道、真理、いのちであるキリスト

はじめに  皆さん、すでにご存じのように、ヨハネ・パウロ二世教皇は紀元二〇〇〇年を「大聖年」とし、一九九七年から一九九九年までの三年間を特別な準備期間とすると宣言され ました。第一年目の今年は、「聖霊の働きによって人とな […]

はじめに

 皆さん、すでにご存じのように、ヨハネ・パウロ二世教皇は紀元二〇〇〇年を「大聖年」とし、一九九七年から一九九九年までの三年間を特別な準備期間とすると宣言され ました。第一年目の今年は、「聖霊の働きによって人となられた神のみ言葉、キリスト」 (『紀元二〇〇〇の到来』40)がテーマです。このテーマにそって、大聖年準備特別委 員会も幾つかの文書を用意することにいたしました。その初めとして、「道、真理、い のちであるキリスト」を見つめてみたいと思います。

1 イエス・キリストを知る・・・・道であるキリスト

       最近、聖書研究が盛んになり、福音に親しむ人が増えてきたことは嬉しいことです。 聖パウロは、「わたしの主、イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今 では他の一切を損失と見ています」(フィリピ3・8)と言っています。パウロがここで 言っているのは、復活なさって、今わたしたちとともにおられるキリストのことです。 主キリストは、今もわたしたちにご自分のいのちを注ぎ、励まし、支えてくださってい ます。わたしたちがナザレのイエスのことを学ぶのは、今もともにおられる主キリスト を知るためなのです。

 イエスは、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのとこ ろに戻ってくる」(ヨハネ14・19)と約束されました。その通り、復活の後に、主キリ ストは戻ってこられました。わたしたちの主イエス・キリストは常にわたしたちととも におられる神なのです。キリストは「道であり」、キリストを通らなければ、だれも父 のもとに行くことはできません(ヨハネ14・6 参照)。父のもとに行きたければ、どう しても「道であるキリスト」を知り、キリストにすがらなければならないのです。

 日本二十六聖人殉教者は立派な信仰者でした。しかし、彼らにも、イエスに従うこと は難しく、殉教は苦しい戦いでした。それにもかかわらず従ったのは、主キリストを信 じたからでした。キリストはその彼らを喜ばれ、困難や苦しみを喜んで乗り越える力を お与えくださったのです。主の力が働くとき、人間はそこまで変えられるのです。「神 は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試 練と共に、それに耐えられるよう逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリン ト10・13)

 わたしたちもイエスに従わなければなりません。実践することが重要なのです。人間 は弱い者です。しかし、あきらめてはなりません。キリストとともに歩むとき、主がそ れを乗り越えさせてくださることを信じましょう。「この大祭司は、わたしたちの弱さ に同情できない方ではなく、……あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭わ れたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただ くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4・15~16)。

2 キリストにならう・・・・真理であるキリスト

 最後の晩餐のとき、「主よ、わたしたちに御父をお示しください、そうすれば満足で きます」(ヨハネ14・8 )というフィリッポに、イエスは「フィリッポ、こんなに長い 間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」 (ヨハネ 14・9)と言われました。キリストこそ父なる神を、そして父のお望みをわた したちに正しく示してくださる方なのです。そして、「真理であるキリスト」が示して くださった第一のことは、神とわたしたちの新しい関係であり、新しい契約の時代に生 きている者の姿なのです。

 イエスが「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ」(マタイ 9・17)と言われ たように、神とわたしたちの関係は旧約の時代とはすっかり変わり、全く新しい生き方 が求められることになりました。神は「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊をわたしたち の心に送って」(ガラテヤ4・6)、わたしたちをご自分の子供としてくださったのです。 神の子供としていただいたのであれば、子供として生きなければなりません。「父の愛 にお応えしよう、父に喜んでいただこう」という子供の心が必要になってきたのです。 イエスのお姿を振り返ってみましょう。ご受難、ご死去を最初に予告されたとき、驚い たペトロはイエスをわきにお連れして、いさめました(マルコ 8・31~参照)。善意か らだったことは疑いありません。しかし、イエスのお返事は「サタン、引き下がれ。あ なたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ 8・33)でした。厳しい おことばです。イエスの脳裏には、「父の望みに応えよう、父の愛にお応えしよう」、 これしかないのです。ですから父のみ旨から引き離そうとするものは、すべて悪魔の誘 惑と感じられたのでしょう。

 このイエスにならわなければなりません。子供として、父のみ旨を何よりも大切にし ようとする姿勢が求められているのです。単に善いことだからとか、価値あるからとい うだけでは足りません。この基準だけでは、時々不条理とさえ思われる神のご意志に従 うことはできないでしょう。また、「決められていることなので、従う」というファリ ザイ派や律法学者の考え方とも違います。子供として、父の望まれることは自分から進 んで行おうとする姿勢が求められているのです。たとえ、できることは小さくても、子 供として父に何倍も喜んでもらうことができる、キリスト教はそういう宗教なのです。

3 キリストに近づく・・・・いのちであるキリスト

 言うまでもなく神のいのちにあずかるためには、「いのちであるキリスト」、ご聖体 に近づかなければなりません。初代教会はご聖体を特別の宝、秘密の宝として大切にし ていました。洗礼を受けていない人には、ミサに参加しても、奉献の頃から席を外して もらうのが規則であったと言います。もちろん、ご聖体を汚されることのないようにと いう用心のためだったのでしょう。しかし、何よりも、神ご自身がこんなにも近くにい てくださることへの驚き、畏敬の念からではなかったでしょうか。現代の教会にもぜひ 取り戻したい感覚です。

 子供や初めて教会にくる人たちは、ご聖体についての最初の教えを、聖堂での司祭や 信者の姿から学ぶといわれます。アドリミナ(五年毎に行われる司教のローマ聖座訪問) の後、司教たちの間で何度かこんな話がかわされました。「ミサを捧げるとき、パパ様 の姿を思い出して、思わず姿勢を正してしまう」と。ミサを捧げる教皇様の姿は「ここ にどなたがいらっしゃるか」ということを、ことばよりも雄弁に教えてくれるのです。 わたしたち信仰者には、「信仰の神秘」を神秘として感じ取らせる責任があるのです。 ご聖体の信心は、十一世紀から始まったと言われます。しかし、ご聖体における「キリ ストの現存」は初代教会からの確信でした。ですから、十一世紀以来、ご聖体に対する 信心のないカトリック教会の聖人は一人もいないのです。もちろん、ご聖体はパンにし か見えません。しかしその中に、聖人たちは見えないお方をいつも見ようとしていたの です。これが信仰者の姿勢ではないでしょうか。神学的にどんなに正しい知識があって も不十分です。「ここに神がおられる」という現存の感覚を育てることから始めなけれ ばならないでしょう。

 「二人また三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」 (マタイ 18・20)。このおことばはただ、「そのつもりでいなさい」ということでしょうか。「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこ とである」(マタイ25・40)。これも親切をさせるための方便でしょうか。秘跡の場合 とは違っても、イエスが「そこにわたしもいます、最も小さな人はわたしなのです」と いわれたのです。信仰者には、神秘を現実のこととして受け取ろうとする姿勢が必要で す。

おわりに                                        

  この度、今年のテーマ「キリスト」について、大切と思われる「道、真理、いのちで あるキリスト」を浮き彫りにしてみました。皆さんの熱心な祈りと真剣な準備によって 、恵み多い大聖年を迎えることができすように。                                                           

 一九九七年二月十二日 灰の水曜日に
日本カトリック司教協議会
大聖年準備特別委員会

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