2000年「国際協力の日」メッセージ

毎年、各国の教会は、それぞれの司教協議会で定めた日を「世界移住の日」とし、特に移住者と難民のために祈り、献金することにしています。日本の司教協議会は、「世界移住の日」を「カトリック国際協力の日」とし、9月の第4日曜日を当てています。

2000年「国際協力の日」メッセージ
「わたしが外国からきたよそ者でいたとき、あなたたちは仲間に入れてくれた」

兄弟姉妹のみなさん、

1.新しい千年期を迎えて、人類は激しく流動するものであることが、特徴として浮かんできています。それに伴って、人類が一つの家族であるという自覚も、また高まっています。

 「移住」は、みずから望んだものであれ強いられたものであれ、人々が互いに異なる文化、宗教、人種、国籍を交流させる機会を増やしています。現代の交通機関はかつてないスピードで地球のここかしこを結び、日々何千人という移住者、難民、ロマ(流浪者)、旅行者が国境線を越えています。 人々が移住するに至る直接の理由はさまざまです。しかし、その突き詰めたところは、正義と自由と平和に満ちた超越した世界へのあこがれです。それは言わば、巡り巡って人を神に向かわせるある種の落ち着かなさが、人間にあることを証明するものです。実際、人のさまざまな願いというものは、この神と出会うことによって初めて、満たされるものだからです。

 多くの国々では移住者を受け入れるそれなりの努力をしています。そして、移住者の多くは困難な手続きをクリアーして、受け入れ国の一員となっています。しかし、それにもかかわらず、国外からきた人たちが出くわすさまざまな行き違いが後を絶たないということは、制度の改革と発想の転換こそが緊急の課題であることを示しています。

 二〇〇〇年の大聖年が、キリスト者と意欲あるすべての人に求める取り組みは、まさにこれなのです。

聖年は、巡礼と出会いの時
2.大聖年に当たって、教会は「キリストの誕生」(神と人との出会い)を祝います。この恵みの時を生かそうと、大勢の人が聖地やローマの、また世界中の巡礼地を訪れることでしょう。人はそこで、だれに対しても、とりわけ自分とは背景の異なる人たちに、心を開くことを学ぶはずです。すなわち訪問者、外国人、移住者、難民、他宗教の人や宗教を持たない人たちに対してです。
 巡礼は、文化や時代によって形は違っても、信仰生活の大事な部分を占めてきました。実際、「巡礼は、信頼して歩みを起こす人たちに、救い主の歩まれた道をたどるべきことを思い起こさせます。巡礼をするとき、人は信仰の面で自分を鍛え、人間の弱さを思い知らされ、自分自身のもろさに気を付けるようになり、気持ちを切り替えるということを体験するのです」(『受肉の秘義』7)。
 多くの巡礼者たちは、このような内なる歩みの体験とともに、生活、文化、歴史の異なる他の信仰者たちとの出会いに恵まれます。ですから、巡礼は他者との出会いの優れた機会となっているのです。アブラハムのように、自分の国、自分の故郷、父の家を離れる(創世記12・1参照)という最初の一歩を踏み出した人は、自分とは立場の違う人たちに対して、おのずと心を開くようになるものです。
 同じようなことが「移住」についても起こっています。移住は、人々にそれぞれ「自分自身から出る」ように促すということで、他者に向かう歩みとなり得るものです。安心して共存できる条件が整えられてさえいれば、自分が仲間として加わる新たな社会への歩みと言えるのです。

教会は「一致の秘跡」
3.喜ばしい知らせ(福音)とは、父である神がどこまでも人を大切にしておられる(愛)というメッセージです。イエスはこれを身をもって示されました。イエス・キリストは「追い散らされた神の子どもたちを、ひとつに集めるために」(ヨハネ11・52)この世に来られ、集めた彼らをただ一つの人類家族に結び付け、そこに神が共に住むようにされたのでした(黙示録21・3参照)。ですから、パウロ六世は、「教会」について語るとき、こう言われたのです。「教会にとって、だれ一人としてよそ者である人はいません。だれ一人として教会の任務の対象外に置かれる人はいません。教会にとって『敵』は、だれかがみずから敵となることを望まない限り、存在しないのです。教会の『カトリック』(普遍的)という名称は、ただの呼び名ではありません。一致と愛と平和を世界に押し広める使命が教会にゆだねられているというのは、形だけのことではありません」(教皇パウロ六世回勅『エクレジアム・スアム』)。  この言葉を受けて、第二バチカン公会議はつぎのように宣言しました。「救いの働きをになうこのメシア的な民は、すべての人がそれに属しているわけでもなければ、ときとしては『小さな群れ』でしかありません。けれども、それは、人類の一致と希望と救いの、もっとも頼もしい若芽なのです」(『教会憲章』9項)。 教会は自分の使命を自覚しています。キリストが教会に対して、この世での「一致のしるし」となるよう望んでおられたことを、知っています。教会が移住の問題に心を配るのは、この観点からなのです。移住問題は、良くも悪くも、物事のグローバル化(世界的連携現象)の中で起きています(『アメリカにおける教会』20-22)。 グローバル化は、一方では、資本の流動、物や仕事の交流にはずみをつけ、その当然の結果として「人々の移動」を生じさせています。世界のある一点で起こる重大な出来事はすべて、地上全域に反響を呼び起こし、そのことはまた、世界の全住民が運命共同体であるとの認識を高める結果にもなっています。新しい世代の人たちは、この地球が今や「地球村」になったという感覚をもつようになっており、言葉や文化の違いを超えて、仲間づくりが始まっています。「共に生きる」ということは、多くの人々にとって日常的なこととなっているのです。 他方、グローバル化は新たな問題も生み出しています。適切な統制を欠いた世界的な自由競争社会の中では、苦境から抜け出す国々と苦境に埋没していく国々との格差が拡大しています。前者は、資本と技術をもち、世界の資源を欲しいままに利用し、連帯と分かち合いの精神を示すも示さないも思うままです。それに対して後者は、生活向上のために必要な資源にも手が届かず、時には生活必需品にすらこと欠く状態です。国際債務に押しつぶされ、内政分断で引き裂かれ、わずかな国財を戦争で消耗してしまうこともしばしばです(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『新しい課題』33項参照)。 一九九八年「世界平和の日」のメッセージで皆さんに想起していただいた通り、私たちがチャレンジすべきは、連帯を生み出すグローバル化、切り捨てをしないグローバル化の実現です(同3項参照)。

絶望による移住
4.世界の多くの地域で、今日、不安定かつ不穏な厳しい条件の下に生きている人たちがいます。そのような状況では、貧しい人たち、困窮する人たちが祖国脱出を図り、食べ物と人としての尊厳と平和を得られる新天地を求めることは、驚くにあたりません。これは絶望による移住です。すなわち、祖国を脱出するほかに手立てがなくなった男女、しばしば若者たちが、未知の世界に思い切って踏み入らざるを得なくなったということです。毎日何千という人々が、死の危険を覚悟して、未来のない生活から脱出を試みています。しかし残念ながら、移住先で直面する現実は、さらにこの人たちを失望させることが多いということです。 一方、比較的ゆとりのある国々では、国境の管理を厳しくする傾向にあります。移住を受け入れることに伴う自分たちの不都合にいらつく世論を反映しての結果です。社会は、非合法の状態にある男女、いわゆる「密入国者」に対応しなければならなくなることを恐れるのです。実に、移住者を受け入れたがらない国で、彼らは無権利状態に置かれ、組織的犯罪や非道な興行主らの餌食となっています。
 二〇〇〇年の大聖年を迎えて、教会は人類家族を下支えする自分の使命を再認識するわけですが、世界のこのような状況は重大な幾つかの課題を教会に提起しています。グローバル化が進むことは、ある意味ではチャンスです。文化の違いについては、出会いと対話の機会として受け止め、世界の資源の不平等な分配については、人類家族を結び合わせる連帯の必要に皆が気付くようになればいいわけです。しかし、それとは逆に、グローバル化が進むことによって不平等がひどくなるのであれば、貧しい国の人々は絶望による移住を強いられることになり、他方、豊かな国々は、満たされることのない欲望のとりことなり、可能なかぎりの資源をおのれの手に集めようとするのです。

肉の秘義を見つめる
5.移住ということの厳しさと同時に、それがチャンスでもあるということを踏まえて、「神の子の受肉の神秘を見つめつつ、教会は第三の千年期を歩みだそうとしています」(教皇ヨハネ・パウロ二世『受肉の秘義』1項)。受肉という出来事によって、教会は神の側からの働き掛けを知りました。実に、「神はご意志に秘められた神秘を悟らせてくださいました。それは時が満ちてキリストにおいて実現されるようにと、あらかじめ計画しておられたことでした。それはすなわち、天にあるもの地にあるもの、すべてのものを、キリストをかしらとして一つに結び合わせるということでした」(エフェソ1・9-10)。人はキリストを身に帯びてかかわるとき、キリストの愛から力を引き出します。これこそすべての人にとっての「喜ばしい知らせ」なのです。
 この啓示された教えに基づいて、母であり教師である教会は、おのおのすべての人の尊厳が守られるように、移住者が兄弟姉妹として迎え入れられるように、すべての人が一つの家族に属するものとなるようにと、働くのです。その家族とは、そこに属するさまざまな文化を、違いを認めつつも互いに尊重するような家族です。神はイエスを通じてこの世に来られ、人間の側からのもてなしを求めました。進んで他者を大切にもてなすことを、神に信頼して歩む者の特徴的な姿勢としてイエスが示されたのは、この理由によるのです。

 イエスは、ベトレヘムの町のどこにも泊まる所のなかった家庭に生まれることを選びました(ルカ2・7参照)。イエスはエジプトへの亡命を体験しました(マタイ2・14参照)。イエスは、「枕するところもない」人で(マタイ8・20)、出会う人たちに宿を求めました。イエスはザアカイに、「今日はあなたの家に泊まることにする」と言ったのです(ルカ19・5)。 イエスはご自身を、寝場所を必要とする外国からのよそ者にたとえます。「わたしが外国からのよそ者でいたとき、あなたたちは仲間に入れてくれた」(マタイ25・35)。イエスは弟子たちを福音宣教に派遣するとき、彼らが受けるもてなしはイエス自身へのもてなしであると言います。「あなたたちを受け入れる人は、わたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる人は、わたしをつかわされた方を受け入れるのである」(マタイ10・40)。

 この聖年に当たって、人々の移動が各地で起こっている状況の中で、もてなしを求めるイエスの呼び掛けは、タイムリーかつ緊急的です。キリスト者でありながら、国外から来た人がドアをたたいているのに戸を閉ざしたままでいるなら、どうしてキリストを迎えていると言えますか。「世の富をもちながら、兄弟が必要なものにこと欠くのを見て、心を閉ざしているなら、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょうか」(1ヨハネ3・17)。

 神の子は人間となって、すべての人のところへ来られました。中でも、一番小さくされた人、社会からはじき出された人、よそ者と見なされる人たちのところを優先して来ておられます。神の子はナザレで福音宣教活動を始められたとき、貧しい人たちに福音を告げ知らせ、囚われている人たちを解放し、物が見えない人たちを見えるようにするメシア(神から油を注がれた者)として、ご自分を示されました。神の子は、「主が受け入れてくださる時がきた」と宣言するために、来られたのです(ルカ4・18参照)。それはすなわち、解放の時であり、皆がきょうだいとして連帯して生きる、新しい時代の始まりでした。

 「『主が受け入れてくださる時』すなわちヨベルの年ということが、イエスの活動全体を特徴づけており、それは単なる一定期間ごとに巡ってくる記念の年ということではありません」(教皇ヨハネ・パウロ二世『紀元2000年の到来』11項)。キリストの働きは教会を通してずっと続けられており、自分をよそ者と感じているすべての人がきょうだい的な新たな仲間の交わりに入れるように働き掛けているのです。そして、人がだれ一人滅びることのないように(ヨハネ6・39参照)、イエスの弟子である人たちはこの痛みを共有した働きに奉仕するよう、使命を託されているのです。

人類家族の一致を実現させる聖年
6.二〇〇〇年の大聖年を共に過ごすに当たって、教会は、今終わろうとするこの世紀を特徴づける、悲惨な出来事の数々を忘れてはなりません。世界を荒廃させた血みどろの戦争、国外追放、殺りく収容所、「民族浄化」、それに、至るるところに蔓(まん)延し人類歴史の展望を暗くする憎み合いです。
 祖国から引き離された人たちの苦しみの叫び、強制的に引き裂かれた家族の叫び、今日の目まぐるしい状況の変化のために安定した居場所をどこにも見いだせない人たちの叫びを、教会は聞いています。ありとあらゆる搾取によって権利を奪われ、身の安全を失った人たちの苦悩を、教会は感じ取っており、不幸のさなかにあるその人たちを支援するものです。

 世界のどこの社会においても、亡命してきた人、難民、国外追放された人、密入国の人、移住してきた人、路上生活を強いられた人たちの存在は、聖年を共に過ごすということがどういうことかを、きわめて具体的に示しています。すなわち、信頼して歩みを起こす人々に、発想と生き方の転換が求められているということです。これは、「低みに立って見直し、福音に信頼して歩みを起こしなさい」という、キリストの呼び掛けにこたえることなのです(マルコ1・15参照)。 この回心への呼び掛けには、その最も深い本質的なところで、皆が移住者の権利を本気で認めるようにということも、間違いなく含まれています。「偏狭な国粋主義的な姿勢を改め、国がその人たちに移住する権利を認め、共住するのを支える……という体制づくりをすることは、緊急課題です。普遍的(人種や国境を越えて)きょうだい付き合いのできる体制を作り上げるために、力を入れて働くことは、すべての人、とりわけキリスト者に課せられた義務です。普遍的きょうだい付き合いのできる体制というものは、真の正義実現のために欠くことのできない基盤であり、平和を持続させるための条件です」(教皇パウロ六世 回勅『オクトジェジマ・アドヴェニエンス』17項)。

 人類家族のために働くということは、人種、文化、宗教を理由にした、神のご計画に反するあらゆる差別を退ける取り組みをするということです。それは福音に根差した、きょうだいとして付き合う生き方を、みずから実践して見せることにほかなりません。きょうだい的な付き合いこそ、互いに文化の違いを尊重し、誠実にかつ信頼をもって対話できるようにさせるものだからです。そのためには、人がまず自分の祖国で平和に生きることができるよう、各個人の権利を確立させる働き掛けをすると同時に、各国の移住に関する法律が基本的人権を踏まえたものとなるよう、関心を示していくことも大事なことです。

 おとめマリアは、心を決めると、急いでいとこのエリザベトを訪ね、親身なもてなしを受けて、救い主である神の働きに喜びあふれました(ルカ1・39-47参照)。このマリアが、ヨベルの年に当たって他者に自分を開こうと心を決めた人たちを支えてくださいますように。また、その人たちが、同じ父の子どもたちに対して(マタイ23・9参照)、兄弟姉妹としての出会いがもてるよう、助けてくださいますように。

 私は心を込めて、使徒としての祝福を皆さんに送ります。

 1999年11月21日  バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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