核兵器廃絶の日本カトリック司教団アピール

 わたしたち日本カトリック司教団は今年2月、『平和への決意-戦後五十年にあたって』を発表し、「キリストの光のもとに戦争の罪深さの認識を深めて、明日の平和の実現に向けて全力をつくす決意を新たに」いたしました。その中で「核兵 […]

 わたしたち日本カトリック司教団は今年2月、『平和への決意-戦後五十年にあたって』を発表し、「キリストの光のもとに戦争の罪深さの認識を深めて、明日の平和の実現に向けて全力をつくす決意を新たに」いたしました。その中で「核兵器の破壊的な力を体験した私たちには、その貴重な証人として、核兵器の廃絶を訴え続けていかなければならない責任がある」ことを確認し、具体的に「武器輸出の禁止、核廃絶、軍事費の削減等の実現のための活動を展開する」ことを提示しました。

 教皇ヨハネ・パウロ二世は、広島と長崎を「人間は信じられないほどの破壊ができることのあかしとして存在する悲運を担った、世界に類のない町」(「平和アピール」1981年)と定義されました。人類史上初の核兵器の犠牲となったこの二つの町をもつ日本にあって、日本のカトリック教会は、核兵器をはじめ科学兵器を含むすべての兵器を廃絶するよう、世界の人々に訴える責任と義務があると考えます。

 1945年8月6日と8月9日、広島と長崎は人間がつくった原子爆弾によって、生命が一瞬のうちに無に帰すという体験をしました。あの日以来、広島と長崎は、原子爆弾が地球人類を絶滅させる非人間的な無差別大量殺傷兵器であることを証言し続けています。しかし、この50年間核兵器は質量ともに増強され、いまだに核兵器の実験が続けられています。日本のカトリック教会は、すべての核保有国に対して、核兵器が非人道的でありかつ悪であることを訴え、できうる限りすみやかに核兵器の実験を停止し、核兵器を廃絶するよう求めます。

 核兵器をはじめあらゆる兵器の製造と使用を中止するよう訴えることは、聖書と教会の教えに従うことでもあります。旧約の預言者は「馬を支えとし、戦車を頼る者は災いだ」(イザヤ31・1)、「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直してすきとし、やりを打ち直してかまとする。国は国に向かって剣を上げずもはや闘うことは学ばない」(イザヤ2・4)と語っています。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26・52)という主イエス・キリストのことばも思い起こします。

「都市全体または広い地域をその住民とともに無差別に破壊することにむけられた戦争行為はすべて、神と人間自身に対する犯罪であり、ためらうことなく固く禁止すべきである」(『現代世界憲章』80)。「軍備競争は、平和を確保する安全な道でもなく、それから生ずるいわゆる力の均衡も、確実で真実な平和ではないことを人々は確信すべきである。………不安の圧迫から世界を解放して真の平和を打ち立てるためには、精神の改革から出発して、新しい道を選ばなければならない」(同81)。「新しい道」とは、紛争や対立を戦争や武器によってではなく、平和的手段で解決することです。

「平和を祈る者は、1本の針をも隠し持っていてはならぬ。自分が―たとい、のっぴきならぬ破目に追いこまれたときに自衛のためであるにしても―武器をもっていては、もう平和を祈る資格はない。戦争をまったく放棄することが、平和の祈りの前提条件である」(永井隆『平和の塔』)。自らも被爆し、被爆者のために献身した永井隆の精神を、わたしたち一人ひとりの精神としたいものです。

「長崎を最後の被爆地に!」この悲願を世界の人々と共有できるよう、平和の使徒として働く決意を新たにしつつ、あらためて、各国政府とすべての善意の人々に向かって、次の事項を訴えます。

(1) すべての核保有国が核兵器の実験を停止し、核兵器を廃絶すること
(2) すべての国家が武器の取り引きと開発を禁止すること
(3) あらゆる軍備の縮小

さらに上記の事項に関して、日本カトリック司教協議会は、諸国のカトリック司教協議会に以下のことを要望します。

(1) 上記の提案に対する賛意の表明
(2) 上記の提案実現のための祈り
(3) 上記の課題実現へ向けての、日本のカトリック教会との対話と意見交換

1995年6月23日
日本カトリック司教団

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