2003年「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージ

2003年「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージ 「 あらゆる人種主義、外国人排斥、過度なナショナリズムの克服に向けて」 1.今日、世界中で移住が広く行われるようになり、移住者が出て行く国、入ってくる国、あるいは通過す […]

2003年「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージ
「 あらゆる人種主義、外国人排斥、過度なナショナリズムの克服に向けて」

1.今日、世界中で移住が広く行われるようになり、移住者が出て行く国、入ってくる国、あるいは通過する国などすべての国が巻き込まれています。それは、何百万人もの人々に影響を与え、全人類に奉仕する旅する教会にとって、普遍的な愛という福音の精神の観点から放置できない問題となっています。今年の世界難民移住移動者の日は、いかなる理由であれ家庭や家族から離れているすべての人々のニーズのために特別に祈る時です。すなわち、カトリック者の義務としてこれらの兄弟、姉妹たちを思い起こすべき日です。
これらの中でとりわけ影響を受けている人々は、外国人の中で最も弱い人々、すなわち、未登録移住者、難民、庇護希望者、世界の多くの場所で絶え間なく起こっている激しい紛争によって避難を余儀なくされている人々、人身売買という恐ろしい罪の犠牲者たち(大部分が女性と子ども)なのです。ここ数年の間でさえ、私たちは人種的、国家主義的主張によって、移動を余儀なくされている人々の悲劇的な瞬間や標的となったグループの人々が味わった数え切れないほどの悲劇を目撃してきました。これらの状況の根底には、福音に反した罪深い思いと行いが存在しています。そして、すべてのキリスト者に、善によって悪を克服するように呼びかけています。

2.カトリック共同体のメンバーは、国籍、社会的、民族的出自によって決定されているのではなく、本質的にイエス・キリストへの信仰と三位一体の名における洗礼によって決まります。神の民という「地球市民」の姿は、今日、実際に、あらゆる教会で見られます。なぜなら、小さく、以前は孤立していた共同体さえも、移住によって多元的なものに、また異なる文化を生きるものに変化しているからです。最近まで、部外者をめったに見なかった場所が、今では世界の様々な所から来た人々の家となっています。例えば、日曜日のミサでは、以前は聞くことのなかった様々な言語で福音が宣べられることが、珍しくなくなっています。こうして古い詩編の賛美「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。」(詩編116:1)が新しい意味をもつようになっています。それゆえに、これらの共同体は、「普遍性」を生きる新しい機会を持つことができます。「普遍性」は、すべての民の中で働く聖霊に本質的に開かれている教会のすがたをあらわしています。

民族や外見上の特徴によって、地域共同体のメンバーを制限することは、すべての関係者にとってマイナスになり、受洗者がもっている礼拝と共同体生活参加という基本的な権利に矛盾すると教会は考えています。さらに、もし、新しい人々が、ある小教区共同体に来たときに、その土地の言葉が話せず、その土地の習慣に従わなかったために、受け入れられなかったと感じるならば、彼らはすぐに「迷える小羊」になるでしょう。潜在的な差別によってでも、これらの「小さな者」を失うようなことがあるなら、司牧者も信者も重大な関心をよせなければなりません。

3.このことは、私が世界難民移住移動者の日のメッセージで、しばしば述べてきた課題を思い起こさせます。つまり、キリスト者は、必要にかられてやって来る人は誰でも、受け入れなければならないということです。このように心を開くことによって、キリスト者共同体は、他の文化圏からやってきた新しい信者がもたらす賜物をとおして、聖霊によって豊かにされます。こうした福音の愛は、世界のすべての場所で展開されている移住者と難民に対する数多くの連帯活動に表されています。聖フランチェスカ・ザバラ・カブリ-ニやジョヴァンニ・バティスタ・スカラブリーニ司教のような人々の功績や遺産、カトリックの緊急援助団体「カリタス」や、国際カトリック移住委員会等の今日的活動を思い起こすだけで、移住者と避難民に対する実際の奉仕というキリスト教会の伝統の広がりを見ることができます。

連帯はたやすく実行出来るものではありません。それには、トレーニングが必要ですし、今日多くの社会に浸透して巧妙になっている閉鎖的な態度を捨てることが必要です。この問題に対処するために、教会はあらゆるレベルで、多くの教育養成の手段をもっています。それゆえに、私は、両親や教師たちに、カトリック社会教説に基づく建設的な態度を徹底的に教えることによって、人種主義と外国人排斥を撲滅するように訴えます。

4.より深くキリストに根ざすために、キリスト者は、自分自身に固執する傾向を克服し、他の文化の人々のうちに神のみ業を認めるようにしなければなりません。本物の福音的愛のみが、共同体を、単なる他者への寛容から、異なるものへの真の敬意へと導くのです。そして、キリストのあがないの恵みだけが、日々の挑戦において私たちを、利己主義から利他主義へ、恐怖心から心を開くことへ、拒否から連帯の勝利に導くことができるのです。

私は、カトリック者達に、新しく来た人々に対する連帯の精神を高めるように強く主張します。それと同時に、移住者たちにも、彼らを受け入れてくれる国を敬い、その国の法律、文化、自分たちを受け入れてくれる人々の伝統を尊重する義務があることを認識するように勧めます。この方法によってのみ、社会的な調和が生まれるのです。

多様な文化を生きている移住者を本当に受け入れていく道は、実際大変に困難なものです。時には、本当の「十字架の道行」となります。しかし、私たちは、神のみ旨に従うことを思いとどまってはなりません。神は、全人類一致のしるしであり、道具であるご自分の教会を通して、すべての人々をキリストのもとへと導くことを望んでおられます。(教会憲章1参照)この道には、悪を指摘し、善を勧める預言者の言葉が必要になる時もあります。緊張が起こったとき、それぞれの人を基本的に尊重するという教会の教えが真実であるかどうかは、司牧者と信者が勇気をもって「すべてを愛で行う」という言葉を実行できるかどうかにかかっています(『新千年期の初めに』47参照)。

5.多様な文化からなる共同体が、他のキリスト教会や教会共同体との一致の賜物を深める良い機会を提供してくれることは言うまでもありません。実際、それらの多くは、自分たちの共同体の中で、またカトリック教会と一緒に、移住者の文化や特別な賜物が心から感謝され、人種主義や外国人排斥や過度のナショナリズムが反対される社会を作るために働いてきました。

私たちの母であるマリアは世界に御子をもたらそうとしていた時、拒絶を経験されました。教会が一つの家族として、多くの文化や国民の一致のしるしであり道具となることができ、また、私たちが私たちの生活においてキリストの受肉とたえまない現存を証しすることができるよう、マリアの助けを願います。キリストは私たちをとおしてあらゆる差別や拒絶、抑圧からの解放の業が歴史の中で、この世界で、引き継がれることを望んでおられます。神の大いなる祝福が、キリストの名において、見知らぬ人々を受け入れる方々にありますように。

バチカンにて、2002年10月24日
ヨハネ・パウロ二世

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