「宗教法人法改正」に対するカトリック教会の考え方

関係者各位  はじめに  「オウム真理教にかかわる一連の事件」は、わたしたちに非常に大きな衝撃を与えました。今この事件の全貌は、警察の取り調べによって解明され、法廷によって裁かれようとしております。わたしたち、カトリック […]

関係者各位

 はじめに

 「オウム真理教にかかわる一連の事件」は、わたしたちに非常に大きな衝撃を与えました。今この事件の全貌は、警察の取り調べによって解明され、法廷によって裁かれようとしております。わたしたち、カトリック教会は、宗教法人として認証された団体が犯したといわれる一連の事件を、刑事事件として法廷による裁きを冷静に見守っていきたいと考えております。その解散問題も、この公平な裁判の決定を待って、最終的な断がくだされるべきと考えております。

 また、宗教団体が非人道的、反社会的な行為を犯した、ということから、宗教法人法の見直しと改正を求める世論が、大きくなってきたことも事実であります。このような世論を背景に、政府は、宗教法人審議会に諮り、その答申を受けて、この秋の国会で、その改正案を成立させようとしております。

 今、わたしたちは、宗教法人のあり方が社会から問われていることを誠実に受け止め、審議会の審議状況およびその答申案に深い関心を払ってまいりましたが、今国会に提出された改正案に対して両手を挙げて賛同できるものでないことを、ここに表明するものであります。

一、今回の改正案が「オウム真理教の事件」絡みで検討されたことにとまどいます。  まずわたしたちは、今回の「オウム真理教事件」は現行法でも十分対応できることを、指摘いたします。    宗教法人法第八十一条第一項には、宗教法人が「著しく公共の福祉に反する行為を行ったとき」あるいは「宗教団体の目的を著しく逸脱した行為」をした場合には法人の解散を命ずる規定がありますし、また八十六条には、「この法律のいかなる規定も、宗教団体が公共の福祉に反した行為をした場合においては、他の法令が適用されることを妨げるものと解してはならない」との規定もあり、今回の事件は、現行法の適切な運用によって処理できることと考えます。

二、時間をかけた冷静な審議を求めます。  今日、宗教はわたしたち日本人にとっては欠くことの出来ない重要なものになっております。何らかの形で宗教を信奉している日本人の数は、文化庁の統計によりますと、日本の総人口を超えております。その数を鵜呑みにするつもりはありませんが、そこから現代社会の中にあっても、実に多くの人々が宗教に希望を求めようとしている事実が浮かび上がってまいります。

 また宗教法人として認証されている団体の数は、日本全国で十八万余になります。その大半は、誠実に宗教団体としての本来の使命を果たしておりますが、その認証の歴史、会員数、活動および事業内容、財政規模等は、さまざまです。その活動、財政、運営は、消費経済が発展した社会の中で、これまでの歴史の中では予想もできなかった難しい問題に直面しております。

 残念なことに、今回の法改正は、このような宗教法人の多様な実態とその果たしている役割そして直面している問題点等を、正確に把握した上でのことではありませんでした。審議会に議題として取り上げられてから答申まで、わずか数カ月でありました。十分な実態把握のないまま、現代人にとって重要な意味をもつ宗教のあり方を左右する宗教法人法改正の結論が、短期間で纏められようとしていることに対して、わたしたちは、期間をかけた慎重な審議を求めるものであります。

 三、政府が主導となって行われた改正への動きに、わたしたちは、政教分離の原則が脅かされていくのではないかと懸念を抱いております。  戦前、国は、伝統的な宗教を公認宗教とし、その他の宗教団体に対しては宗教団体法をもって管理・監督いたしました。軍国主義的政策に逆らうという疑いがある時には、厳しい弾圧も加えました。カトリック教会は、外国の宗教としてその活動に不当な干渉を加えられました。またカトリック教会の外国人宣教師の多くが、宣教活動を制限されただけでなく、強制的に収容されるなどして、その人権まで抑圧された歴史があります。

 こうした歴史の反省に立って、戦後「政教分離」と「信教の自由」の原則が確立され、その基本の上に現行の法人法が制定されました。現行の法人法は歴史の痛みを通して与えられた貴重なものであります。今後、どのように宗教法人法が改正されるにしても、「政教分離」と「信教の自由」の原則は、侵犯されてはならないものであります。

 今回改正されようとしている項目のなかの、活動報告の義務、所轄庁の質問権、信者や関係者への情報開示等は、国の所轄庁や行政機関の指導や干渉に道を開き、やがては「政教分離」の原則を否定していく可能性のあるものです。この項目等に関しては、二つの原則が侵犯されることのないよう、十分確かな歯止めを求めたいと思います。

四、今回の改正が、政党間の力関係の中で論議されようとしていることに、不安を抱きます。

 宗教の問題を政争の具とすることは、宗教への政治の介入の道を開き、結果として「政教分離」と「信教の自由」の貴重な原則を否定する結末になってしまうのではないか、と憂慮いたします。

 わたしたちは、ここで政治と宗教との関係を明らかにしておきたいと考えます。

 現代のような多様な価値が共存する民主社会の中では、宗教は政治からある一定の距離を置くべき、とわたしたちは考えます。事実、わたしたちカトリック者は、同じ洗礼、同じ信仰、同じ恵みに生かされながら、具体的な政治活動におけるそれぞれの選択は必ずしも同じではありません。同じ信仰者でありながら、現実社会における生き方は異なり、その具体的な姿勢は、ときとして対決するような場合もあります。しかし、どのように対決しようとも、そこに共通するものは、愛の教えを最高の価値として抱く点であります。実に、どのような政治的な立場に立とうとも、わたしたちカトリック者が、妥協することのできない最高価値として信じるものは、キリストが聖書の中で示した、神と人とを心を尽くし、魂をつくし、精神をつくして、力をつくして愛することであります。

 強調するようですが、複雑多様な現代社会にあって、愛の具体的な実践は、個々人の良心の熟慮と決断に委ねられねばならないと考えます。特に、現代のように、地球上の出来事にすべての人間が責任が負わなければならない時代においては、個々人の良心に対する信頼を深め、民族、国家、党派、イデオロギ・の違いを超えて、一人ひとりが真剣に誠実 な対話と協力を推進していかなければならない、と考えます。

 しかし、それは、政治に対して無関心でいいということではありません。むしろ、政治は人間の生き方に大きな影響を与えるものですから、神と人への愛の責任から、怠けてはならない重大な義務として、誠実に政治にかかわっていかなければならないと考えております。                                     

 また、わたしたちは、国、あるいは社会が、神の権利を犯し、かけがえのない人間の尊厳を踏みにじると思われる場合には、そのあやまちを指摘し、その是正を求めて、声をあげ、行動に移していくものでもあります。それが、結果として、政治活動としてとらえられることがあるかもしれませんが、その根底にある炎は、神と人に対する愛であり、その活動は「信教の自由」と「政教分離」の原則の範囲の中に留まるものであります。

 以上のような理由から、わたしたちは、宗教団体は特定の政党に偏向すべきではないと考えます。

五、宗教団体自ら、自主的に、自浄努力を進めていかなければならないと考えます。  「昭和二十六年制定以来の社会の変化、宗教法人の実態の変化への対応という視点から法の見直しを行う必要がある」という審議会の指摘は、わたしたちも肯定するところであります。またそれは、宗教団体に対する世論の深い不信感を拭いさるためにも、宗教団体が自主的に真剣に取り組んでいかなければならない重要な課題とも考えます。そのためにここで、わたしたちは、三つの具体案を提唱いたします。

 イ、宗教団体自ら、教団内部の関係者のみならず、社会一般に開かれた、透明感のある

教団の活動および財政報告のあり方・方法を検討し、実現する。

 ロ、宗教団体が、自主的に、各界に広く協力を呼びかけて、第三者的機関を設置し、実

態を踏まえた、現代社会における宗教法人法の具体的な見直しを検討する。

 ハ、一般社会には、信教の自由に配慮しつつ、公教育のカリキュラムの中に、学問とし

ての「宗教のあり方や意味について」の授業の導入を呼びかける。

    実に、宗教に対して多くの人々が求めているにもかかわらず、戦後、日本の公教育の中では、宗教に関する基礎的な授業が全く行われてきませんでした。宗教法人法の改正の前に、国民全体で宗教に関して正確な認識を深めていくためにも、公教育の中での宗教の授業の導入が必要と考えます。               

結び

 わたしたち、カトリック教会は、宗教法人として認証された仲間が、社会に大きな不安と混乱を与えてしまった事実を直視し、多くの人々が宗教団体のあり方に深い不信を抱いていることを謙虚に受け止め、原点に立ち戻り、改めるべきことは改めて、宗教団体として期待される本来の使命を誠実に果たしていくことができるよう、努力していきたいと考えております。

1995年10月17日
日本カトリック司教協議会 常任委員会

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