のために生きる仲間をふやしていくために、こ れまで以上の祈りと犠牲、熱意と工夫が、今、求められているのではないでしょうか。

 教皇が昨年の二月二十三日、司教団にむかっていわれた次の言葉を、もう一度お伝え したいと思います。

 「兄弟の皆さん、私たちはさまざまな障害や挫折にもかかわらず、福音を人びとに伝 え続けましょう。福音こそ、利己主義や人生の無意味さ、逃避、失望にたいする唯一の 答えなのです。キリストに従う者として、私たちはキリストの言葉と、キリストの心の やさしさを人びとに伝えましょう。それは、私たちのできる、そして私たちにしかでき ない、救いへの協力なのですから・・・・」

1982年3月 

                宣教司牧司教委員会

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