教理に関する覚え書きカトリック信者の政治参加に関するいくつかの問題について

 この文書は2002年11月24日付で教皇庁教理省から発表されたものです。前書きにあるとおり、司教、カトリックの政治家、そして全信徒に宛てて書かれています。現代の民主主義社会の政治生活において、カトリックの政治家と、有権 […]

 この文書は2002年11月24日付で教皇庁教理省から発表されたものです。前書きにあるとおり、司教、カトリックの政治家、そして全信徒に宛てて書かれています。現代の民主主義社会の政治生活において、カトリックの政治家と、有権者である信者が特に留意すべきことがらを明らかにしています。

 この文書は、第2バチカン公会議の教えに基づいて、カトリック信者にとっても政治参加は積極的な課題であると述べます。教会は特定の政治的立場に立つものではありませんが、信仰と道徳についてはっきりと教えを述べ、信者が政治生活において道徳原理に従うことを求めます。道徳は、民主主義社会の基盤であり、また、自然法は信仰のあるなしにかかわらず、すべての人に適用されるからです。したがって、道徳からの政治生活の自律や、多元主義・相対主義を主張することは誤りであることが示されます。第4節では、今日、カトリック信者、特に政治家が留意すべき、最も重要な事項が挙げられています。すなわち、人工妊娠中絶、安楽死、ヒト胚の保護、結婚、子どもの教育権、未成年者の保護、奴隷制の否定、信教の自由、経済発展の権利、平和です。

 この文書は、現代の世界のカトリック教会が政治について考える上で、指針となるものと考えられています。アメリカ司教協議会が今年2004年のアメリカ大統領選挙を前に発表した、カトリックの有権者のための教書『忠実な市民―政治的責任へのカトリック信者への呼びかけ』(2003年10月13日)でもこの文書はたびたび引用されています。近く日本では参議院選挙が行われますが、さまざまな倫理問題のかかわる政治課題に対して、信者一人ひとりが良心に基づいて判断を行うために、この文書を深く研究し、活用されることをお勧めしたいと思います。

カトリック信者の政治参加に関するいくつかの問題について

教理省は教皇庁信徒評議会の意見を受けて、本文書『教理に関する覚え書き―カトリック信者の政治参加に関するいくつかの問題について』を公表することが適当であると判断した。本覚え書きは、カトリック教会の司教、そして特別な意味で、民主主義社会において政治生活に参加するように招かれているカトリックの政治家と、すべての信徒に宛てられたものである。

I 変わることのない教え

1 世におけるキリスト信者の行動は、過去二千年にわたって、さまざまな形で現されてきた。その一つの現れは、政治生活への関与である。初代教会のある著作家が述べているように、キリスト信者は「市民としてのすべての義務を果たす」(1)。 聖人たちのなかで、教会は、政治や国家に惜しみなく献身することを通して神に奉仕した多くの人びとを崇敬してきた。こうした聖人の一人で、政治家・政治指導者の守護聖人とされた聖トマス・モアは、殉教によって「人間の良心の不可侵の尊厳」をあかしした(2)。 聖トマス・モアは、さまざまな形で心理的圧力を加えられながら、妥協することなく、卓越したしかたで、「正統な権威と制度への変わることのない忠実」を貫いた。トマス・モアは、自分の生き方と死を通して、「人間を神から切り離すことも、政治を道徳から切り離すこともできない」ことを教えた(3)。 

今日の民主主義社会において、本当の意味での自由の認められた環境で、すべての人が国家の方向づけに参加しているのは賞賛すべきことである(4)。 そのような社会は、キリスト信者の市民にも非キリスト信者の市民にも、同じように、公共生活への新たな完全な形での参加を要求する。実際、すべての人は、議員や政府官僚を選ぶ選挙に投票することや、他の方法を通じて、共通善のためになると考えられる政治的解決や法的選択を推進するように貢献できる (5)。すべての人の積極的で責任を伴う、惜しみない関わりなしには、民主主義に基づく生活が実りのあるものとなることはできない。その際、「それぞれの参加の形、程度、役割、責任はさまざまですが、互いに補い合っています」(6)。

「キリスト教的良心に基づき」(7)、キリスト教の価値観に従って、市民としての義務を果たすことにより、信徒はこの世の秩序にキリスト教的価値観を吹き込むというその本来の使命を果たす。同時に、信徒はこの世の秩序の本性と正当な自律性を尊重し(8)、自らがもつ固有の能力と責任感をもって他の市民と協力する(9)。 第二バチカン公会議のこの基本的な教えから、次のことが帰結する。「信徒は『公共生活』への参加を放棄することは絶対にできません。公共生活とは、組織的にまた制度的に共通善を促進することを目的としている経済、社会、法律、行政、文化上の多様な分野を意味しています」(10) 。これは、公共の秩序と平和、自由と平等、人命と環境の尊重、正義と連帯といった善の推進と保護を含むものである。

 本『覚え書き』はこの問題に関する教会の教えのすべてを提示しようとするものではない。それは『カトリック教会のカテキズム』にその本質的な内容がまとめられているからである。本『覚え書き』がめざしているのは、ただ、カトリック信者に民主主義社会への社会的・政治的参加を促す、キリスト教的良心に固有ないくつかの原則を再確認することだけである(11)。近年、さまざまなあいまいな見解や、問題のある見解が生じている。それは世界で起こるさまざまな出来事の影響で生じることも多い。そのため、この分野における教会の教えの重要な点を明らかにすることが必要となってきた。

II 現代の文化的・政治的議論の中心にある問題

2 現代の市民社会は複雑な文化的過程を経験している。それは、一つの時代の終焉に伴って、人々がなにか新しい事態に直面したことによって、不確実性の時代が到来したからである。現代における大きな前進は、人間の尊厳をより尊ぶような生活条件を達成することにおいて人類が進歩していることを示している。発展途上国に対する責任感の増大は、間違いなく共通善に対する感覚が強まったことを示す重要なしるしである。しかしながら、同時にわれわれは、社会の中のある種の傾向が立法を通じて実現しようとしている真の危険にも目をつぶることができないし、またそれが将来の世代に及ぼす影響も無視することができない。

今日、ある種の文化的相対主義が存在する。それは、倫理的多元主義が構想され擁護されることの中にはっきりと示されている。そこから、道徳的退廃や、理性と道徳的自然法の分離が生じている。さらに、そのような倫理的多元主義はまさに民主主義の条件だという意見が公共の場で語られることもまれではない(12)。その結果、市民は自分たちが行う道徳的選択に関する完全な自律を主張する。また、議員は、自然法倫理の原則を無視して、束の間の文化や道徳的風潮に従った法律を制定することによって、選択の自由を尊重していると主張する(13)。それは、あたかも考えうるすべての人生の側面に同等の価値があるといわんばかりである。
同時に、寛容の価値が悪しき仕方で要求される。すなわち、カトリック信者を含む多くの市民が社会的・政治的生活に参加する際には(それは民主主義社会で誰もが正当に用いることができる手段を通じて行われるものであるが)、人間の人格と共通善に関する固有の理解に基づくことがないように求められる。しかし、二十世紀の歴史が証明している通り、相対主義の誤り、すなわち、我々の人間理解・共通善・国家を支配すべき道徳法は、人間の人格の本性に根ざすものでないという観念の誤りを認識した人々は正しかったのである。

3  もちろんそのような相対主義は、カトリックの市民がもつ正統な自由とはなんら関係のないものである。カトリックの市民は、さまざまな政治的意見のなかから、信仰と道徳的自然法と合致するものを選び、カトリック市民としての判断基準に従って、共通善の必要に最もよく応えるものを選択するのである。政治的自由は、人間の人格の善についてのあらゆる考え方は同じように価値をもち真実であるとする相対主義の思想に基づくものではないし、また基づくものであってはならない。政治的自由の基盤となるのは、政治は、所与の歴史的、地理的、経済的、技術的、文化的状況の中で、真の意味での人間的・社会的善を具体的なかたちで実現することに関心をもつという事実である。当面する課題がそれぞれ特殊であり、状況がさまざまであることから、道徳的に許容できる政策や解決策が複数あるということは生じる。世俗的な問題に対して、特定の政治的解決法を提示したり、いわんや許容できるものとしてただ一つの解決策を提案したりすることは、教会の果たすべき任務ではない。それは神から個人の自由で責任ある判断に委ねられているからである。しかしながら、信仰と道徳法が要求する場合に、世俗的なことがらに対して道徳的判断を下すことは、教会がもつ権利であり義務である(14)。キリスト信者は「地上の諸現実の処理に関しては互いに異なる種々の考え方を正当なものとして認めるべきである」(15)。そうであれば、キリスト信者はまた、道徳的相対主義を反映した多元主義の考え方を、民主主義社会に害をもたらすものとして退けるよう招かれてもいるのである。民主主義は、譲ることのできない倫理的原則の真の堅固な基礎に基づくものでなければならない。この倫理的原則こそ、社会生活を支えるものだからである。

具体的な政治活動の次元では、通常、複数の政党が存在しうる。こうした政党によって、特に立法を行う議会を通じて、カトリック信者は、自国の公共生活に貢献する権利と義務を行使する(16)。複数政党が存在する理由は、社会を秩序づけることに関してとられる特定の選択の偶然的な性格、同じ基本価値を達成したりまたは保障したりすることが可能な戦略の多様性、政治理論の基本原理の解釈に違いがありうること、多くの政治的問題の専門的複雑さにある。しかしながら、このことを、道徳的原理あるいは本質的な価値の選択における、あいまいな多元主義と混同してはならない。世俗的選択の正当な多元性は、カトリック信者の政治参加の出発点であり、キリスト教的倫理と社会教説と直接関連づけられる。こうしたキリスト教の教えに照らして、カトリック信者は自分の政治生活への参加を評価しなければならない。こうすることによって、カトリック信者の政治参加が世俗の現実への一貫した責任感によって特徴づけられていることが確認される。

教会はこのように認識している。すなわち、民主主義は市民が政治的選択に直接参加することを表す最善の表現である。しかしながら、民主主義が成功するのは、それが人間の「人格」に関する正しい理解に基づく場合に限る(17)。カトリック信者の政治生活への関与は、この原理において妥協することができないものである。なぜなら、もしこの点で妥協したとすれば、この世におけるキリスト教信仰のあかしも、信者の一致と内的な結びつきも成り立たなくなるからである。現代の国家がその上に基盤を置いている民主主義的な構造は、人間の人格の中心的な重要性に基礎づけられていないならば、きわめて脆弱なものとなるであろう。人格の尊重があってはじめて、民主主義的な参加も可能になる。第二バチカン公会議が教えているように、「人権の擁護は市民が個人としても団体としても、公共生活と統治に行動的に参加することができるための必要条件である」(18)。

4 現代のさまざまな複雑な問題はここから派生している。その中には、過去の世代が出会ったことがないようなたぐいの問題も含まれる。科学の進歩の結果、人々の良心を動揺させるような進歩が生じ、一貫性のある根本的なしかたでの道徳原理を尊重した解決が必要となった。同時に、人間の生命の不可侵性そのものを攻撃するような法案が提出されている。そこでは、文化と社会的行動の形成に関して、人間の存在と未来にもたらす結果が考慮されていない。こうした困難な状況の中で、カトリック信者には、人の生命に関するより深い理解と、すべての人がこのことについてもっている責任とについて、社会にあらためて想起させる権利と義務がある。教皇ヨハネ・パウロ二世は、教会の変わることのない教えを引き継ぎながら、直接立法を行う人々は、人間の生命を脅かすいかなる法律に対しても「反対する、重大かつ明白な義務」があると、繰り返し述べてきた。あらゆるカトリック信者と同様、カトリックの法律家がそうした法律の制定を推進したりそれに賛成したりすることはありえない (19)。教皇ヨハネ・パウロ二世は回勅『いのちの福音』の中で、人工妊娠中絶を容認する法律をくつがえしたり完全撤廃することが不可能な場合について、こう述べている。「人工妊娠中絶に対して個人的には絶対に反対の立場にあることが広く知られている人が立法府の議員に選出されると、その人はこのような法律がもたらす害を制限すること、そして一般世論と公共道徳のレベルで、その否定的な結果を減らすことを目的とする提案を合法的に支持することができます」(20)。

これに関連して、もう一つ言っておかなければならない。すなわち、十分な養成を受けたキリスト教的良心に基づくならば、信仰と道徳の基本的な内容に相反するような政治綱領や個別の法律に賛成して投票することはできないということである。キリスト教の信仰は完全な意味で一なるものである。したがって、ある特定の要素だけを切り離して、カトリックの教え全体を損なえば、一貫性を欠くことになる。キリスト教の社会教説の、他と切り離された一つの側面に政治的に関わっただけで、共通善への責任をすべて果たしたことにはならない。また、カトリック信者が自分のキリスト信者としての責任を他の人に代わりに果たしてもらうこともできない。カトリック信者は、イエス・キリストの福音から使命を与えられている。すなわち、人間と世界についての真理を告げ知らせ、実行に移すという使命である。

政治活動が、いかなる例外も妥協も逸脱も認めない道徳原理に反するかたちで行われるとき、カトリック信者がとるべき態度はいっそう明白となり、また責任を伴う。根本的で不可侵の倫理的な要求に直面した場合、キリスト信者はそこで問題となっているのが道徳法の欠くべからざる要素であることを理解する必要がある。それは人間の人格にとって不可欠な善に関わるものだからである。人工妊娠中絶と安楽死(これを道徳的に正当な、延命治療の中止と混同してはならない)に関する法律の場合がこれに相当する。こうした法律は、受精から自然死に至るまでの生命に関する基本的権利を擁護するものでなければならない。同様に、ヒト胚の権利を尊重し、守る義務があることも再確認すべきである。似たような意味で、家族形態も保護され、支持する必要がある。家族は、男女間の一夫一婦婚に基づく。現代、離婚を認める法律が存在する中で、家族の一致と安定性を守ることが必要である。他の同棲形態を結婚と同一次元のものとけっして考えてはならない。また、そうした同棲形態がそれ自体として法的に承認されることはありえない。同じことが、子どもの教育に関する親の自由権についてもいえる。この権利は世界人権宣言でも不可侵のものとして認められているものである。社会が未成年者を保護することや、奴隷制の現代的な形態(たとえば麻薬中毒や売春)からの自由についても同じように考えなければならない。さらに、信教の自由に関する権利と、経済の発展についての権利がある。後者は人間の人格と共通善に奉仕し、社会正義、人類の連帯と補助性の原理を尊重するものでなければならない。それによって、「すべての個人・家族・集団の権利とその行使が認められなければならない」(21)。最後に平和の問題について述べなければならない。場合によって、ある種の平和主義的・イデオロギー的な考え方に基づいて、平和の価値が世俗化される傾向がある。その一方で、問題の複雑さを忘れた短絡的な倫理的判断が行われることもある。平和は常に「正義が造り出すものであり、愛の結果」(22)である。平和を実現するには、暴力とテロリズムを絶対的かつ徹底的に拒絶することが必要である。また、政治的指導者が絶えず注意深く問題に取り組むことが求められる。

III 世俗的秩序の自律性と多元主義に関するカトリックの教えの諸原理

5 上記の問題を扱う際に、さまざまなものの感じ方と文化を反映して、複数の方法が存在することは正当だということができる。しかしながら、カトリック信者が多元主義の原理を主張することはできない。また、根本的な倫理的要求について妥協したり、それを損なうかたちで共通善に作用する政策を支持するような政治生活に信徒として自律的に関わってもよいと主張することもできない。これは「信仰宣言の基準」それ自体の問題ではない。なぜなら、根本的な道徳的おきては、人間本性そのものに根ざしており、道徳的自然法に属するものだからである。道徳的なおきては、それらを守る人にキリスト教の信仰を告白することを要求しない。とはいえ、教会の教えはこうしたおきてを、いつもどのようなところでも確認し、擁護する。それが、人間に関する真理と、市民社会の共通善に関する真理に奉仕するという教会の務めの一部だからである。さらに否定できないことは、政治は絶対的価値観に基づくものでなければならないということである。なぜなら、政治はまさに人間の人格の尊厳と、人間の真の発展に仕えるものだからにほかならない。

6 政治への「カトリック信徒の参加の正当な自律性」がしばしば主張されるので、これについて明らかにしなければならない。自己の良心に従って社会の共通善を促進することは、「教条主義」や宗教的不寛容とは何の関係もないことである。カトリックの道徳的教えでは、政治あるいは国家の分野が、宗教および教会の分野から――ただし道徳の分野からではない――正当な独立性をもつことは価値とされる。この価値はカトリック教会によって実現されまた認知されたもので、現代文明の伝統に属する(23)。ヨハネ・パウロ二世は宗教の分野と政治の分野を混同することがもたらす危険について、何度も警告してきた。「宗教と政治的社会はそれぞれ独自の領域があるのですが、その間の区別をきちんと配慮しないで、ある特定の宗教規律を国法にしたり、またしようとしたりすると、きわめて微妙な状況が生じます。実際、宗教上の法を国法と同一視すると、宗教的な自由を窒息させる可能性があり、他の譲ることのできない人権を制限あるいは否定してしまうところまでいきかねません」(24)。すべての信者は、(信仰宣言、礼拝、秘跡の執行、神学的教義、宗教上の権威者と教団の信者のやりとりなどの)特定の宗教活動は、国家の責任の及ばないものであることをじゅうぶん認識している。公共の秩序にとって問題になる場合を除いて、国家は宗教活動に干渉してはならないし、また、けっして宗教活動を要求したり禁止したりしてはならない。市民権と政治権の承認と、公共サービスの提供は、市民の宗教的信条や宗教活動に応じて行われてはならない。
カトリック信者とすべての市民がもっている、真理を誠実に探究し、正当な手段を通じて、社会、正義、自由、人命の尊重、人格が有する他の権利に関する道徳的真理を促進し擁護する権利と義務は、これとはまったく別のことがらである。こうした真理のうちのあるものが教会でも教えられているということは、これらの真理に関わる市民の政治的正当性や、正当な「自律性」を減じるものではない。キリスト教信仰による理性的な探究や確証が、こうした真理を認めるために果たしてきた役割とも、それは関係がない。ここでいう「自律性」は、なによりもまず、社会における人間生活に関する自然的な知識に由来する真理を尊重する人間の態度を指すものである。たとえこうした真理が特定の宗教によっても教えられているとしても、真理は一つだからである。政治生活においてカトリック信者が行使する固有の自律性と、教会の道徳的・社会的な教えを無視した原理を主張することの意味での自律性とを混同するのは誤りである。
しかしながら、教会の教導職は、こうした領域に介入することによって、政治権力の行使を望んでいるわけではないし、偶然的な問題に関するカトリック信者の言論の自由を排除しようと望むものでもない。むしろ、教会教導職は、その固有の務めとして、信者、特に政治生活に関わる信者の良心を教育し、照らすことを意図している。それは、信者の活動が常に人間の人格と共通善を十全なしかたで向上させることに仕えることができるようにするためである。教会はその社会教説を個々の国の政府に押し付けはしない。自己の良心に忠実に、道徳的に一貫した態度をとることは、カトリック信徒が行うべき義務に属する問題である。良心は一であり、不可分のものである。「信徒は、二つの並行した生活をしているのではありません。つまり、霊的な価値と要求をもったいわゆる『霊的生活』と、家庭や仕事、社会的関係や公共生活の責任、文化活動といったいわゆる『この世における生活』との二つの別な生活をしているのではありません。キリストであるぶどうの木につながった枝は、すべての領域の存在と活動において実を結びます。実際、信徒の生活のあらゆる分野が神の計画のなかに入っています。神は、そのあらゆる分野が、御父の栄光と他者への奉仕のためにキリストの愛が表され、実行される『場』となることを望んでいます。仕事上の能力と連帯、家庭における愛と献身、子どもたちの教育、社会奉仕と公共生活、文化の領域における真理の促進など、すべての活動、状況、実際的な責務はみな、『信仰、希望、愛の絶えざる実践』(第二バチカン公会議『信徒使徒職に関する教令』4)のための摂理的な機会なのです」(25)。政治の問題に関して自己の良心に合致して生活し行動することは、政治と異質な立場を奴隷のように受け入れることではないし、ある種の教条主義でもない。むしろそれは、キリスト信者が具体的なしかたで貢献を行うやり方である。こうして、政治生活を通じ、社会はいっそう公正で、いっそう人間の人格の尊厳に沿ったものとなる。
民主主義社会では、すべての法案は自由に議論され、検討される。ある人々は、個人の良心の尊重に基づいて、自分の良心に従って行動するというキリスト信者の道徳的な義務により、キリスト信者は政治生活に不適格なものとされると考える。彼らは、共通善に関する自らの確信に従って行われるキリスト信者の政治への関与の正当性を否定する。こうした考えの人々は、一種の不寛容な世俗主義の誤りを犯している。こうした見解は、公共生活や政治的生活にキリスト教が関与することをまったく否定しようとするだけでなく、自然法倫理そのものの可能性までも否定することになる。こうした見解の行き着く先は、道徳的な無政府状態である。それこそ、合法化された多元主義にほかならない。そこから強者による弱者の抑圧が帰結することは明白である。さらに、キリスト教が社会の隅に追いやられることは、社会の明るい未来を示すしるしにも、人々の同意がもたらされるしるしにもならないであろう。実際、そうなれば、文明の霊的・文化的基盤そのものが脅かされることになるであろう(26)。

IV 特定の側面に関する考察

7 近年、カトリックの原理に基づいて創立されたいくつかの組織の中で次のような例が見られる。すなわち、そこでは、根本的な倫理的問題に関する教会の道徳的・社会的教説に反する立場をとる政治団体や政治運動への支援が行われている。キリスト教的な良心の基本原理に反するそうした活動は、カトリックを名のる組織や団体の構成員であることと相いれない。同様に、ある国々の一部のカトリック雑誌で表明されている、政治的選択に関する見解は、あいまいな、あるいは不正確なものである。そこではカトリック信者に与えられた政治的自律についての考えが誤って解釈されたり、上述したような原理が考慮に入れられないためである。

イエス・キリストは「道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ14・6)。このイエス・ キリストへの信仰は、キリスト信者に対して、聖書に力づけられながら、カトリックの伝統に含まれた価値と内容をあらためて宣言するような文化を作り上げるべく、いっそう努力するよう求めている。カトリックの霊的、知的、道徳的伝統がもたらした成果を、現代の文化にとって理解できることばで提示することは、現代の火急の課題である。それは、カトリックが文化的な意味での離散の民とならないためにも必要なことである。さらに、さまざまな国で、特に第二次世界大戦以来、カトリック信者は政治的生活において文化的業績を上げ、成熟した経験を積んできた。したがって、カトリック信者が自分たちとさまざまな政治綱領を比較してある種の劣等感を感じる必要はない。最近の歴史は、こうした政治綱領が弱体化し、または完全に破綻したことを明らかにしている。カトリック信者の社会への関わりは、たんなる構造変革に限ったものにしかなりえないと考えるのは、不十分であり、消極的にすぎる。なぜなら、基盤となる次元で、信仰と道徳に基づく見解を受容し、意味づけ、実行に移すことのできる文化がなければ、社会の変化は常に脆弱な土台の上で行われることになるからである。

キリスト教の信仰が、社会的・政治的問題に対して、厳格な考え方を押し付けようとしたことはけっしてなかった。教会は、歴史の領域において、人間は、急速に変化するものでもある不完全な状況の中で生きるほかないことを知っていたからである。だから、キリスト信者は、ユートピア的な発想に基づく政治的立場や政治活動に組してはならない。ユートピア的発想は、聖書的信仰の伝統を、神のいないある種の予言的展望に変えたものである。それは宗教の悪用である。良心を希望へと向けるが、この希望は地上的なものにすぎず、キリスト教の永遠のいのちへの望みを、その内容を抜き去って、再解釈したものだからである。
同時に、教会は、真の意味での自由は真理なしに存在しないことを教える。「真理と自由は、ともに結びついているか、ともに悲惨の中に失われていくかのどちらかなのです」(27)。真理が語られず、探し求められることもない社会では、自由はどれほど真の意味で行使されようと、弱められる。自由は放縦と個人主義へと歪曲され、人間の人格の善と社会全体の善を保護することがないがしろにされていく。

8 この関連で、今日、世論の中で多くの場合、気づかれることもなく、正しく表明されることもない真理を思い起こすのは有益である。すなわち、良心の自由に関する権利、および、とりわけ第二バチカン公会議『信教の自由に関する宣言』が述べている信教の自由の権利は、人間の人格の存在論的な尊厳に基づくものであって、諸宗教や、人間が造り出した文化的制度の間の、実際にはありもしない平等に基づくものではないということである(28)。この問題を考察して、パウロ六世は次のように述べている。「公会議は、この信教の自由に関する権利を、あらゆる宗教、また誤った教説を含むあらゆる教説がなにかしら平等な価値をもつといったことによって基礎づけようとはけっしてしない。信教の自由の権利は、人間の人格の尊厳によって基礎づけられる。人間の人格の尊厳は、真の宗教を求めたり、真の宗教にとどまろうとする良心に強制を加えようとする外的制約に対して、人間が従属しないことを要求するものだからである」(29)。それゆえ、良心の自由と信教の自由に関する教えは、カトリックの教えが宗教的無関心と宗教的相対主義を断罪することと矛盾するものではない(30)。その反対に、前者の教えは後者の断罪と完全に一致するのである。

V 結論

9 本『覚え書き』が述べる原理は、キリスト教的生活の一致において最も重要な側面に光を当てようとしたものである。すなわち、第二バチカン公会議が再確認した、信仰と生活、福音と文化の一致である。「公会議は・・・キリスト信者が福音の精神に導かれて、地上の義務を忠実に果たすよう激励する。われわれがこの世に永続する国をもたず、未来の国を求めることを知っていて、それゆえに地上の義務を怠ってもよいと考える者は間違っている。信仰そのものが、自分の受けた召命に応じて地上の義務を果たすべきことを彼らにいっそう強く命じていることを忘れているからである。・・・キリスト者は、・・・人間的・家庭的・職業的・学問的・技術的努力を宗教的価値と結びつけていきいきとした一つの総合としてまとめることによって、自分のあらゆる地上的活動を行うことができることを喜びとしなければならない。この宗教的価値による崇高な方向づけによって、すべては神の栄光に向けて秩序づけられる」(31)。

 教皇ヨハネ・パウロ二世は2002年11月21日の謁見において、本省が総会で採択した本『覚え書き』を承認し、公刊を指示した。

ローマ、教理省事務所にて、2002年11月24日、王であるキリストの祭日

教理省長官
ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿

秘書、ヴェルチェリ名誉大司教
タルシジオ・ベルトーネ

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