1998年「国際協力の日」メッセージ

毎年、各国の教会は、それぞれの司教協議会で定めた日を「世界移住の日」とし、特に移住者と難民のために祈り、献金することにしています。日本の司教協議会は、「世界移住の日」を「カトリック国際協力の日」とし、9月の第2日曜日を当てています。教皇ヨハネ・パウロ二世は今年の「世界移住の日」のメッセージの中で次のように語っています。「教会は、あらゆる人間が尊重され、人間の尊厳を脅かす差別が克服されるために、すべての善意の人々がそれぞれ貢献するよう呼びかけます。」

1998年「国際協力の日」メッセージ
「霊はわたしたちを人類愛と平和へ導く」

愛する兄弟姉妹の皆さん
1.教会は司牧上の責務から、増え続ける移民や難民について深く憂慮し、こうした現象がなぜ生じ、また、種々の理由で祖国を離れなければならなかった人々が具体的にどのような状況に置かれているかについて考察を重ねています。実際、世界の移民や難民は、かつてないほどにひどい状況に置かれているように思われます。時には、繰り返される虐殺から逃れるために、住民全体が祖国をあとにしなければならないこともあります。もっと頻繁に見られるケースは、貧しく、将来発展の見込みがないために、個人や家族全員で祖国を離れざるを得なくなる人々です。彼らは遠く離れた地に生き残る場を探し求めているのですが、歓迎してくれるところを見つけるのは容易ではありません。

このような困難や苦しみを抱える移民や難民のために、多くの自発的な行動がとられています。こうした活動にかかわっている皆さんに深く感謝するとともに、数々の困難を克服しつつ、その寛大な支援活動を続けてくださるよう心から激励の言葉を送りたいと思います。文化的、社会的、また宗教的障壁に起因する諸問題に加え、伝統的に移民の受入国であった国々をも悩ます失業問題や、家庭崩壊、行政からの援助の不足、日常生活の多面にわたる不安定な状況、といったさまざまな現象が問題を引き起こしています。さらに受け入れ側の共同体は、「外国の人」が増え、彼らが合法的に家族を呼び寄せ、また秘密裏にいわゆる地下経済に入り込んで行くことを通じ、急速に力をつけていくと、自分たちのアイデンティティが失われるのではないかという恐れを抱いています。人間は、調和のうちに、緩やかに集団に統合していく展望がもてないと、自分の殻に閉じこもり、周りの人々と緊張関係をつくり、エネルギーを散逸、浪費してしまう危険に陥ります。こうなると、実りのない、ときには悲劇的な結末を迎えます。自分たちが「以前よりもばらばらになり、言葉が通じず、自分たち自身分裂し、同意 も一致も得られない」(使徒的勧告「レコンチリアツィオ・エ・ペニテンツィア」13項)と感じるようになるのです。

キリストの教えに信頼し

このような状況の中で、マス・メディアは、肯定的にも否定的にも重大な役割を演じます。偏見や感情的な反発を避け、「新たに起こってきた」諸問題について適切な評価と正当な理解ができるよう助けることもあれば、また反対に、社会の一致を阻害し拒絶と敵意をあおることもあるのです。

2.こうしたすべての状況は、キリスト者の共同体が司牧上の優先課題のひとつとして、移民や難民のケアという、緊急性の高い課題を投げかけています。この視点に立つとき、世界移住の日は、この複雑で困難な使徒職を今まで以上に効果的に行うにはどうすればよいか、ということについて考察するよい機会となります。

キリスト者にとって、外国の人を受け入れ彼らと連帯することは、人を温かく迎え入れるという人間として当然の義務であるばかりでなく、キリストの教えに忠実であるためにまさに要求される事柄です。信者にとって移民の世話をするということは、キリスト者の共同体一つひとつの中に、遠くからやってきた兄弟姉妹のために場を提供できるよう努力することであり、このように働くことで、一人ひとりの個人の人権が認められるようになるのです。教会は、あらゆる人間が尊重され、人間の尊厳を脅かす差別が克服されるために、すべての善意の人々がそれぞれ貢献するよう呼びかけます。その活動は祈りによって支えられ、福音から力を得、長年の経験に従って導かれるのです。

教会共同体の活動はまた、諸国民ならびに国際機関の指導者たち、さらに、移民の問題にかかわるさまざまな組織や団体に刺激を与えます。人間の営みに関して「専門家」である教会は、教えとあかしによって人々の良心を照らし、移民が個々の社会において適当な自分の場を見出せるために役立つ方策を奨励し、こうして教会としての務めを果たしていくのです。

3.とくに教会は、キリスト者の移民や難民が自分たちの中に引きこもり、彼らを受け入れる教区・小教区の司牧現場から孤立することのないよう、具体的に活動します。しかし同時に教会は、移民や難民がもつ固有の特質を破壊してしまう単なる同化政策には反対であり、司祭・信徒がこうした政策から彼らを擁護できるよう働きます。むしろ教会は、こうした兄弟姉妹が次第に社会に溶け込み、彼らのもつ多様性を最大限に生かし、お互いを受け入れ支え合う、真の信仰者の家族を建設するよう励ますのです。

この目的のために、移民や難民の人々が自分の責任を積極的に担えるように支援する社会的仕組みを、彼らが住む地域共同体が準備することはよいことです。この点に関し、移民の司牧を担当する司祭は、異なる文化、異なるメンタリティの間の架け橋となることが望まれます。そのためには、「キリスト自身がその受肉によって周囲の人々の特定の社会的、文化的状況に自身を合わせたのと同じ熱意をもって」(第二バチカン公会議「教会の宣教活動に関する教令」10項)、司祭が真に宣教者としての奉仕職を果たさなければなりません。

福者ジョバンニ・バッティスタ・スカラブリニのあかし
さらに言えば、移民のための使徒職活動は、人々の猜疑心、さらには敵意の中で行われることも多いのですが、そのことは決して、人々と連帯し人類発展のために働く決意を投げ出してしまう理由にはなりません。「旅をしていたときに宿を貸してくれた」(マタイ 25・35)というイエスのことばはあらゆる状況において力をもち、イエスの足跡に従おうとする者の良心に問いかけてきます。信仰者にとって、他者を受け入れるということは単なる博愛主義ではなく、友人に対し当然のように感じる心配とも違います。それよりもずっと大きなことです。というのも、すべての人の中でキリストと出会う、ということを理解するようになるからです。キリストは、わたしたちの兄弟姉妹の中で、とくに貧しく助けを必要としている人々の内にいて、愛され、救いの手が差し伸べられるのを待っているのです。

4.ひとり、人となられた御子イエスは、神が人類と連帯されることをあかしする、生きたイコンです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(2コリント 8・9)。イエスが十字架上で死を迎える前、高間において使徒たちに話した、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ 13・34)ということばを受け入れ、実行することができるのは、心を込めて他者に配慮しているキリスト者の共同体だけです。救い主は、自己を捧げる、無償で私欲のない愛を求めているのです。

「ディアスポラの12部族」、つまりギリシア・ローマ世界に散らばっていた、おそらくもともとユダヤ教徒であったキリスト者たちに送られた聖ヤコブの次のことばは、この点に関しきわめて預言者的な響きをもちます。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ 2・14-17)。

5.ここで、キリストが移民に対して示した愛を、預言者のように生き生きとあかしした、一人の使徒の輝かしい模範を皆さんに示すことができるのは、わたしにとって光栄なことです。その人とは、11月9日、喜びのうちに列福されたジョバンニ・バッティスタ・スカラブリニ司教です。

彼は19世紀最後の数十年間、ヨーロッパから「新世界」へと旅立った大勢の人々の姿に大いに心を動かされました。彼はそのとき、適切な社会福祉のネットワークを利用した、こうした人々への司牧的配慮の必要性を痛切に感じました。こうしたニーズに対し、彼は鋭い霊的洞察と実践的な感性を発揮し、聖カルロ宣教修道会・宣教修道女会を設立したのです。また移民に対するあらゆる搾取から彼らを守るため、法的、行政的施策の導入を強く訴えました。

現在は確かに当時とは社会情勢が異なっていますが、司教の同じカリスマを継承する、スカラブリニ信徒宣教者会に後につながっていったスカラブリニ司教の霊的な子どもたちが、いまも変わらず、移民に対するキリストの愛をあかしし、普遍的な救いのメッセージである福音を告げ知らせています。全世界で移民や難民のために働くすべての人を、どうかスカラブリニ司教がその模範と取り次ぎによって支えてくださいますように。

6.こうした困難で複雑な問題に関し、キリスト者として毅然としたあかしを示すためには、「歴史の流れの中で神の国を建設し、イエス・キリストにおける神の国の完全な現れを準備する」「聖霊に関する理解の刷新」が重要です(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『紀元2000年の到来』45項)。

超越を表す一つの道としての文化
1998年が聖霊のために捧げられた年であることをどうして忘れることができるでしょうか。聖霊の働きは聖霊降臨の際、とくに明確に示されました。わたしが第16回「世界平和の日」メッセージにも書いたように、天から降った「聖霊は、最初の主の弟子たちがさまざまな言語で話していたという障害を乗り越え、人類愛と平和へ通ずる王道を再発見するよう導いたのです」(第12項、L’Osservatore Romano、1982年12月27日号)。

古代のバベルでは、虚栄心が人類家族の一致を破壊してしまいました。聖霊降臨の時に降った霊は、神の三位一体の交わりを模範として再び一致をきずくというたまものをもって、失われた一致を回復するために訪れたのです。三位一体の交わりにおいて3つの異なったペルソナは、分かつことのできない一体の神の本質の中に生きているのです。霊に満たされた使徒の話に耳を傾けた人は皆、彼らがそれぞれ自分の故郷の言葉で話しているのを聞いて驚きました(使徒言行録 2・7-11参照)。昔も今も、「一つの心で聴く」ならば、多様なさまざまな文化の違いを超えることができるのです。なぜなら、「一つひとつの文化は、世界について、またとくに人間の神秘について思いめぐらす営みであり、文化は人間生活の超越的な次元を表現する道だからです」。「各個人、各民族を分けるさまざまな違いを超えて、『基本的な共通性』が存在しています。というのも、異なる諸文化は、人間存在の意義という疑問に対するさまざまな対処の方法であるにすぎないからです」(教皇ヨハネ・パウロ二世「第50回国連総会へのメッセージ」(1995年10月5日)第9項、L’Osservatore Romano、1995年10月11日号)。

したがって、聖霊の年は、信者たちが希望という対神徳を、より深い意味において生きるよう招いています。信者たちは心の奥底からこの希望の徳に突き動かされ、自分たち本来の能力を十分発揮するための助けを待ち望む、さまざまな文化をもつ国々からやってきた人々のために、「新たな福音化」に励む決意を新たにします。

7.「福音化する」ということは、わたしたちがもつ希望についてすべての人に「説明」することです(1ペトロ 3・15参照)。社会的少数派であったにもかかわらず、初代教会のキリスト者たちはこの務めを勇敢に実行しました。彼らは聖霊によって得た確信に支えられて、自分の信仰について率直にあかしすることができたのです。

今日もまた、「キリスト者は、神の国の決定的な到来への希望を新たにし、心の中でそれぞれが属しているキリスト者の共同体、おのおのの社会的つながり、そして世界の歴史そのものの中で日々、神の国の到来に備えることによって、第三の千年期の始まりである大聖年の準備を進めるように呼ばれています」(『紀元2000年の到来』第46項)。

人々が移住する様は、「天の故国へ向かって、地上を旅している民」という、まさにこの教会のイメージを思い起こさせます。確かに人々が移住するときには数え切れない困難がありますが、この道は、わたしたちを現状変革へと駆り立てる、すばらしい未来世界のイメージを思い起こさせるものです。来るべき世界は、すべての人間の究極の目的である神との出会いによって、不正義と抑圧から解放された世界でなければなりません。

キリスト者の共同体が、移民と難民の皆さんのために使徒職を果たす責任を担えるよう、マリアのとりつぎにゆだねたいと思います。マリアは、「人となったみことばを胎内に宿し、全生涯をとおして聖霊の内なる働きによる導きに自らをゆだね」、「主の貧しい民の切望を完全に表しただけでなく、神の約束に心から自らをゆだねる人々にとっての輝かしい模範です」(同、第48項)。どうかマリアが母として、移民と難民のために働くすべての人とともに歩んでくださいますように。どうかマリアが、自分の土地を離れ、愛する人々と別れなければならなかったすべての人々の涙をぬぐい、いやしを与えてくださいますように。

わたしの祝福によってもまた、皆さんが慰めを受けられますように。

【聖書の引用は、本聖書協会『聖書 新共同訳』(1991年版)を使用しています。ただし、漢字・仮名の表記は本文に合わせたことをお断りいたします。 】

 1997年11月9日 バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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