大聖年をよりよく過ごすために

-殉教者の意味を考える- はじめに  使徒的書簡『紀元二〇〇〇年の到来』は、殉教者について度々言及しています。日本 のカトリック司教団もイエス・キリスト生誕二〇〇〇年に備えて、各地で日本の殉教者 崇敬の行事を盛り上げるよ […]

-殉教者の意味を考える-

はじめに

 使徒的書簡『紀元二〇〇〇年の到来』は、殉教者について度々言及しています。日本 のカトリック司教団もイエス・キリスト生誕二〇〇〇年に備えて、各地で日本の殉教者 崇敬の行事を盛り上げるよう勧めています。特に、ザビエル渡来四百五十年祭と、豊臣 秀吉によって長崎西坂の丘で処刑された日本二十六聖人殉教者四百年祭を意義ある祝典 にするように具体的提案を行っています。しかし、殉教者のお祝いをすることが大聖年 の目的ではありません。今、私たちに問われているのは、殉教者の生き方に倣って殉教 の精神を生きることです。  そこで、今回は殉教の精神とは何かをご一緒に深め、さらに日本の教会の信者が殉教 者に倣って現代に生きるように、呼びかけたいと思います。

イエスは殉教者の原型   殉教者とは、一般的に『証人』の意味を表しています。キリスト教の用語としては、 【イエス・キリストを忠実に証明するために生命をささげた人】という意味で使われて います。イエス・キリストは父のみ旨を果たすために自らをいけにえとしてささげまし た。そのためにあらゆる侮辱や苦しみ、嘲笑を忍び、沈黙を貫かれました。そしてつい に十字架の死によってご自分の生命をささげました。また、自分を死に追いやった人々 をゆるし、彼らのために祈りました。この態度こそ後に続く殉教者の模範であり、原型 でした。殉教者たちはイエスの模範に励まされて、自分の苦しみと生命をささげて、イ エス・キリストの忠実な証人となったのです。

 私たち信仰者も、イエスの模範と殉教者の生き方に励まされて、自分の苦しみ、自分 の生命そのものをささげるように招かれています。侮辱、孤独、嘲笑、人生の苦しみな どを信仰の精神をもって受け入れ、ゆるし、孤独に耐え、他人のために祈り、他人を助 ける生き方を目指すことが大切です。殉教者を敬うとは、自ら殉教の精神を生きること を表しています。

殉教は救いの計画の実現

 「血を流すことなしに罪がゆるされることはない」(ヘブライ9・22)。イエスが流 された血は、すべての人々の救いの原因でした。イエスが死の苦しみを味わったことに よって、初めて人類に救いがもたらされました。マリアはイエスの殉教に深くかかわっ ていることから、『殉教者の母』として尊ばれました。殉教者は自分の苦しみを通して イエスとともに人類の救いに参加した人たちです。彼らは愛する主イエスとともにこの 世界の人々のために自分をささげました。私たち信仰者にもイエスは「自分を捨て、自 分の十字架を背負って、私に従いなさい」(マルコ8・34)と言われて、ご自分ととも にこの世界の救いに参加するように招いておられます。

 それでは、主イエスの招きに、私たちはどのように応えることができるのでしょうか。 まず、主イエスは私たち信仰者が教会とともに生きることを教えています。なぜなら、 教会はイエス・キリストが始められた救いの業を続ける務めをいただいているからです。 その主な務めは、みことばを宣布することと、秘跡によって信仰者の生活を高めること です。私たち信仰者には教会生活、特に秘跡を大切にすることが勧められます。聖体祭 儀はイエス・キリストとともに、人々の救いのために自分を捧げることを求め、悔い改 めの秘跡は神と和解し、自分を清めることを通してよりよい社会をつくることを求めて います。このように、秘跡にあずかることで、主イエスの血による救いの業に参加する ことができます。同様に、福音のことばを大切にすることが強調されています。みこと ばは信仰者を内より変えていく力をもっており、私たちにはみことばを聴き、それを伝 える務めがあるのです。

 日本の殉教者は何よりも教会の生活、特に聖体祭儀と悔い改めの秘跡を大切にしまし た。殉教者に倣うとは、教会の秘跡を大切にし、それを自分の生活に活かすことにあり ます。また、日本の教会は、どのようにキリスト教を日本の文化に根づかせるかに苦労 してきました。その中で、みことばこそ信者を励ます大切な手段であると感じています。  以上のようなことから、殉教者を崇敬するにあたっては、まず、自分と教会とのかか わりを振り返ってみることをお勧めします。

殉教者はあかしする人   『わたしは真理について証しをするためにこの世に生まれ、そのためにこの世に来た』 (ヨハネ18・37)。イエスは弟子たちに、将来自分と同じように迫害されると預言しま した。その時は、聖霊が話してくれるので心配するなとも言っています(マタイ10・16 ~21参照)。殉教者とは、カトリック教会の中で信仰を守り通した偉い人程度の意味で はありません。彼らはこの世界で『真理をあかし』するために遣わされ、そのことのた めに受難しました。聖霊の語るままに自分の信仰、信念に基づいた生き方を宣言したの です。それが当時の為政者、見識者の心証を悪くしたことも否めません。また、政治的 思想や人間的思惑を乗り越えた非常識、頑固といった印象も多くもたれていました。多 くの場合、彼らのもつ人生に対する信念、モラル観念は当時の通常観念に強い警鐘とな ったのです。彼らは決して譲れない何ものかがあると宣言し、そのためにあえて死を選 んだのでした。 殉教者はまた愛をあかしした人たちです。「友のために自分の生命を捨てる、これにま さる大きな愛はない」(ヨハネ15・13)。教皇ヨハネ・パウロ二世は日本の殉教者を 『愛の証人』と宣言しておられます。愛さないで殉教することはできませ。殉教とは神 を愛し、人を愛し、そのために死を選ぶ行為です。

 殉教とは、真理をあかしし、決して譲れないと心に決めたことから起こっています。 しかし、殉教の大切な要因はこれを公言することにあります。『わたしはキリスト教徒 です』とローマの殉教者たちは公言しました。『わたしは教えを捨てることができませ ん』と日本の殉教者は公言して死刑に処せられています。そしてさらに、殉教者は現代 社会にも警鐘を鳴らし続けているのです。彼らは高いモラル観念、譲ることのできない 信念、超自然の価値観などを通して現代社会に反省を求めています。殉教者の遺徳を称 える私たちは、彼らのもつ価値観を現代社会に投げかけていく務めがあります。なぜな ら、私たちは彼らの後継者だからです。私たちに必要なことは、自分の信仰を公言して いく勇気をもつことです。それは、自分だけの信仰を個人的に守っていくことでもなけ れば、殉教者をすばらしいと称えるだけでもない、もっと積極的な生き方なのです。

殉教は聖人になる道

   初代教会の信仰者は殉教者への崇敬をもっていました。また、殉教へのあこがれを抱 いていました。彼らこそ、イエスの模範に完全に倣った聖人として考えていたからです。 日本の教会でも歴史の初めより、殉教者は聖人として崇めていました。一粒の麦が地に 落ちて死ねば何倍の実を結ぶとイエスは言います。実際、ステファノの殉教はパウロの 回心を生み、その結果何倍もの霊的実りを結びます。殉教者を生んだ土地は、多くの霊 的実りを産み、新しい信仰の種が芽生えました。

 迫害の終わったローマ時代、信者はより高いキリスト教生活の理想を求めて砂漠に退 きました。砂漠は殉教に代わる神の完全な一致の場と考えたからです。そこでは苦行と 節制、労働、祈りの日々を過ごしました。これが修道生活の起源となったのです。さら に時が経つにつれて、人々が住む社会の中にこそ神との一致があると信じ、社会の間で キリストをあかしして生きる理想を求める信仰者が出てきました。殉教も、砂漠の中の 生活も、社会の中の生活も、すべてイエスに倣って聖人になる道を歩むことを意味して います。殉教者の遺徳を偲ぶとは、自ら神に向かって成聖の道を歩むことを意味してい ます。

 現代社会の矛盾の中でも真面目に人生の意味を探し、弱い人々の立場に立って自分を 忘れて献身している人々がいることは大きな慰めですが、反面、日本の社会には安楽な 生活、遊興を求めるあまり、人生の意味を見失う危険にさらされている人々が多くいる ことも事実です。大切なことは信仰者一人ひとりが、召されたそれぞれの道に従ってイ エスに倣い、よりよい社会の建設のために最善をつくすことなのです。

殉教は永遠の生命をもたらす

 日本の殉教者は最後のお別れに、『パライソ(天国)で会いましょう』と挨拶してい ます。彼らは、見えないあの世のことよりも、今の生活が大切であると何度も諭されま した。その結果、うつけとか、狂気の沙汰呼ばわりされました。

 永遠という観点に立って、殉教者は現世の出来事を解釈します。その観点から、譲れ ないものを譲れないと彼らは宣言します。その視点に立つとき、血縁関係が壊れても仕 方がないとさえ考えます(マタイ10・21参照)。現代社会は刹那的なもの、今の世のこ とのみを追う傾向がありますが、殉教者は永遠で不変の価値がこの世にあることを私た ちに告げています。『イエス・キリスト』が、私たちに与えられた何物にもまさる恵み であるように、『イエスに倣った殉教者たちの群れ』も私たち信仰者にとって最高の賜 物なのです。永遠の生命を信じて神にすがって生きることにより、弱い私たちも殉教者 の強い生き方を自分のものとして生きることができるのです。  

おわりに

 今回はカトリック教会の中での殉教のみを挙げましたが、一つの信念のために生命を ささげた他の多くの人々が存在していることも認めなければなりません。教皇ヨハネ・ パウロ二世はカトリック教会外の聖人殉教者のことにも言及しておられます。「教皇パ ウロ六世がウガンダの殉教者の列聖式の説教の中で指摘したように、血を流すことも辞 さないキリストに対するあかしは、カトリック、正教会、聖公会、プロテスタント共通 の遺産となっています。」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『紀元二〇〇〇年の到 来』37)

 殉教者を過去の偉人にしてはいけません。また、政治上の必然的な犠牲者にしてもな りません。自らの生と死を『イエスの名』のために選んだ聖人であることを留意しまし ょう。そして、特にわが身を振り返って、襟を正す生活に向かっていくことにより、大 聖年の準備と祝典の中で殉教者を祝う意義をはっきり意識するように務めましょう。

一九九六年十一月九日 ラテラン教会の献堂の日に
日本カトリック司教協議会
大聖年準備特別委員会

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