1999年「国際協力の日」メッセージ

毎年、各国の教会は、それぞれの司教協議会で定めた日を「世界移住の日」とし、特に移住者と難民のために祈り、献金することにしています。日本の司教協議会は、「世界移住の日」を「カトリック国際協力の日」とし、9月の第4日曜日を当てています。
教皇ヨハネ・パウロ二世は今年の「世界移住の日」に向けて次のように呼びかけています。

「教会(小教区)が外国からの人々を迎え入れ、文化は異ってもキリスト者であるなら同じ仲間としてあつかい、他の宗教を信奉する人であるなら対話の姿勢で関わることは、とても大事なことです。それは各々の教会共同体にゆだねられた使命であり、社会のただ中にある教会の役割り(存在理由)でもあります。教会共同体にとって、それは、するしないを選べる付け足しのようなものではなく、教会の本来の義務です。」また、「カトリック(普遍的)であるということは、洗礼を受けた兄弟姉妹の交りに限らず、宗旨を問わず、外国人に対して行う親切、あらゆる民族的な排斥や人種差別をすて、すべての人の人格の尊重を通しても実現されます。」と強く訴えています。

1999年「国際協力の日」メッセージ
「地域教会は移住の外国人を迎え、さまざまな文化を持つ人々を一つにする役割を担う」

愛する兄弟姉妹のみなさん
1. わたしたちが間もなく迎える聖年は神から和解の力をいただく特別な時です。聖年は移住の外国人に対して深い関わりをもっています。移住の外国人と神に信頼して歩む者とは、立場がとても似ているからです。わたしは使徒的書簡『紀元2000年の到来』(49項)で、「キリスト者の一生は御父の家へのはるかなる巡礼のようなもの」と述べました。「国際協力の日」を迎えるにあたり、聖年準備の三年目ということで、いくつかのテーマを掘り下げてみたいと思います。「神に信頼して歩む者たちの視野を広げて、かれらがキリストの目でものごとを見るようになるため」の手助けになればと願っています。「キリストの目で見るということは、主キリストを派遣し、キリストがそこへ戻っていかれた天の御父の目で見るということにほかなりません。」(同上)。

2. 「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない」(レビ25:23)。レビ記にしるされたこの神のことばは、聖書が定める聖年(ヨベルの年)の基本的な根拠を示しています。それはアブラハムの子孫たちにとって、約束の地で自分たちは外来者、巡礼の者であるという思いと一致するものでした。
新訳聖書はこのかれらの思いを、キリストの弟子すべてに共通のものとしています。キリストの弟子である者は天の母国の住民であり、聖なる者たちと同国の住民(エフェ2:19参照)であるがゆえに、地上に永住するところはなく、旅人として生き(1ベト2:11参照)、いつも最終目的地へ向かいつづける存在です。
聖書が描くこのような神の民の性格は、移住の外国人が増大して民族や文化がますます多様化する現代にあって、ふたたび重要性をもつようになってきました。教会はいかなる風土の中にあろうとも、特定の人種や文化に同化されるものではないことを、それははっきり示しています。「ディオグネトスへの手紙」が伝えるように、キリスト者は「自分の母国に住んでいるとしても、それは外来者としてであり、住民としてあらゆる行事に参加するが、移住の外国人としてはそれに縛られてはいない。キリスト者にとってどこの外国も自分の母国であり、自分の母国がどこであろうとも外国にいるのと同じである。キリスト者は地上に住んではいても、天に属するものである」(5.1)。
教会はその本性として、移住者たちと連帯する存在です。かれらはそれぞれ、さまざまな言語、人種、文化、習俗に属するがゆえに、世界各地から究極の祖国に向かう巡礼の民、教会の姿と重なります。このイメージにもとづいてキリスト者は、あらゆる国家主義的な発想をしりぞけ、また偏狭なイデオロギーを避けることができます。またこのイメージをもつことによって、福音が生活のパン種、心となるためには受肉する必要があるということと同時に、またそのためには、福音の活力をさまたげる特定の文化とのしがらみから福音そのものを解放する努力が必要であることにも気づかされます。

3. 神は旧約聖書をつうじて、ご自分が移住の外国人の側に立つ者であることをお示しになりました。すなわちエジプトで奴隷にされていたイスラエルの民の側です。新しい律法(新約聖書)では、神はイエスにおいてご自身を現わされました。それは、「宿屋にはかれらのためには場所がなかった」ため(ルカ2:7参照)町外れの家畜小屋で生まれたイエスであり、おおやけに活動している間じゅう枕するところもなかったイエスでした(マタイ8:20、ルカ9:58参照)。十字架はキリストによる啓示の中心ですが、移住の外国人と同じ状況を生きたイエスの、究極の姿を示すものでした。まさにキリストは、自分の民に拒絶されて「町の門の外」(ヘブライ13:12参照)で死んだのです。
しかし、福音記者ヨハネはイエスが語られた預言のことばを思い起こさせます。「わたしは地上高くかかげられるとき、すべての人をわたしのもとに引きよせる」(ヨハネ12:32参照)。まさにイエスの死によって、「国外に散らされている神の子たちを一つに集める」(ヨハネ11:52参照)イエスの働きが開始されるというのです。師が示した模範にならって教会も、イエスがこの世で巡礼の者として歩んだように歩み、みなに開かれた共同体づくりに励むべきです。それは創造主が人類に与えた尊厳をすべての人一人ひとりに認めるような共同体であるはずです。

4. 教会に、痛みを共有する愛という求心力がなかったなら、その中の人種や文化の違いは、分裂や不一致の原因となっていたでしょう。この愛はすべてのキリスト者につねに実践を求められているものですが、聖年を迎える準備の最後の年は、ことさらそれが求められます。わたしは使徒的書簡『紀元2000年の到来』(50項)で次のように述べました。「ですからこの一年間は、痛みを共有する愛という対神徳の実践に力を入れることが必要です。『神は愛です』というヨハネ第一の手紙の簡潔明瞭なことば(1ヨハネ4:8.16)を思い出してください。痛みを共有する愛は、神を大切にし隣人を大切にするという二重の働きをするので、神に信頼して歩む者の生き方の要約であると言えます。この愛は、神から出て、神にむかうのです。」
「自分自身を大切にするように隣人を大切にしなさい」(レビ19:18参照)。このことばはレビ記の中の、抑圧的な不正を禁ずる一連の規定の中に出てきます。その一つはこう戒めています。「寄留者(移住の外国人)があなたの土地に住んでいるなら、かれを虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様にあつかい、自分自身のように大切にしなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である」(レビ19:33-44参照)。
「あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったから」ということばは、移住してきた人々に敬意を払い大切にせよという指示をくりかえすたびに、理由として添えられます。このことは、選民イスラエルにかつての自分たちの境遇を思い起こさせるだけではなく、そのときの神の働きをも思い起こさせるものでした。神はみずからすすんで、奴隷にされていた自分たちを救い出し、無償で土地を与えてくださった、と。
「あなたたちは奴隷だった。そこに神が介入してくださり、あなたたちを自由の身にしてくださった。神が移住者であったあなたたちにどのように対処されたか、あなたたちはつぶさに体験しているのだ。だから、あなたたちは移住者に対して、同じように対処すべきなのだ」。これがその規定をささえる思想です。

5. 新約の時代になって、人間同士のあらゆる違いは差別的な力を失いました。選民イスラエルとそれ以外の民を分ける隔ての壁をキリストが打ち壊したときからです。聖パウロはこう書き記しています。「じつに、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、敵意という隔ての壁を取り壊した・・・」と(エフェ2:14参照)。キリストの過ぎ越の神秘の作用によって、救いに近いとか遠いとか、ユダヤ人(選民)かそれ以外の民かとか、民として神に受け入れられているとか拒絶されているとかの区別はなくなっているわけです。
すべての人が、キリスト者にとって、大切にすべき「隣人」でありうるのです。自分はだれを大切にすべきかと自問する必要はありません。「わたしの隣人とはだれか?」と問うこと自体、すでに限度や条件を設けようとしていることになります。かつてこの質問を受けたときイエスは、逆に問い返す形で答えられました。「わたしの隣人とはだれか」ではなく、「わたしはだれの隣人になるべきか」と問うべきではないのかと。そしてこの問いへの答えはこれです。「たとえ見知らぬ人であっても、助けを必要としている者こそ、わたしが手を貸すべき隣人である」。人はみな、この善きサマリア人のたとえ(ルカ10:30-37参照)を通して、そうすることが正当かどうかという枠をこえて、みずから進んで、限度を決めずに、その人との関わりを大切にするよう招かれています。
その上、痛みを共有する愛は、神に信頼して歩む者にとっては神からのたまもの、すなわち信仰と希望と同じように、聖霊の働きによってわたしたちの心に注がれるカリスマ(恵としての力)です(ロマ5:5参照)。痛みを共有する愛は神からのたまものですから、単なる理想像ではなく、具体的な実践をともなわずにはおかないものです。痛みを共有する愛こそ、よい知らせ、福音なのです。

6. 移住者の存在は、神に信頼して歩む者に、個人としてまた共同体としての責任を問うています。とりわけ地域教会は、共同体としては特別な意味合いをもっています。第二バチカン公会議が確認しているとおり、地域教会は、「共同体使徒職のすぐれた実例の一つであり、人としての相互の違いをこえて人々を一つにし、教会という普遍的な場にかれらを位置づけるものです」『信徒使徒職に関する教令』10項。地域教会は共同体のメンバーが共に集い、協力しあう場です。キリストにおいて成立した救いの契約に、ひとりの例外や排除もなくみんなを招き入れるというのが神のご計画ですが、地域教会はそれを見える形で、社会的な働きとして実行に移す場です。
地域教会(小教区)の語源は「気兼ねなく滞在できる家」であり、すべての人を喜んで迎え入れて、だれをも差別せず、だれにとっても部外者というもののいないところです。地域教会は我が家のような落ち着き、安心と、短期滞在の人たちによる動きや変化をひとつに織りなします。地域教会のこの役割が息づいていて、すべてはただ一人の父である神のものとしっかりわきまえているかぎり、地元の者と移住の外国人の違いは色あせ、消え去るのです。
地域教会が移住の外国人を迎え入れて、文化の違うキリスト者を同じ仲間としてあつかい、他宗教を信奉する者にも対話の姿勢でのぞむことの重要性は、各地域教会共通の使命と社会的な役割に根差しています。ですからこれは、地域教会にとって、するしないの選択可能な付け足しの活動ではなく、教会の本来の業務として義務づけられたものです。
カトリック(普遍的)であるということは、単にキリスト者同士がきょうだいのように付き合うことにとどまるものではなく、宗教の違いをこえ、あらゆる民族的な排除や人種差別をすて、一人ひとりの尊厳をみとめて、移住の外国人をもてなすところまでいくものです。それはひとことで言えば、かれらの基本的人権を守りつよめる関わりにまで至るということです。
地域教会共同体の一致のために召された司祭は、この点に関して重要な役割をもっています。司祭は「諸国民の間でイエス・キリストの使命を果たすべく、神から恵を受けており、他宗教の人々の献身の働きが聖霊によって神に受け入れられ、聖なるものとなるように、福音が要請する聖なる職務を果たします」『司祭の役務と生活に関する教令』2項。
司祭は、日々ささげる聖なるいけにえの式(ミサ)の中で、イエスの神秘と向き合っていますが、そのイエスは散らされた人々がひとつに集まれるように、自分のいのちを差し出された方です。したがって司祭は、天にただひとりの父をもつすべての子らが一つになれるように、たえず新たな熱意をもって献身し、だれもがきょうだい的な交わり(地域教会)の中に自分の場がもてるように力を尽くす使命があります。

7. 「イエスが『貧しい人々に福音を告げ知らせる』ために来られたことを思い起こすなら、教会は貧しい人、見捨てられた人との関わりを最優先させるべきであると、どうして強調せずにいられるでしょうか?」『紀元2000年の到来』51項。キリスト者のすべての共同体に問われるこの問いかけは、近隣に失業や出稼ぎの人々の過密集住、貧困による非人間的な生活環境、行政的援助の欠如と生活不安などの状況をかかえる多くの地域教会が、すばらしい働きをしていることに注目させます。そのような地域教会はしばしば見つけやすく、訪ねやすい相談所となっており、社会で起こる分裂、緊張、暴力沙汰のはざまにあって、仲間がいるという希望のしるしとなっています。神のことばをいっしょに聞き、同じ典礼に共に与かり、祝祭や行事に参加することは、地元のキリスト者と新しく移住してきた者双方に、ともに一つの民であるとの思いに至らせる助けとなるのです。
個性を押しつぶされ個人が顧みられないような生活環境では、地域教会が分かち合いと交友の場となり、互いの人格を認めあう場となっています。不安をあおるのではなく、恐れの念を克服することを学べる信頼の場を提供します。みなが共に生きていく上で必要な光と励ましを得られるような相談施設のないところでは、地域教会がキリストの福音に根差した仲間づくりと和解の仕方を紹介しています。先行き不安な現実社会のただ中にあって、地域教会は真の希望のしるしとなれるにちがいありません。また、地元産業の活性化を支えることを通して、地域教会は住民たちに、貧しさを宿命と見ることをやめ、生活環境を変えるために積極的に協力するよう働きかけることもできるのです。
生活改善のための組織や組合活動に、地域教会の多くのメンバーが鋭意かかわっています。わたしはこういう意義ある活動を高く評価するとともに、地域教会が移住者のためのこの働きを勇気をもって継続し、かれらが人として、また霊性の面において、よりふさわしい生活に進めるために力を尽くすことを勧めます。

8. 移住者のことを配慮しようとするとき、その出身国における社会状況についても見なければなりません。住民のほとんどが貧困状態で生活しており、対外債務は状況を悪化させています。使徒的書簡『紀元2000年の到来』51項でわたしは次のように呼びかけました。「レビ記の精神(25:8-12)にしたがって、キリスト者は世界中の貧しい人々の側に立って声をあげ、多くの国々の将来に深刻な脅威となっている国際債務を、帳消しとはいかないまでも、大幅に削減することを考慮するのに、この聖年こそふさわしい時であると提言してください」。債務の問題は、移住問題と聖年が密接な関わりにあることを示す要素の一つです。それは債務国からの移住が圧倒的に多いからというだけでなく、聖年の思想が地球の富の独占を悪と見なし(レビ25:23参照)、神に信頼して歩む者たちに、貧しい人と移住の外国人に対して自分を開くことを求めるものだからです。
過去の時代にあっては、貧富の差が開いて社会の調和が乱されてくると、その差を定期的に埋めることで社会生活の再構成を行なうよう求められていました。負債のために奴隷にされたその人に設定されている抵当権を帳消しにすることで、ふたたび対等な関係をきずくことができました。聖書に記された聖年に関する規定は、生きのびるためにみずから負債を負わざるを得なかった人々を引き込む、悪循環によって生じた社会の不均衡を是正するための、数ある方策の一つです。
かつて一国の住民の間の問題であったことが、いまや、貿易や経済活動の地球規模での拡大によって、世界中の国々と諸領域をまきこんで、いっそう深刻な状況を招いています。富める国と貧しい国の間の不均衡が是正不能となって人類全体の悲劇とならないために、この聖書の規定を活かして具体的かつ効果的な解決策を作り出すべきです。それによって貧しい国が豊かな国に対してかかえる債務を見直すのです。
来たる聖年を機に、みなで適切な解決策を見いだして、貧しい国々の尊厳を回復し、秩序ある発展の条件を整えることは、わたしの願いであり、また多くの人々の思いでもあります。

9. 「聖年は別ないくつかの課題について考える機会でもあります。たとえば異文化間の対話がその一つです」『紀元2000年の到来』51項。
キリスト者はみな、福音を告げ知らせる使命を受けています。福音を告げ知らせるとは、立場をこえてこちらから足をはこび、思いやりをもって相手を大切にし、かれらがかかえる課題を共にになうことであり、また、かれらの文化を理解して評価し、かれらもみずからの偏見に打ち勝てるように協力することです。助けを必要とする兄弟姉妹はおおぜいいます。かれらにこのような形で近づきになることは、かれらが福音の光と出会う下地を作ります。そして、かれらと尊敬をともなった友情のきずなを保つことにより、かれらも「イエスに会いたい」(ヨハネ12:21参照)と思うようになるでしょう。平和で実り多い社会であるために、対話は基本です。
無関心と世俗化の影響がかつてないほどに強まっている時代です。聖年を迎えるにあたり、対話に力を入れることが求められています。神に信頼して歩む人たちは、日々人々の関わりの中で、教会の顔を示していく使命をになっています。それはすべての人に開かれた教会であり、社会の現実に対し、また人として尊厳を守るためのあらゆる取り組みに対して関心を持ちつづける教会です。キリスト者は天の父の愛をとりわけ心に留め、移住者への関心をつよめ、真摯な態度で対話にのぞみ、「愛の文明国」を築いていくものです。
わたしたちが関わるべきこの広大な地平を前にして、神に信頼して歩む者たちがたえず聖母マリアに目を注ぎますように。マリアは「母の愛をもって教会に付きそい、主の栄光が輝き出る日まで旅をつづけるこの教会を守っておられるのです。」(ローマミサ典礼 イタリア判 聖母マリアの第三奉献文 序唱)
以上の多くの希望とともにみなさんに心からの祝福を送ります。

 1999年2月2日 バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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