教皇ヨハネ・パウロ二世 使徒的書簡「急速な発展」

解説  以下は、2005年2月21日に発表された、教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『急速な発展-広報活動に携わる人びとへ』(Il rapido sviluppo-ai responsabili delle comunic […]

解説
 以下は、2005年2月21日に発表された、教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『急速な発展-広報活動に携わる人びとへ』(Il rapido sviluppo-ai responsabili delle comunicazioni sociali)の全訳です。
 本文書は、教皇ヨハネ・パウロ二世の45編の使徒的書簡の最後のものとなります。本文書のテーマは、広報メディアです。
 広報メディアに関して、第二バチカン公会議は1963年12月4日に『広報機関に関する教令』を発布し、その後、教皇庁広報委員会(現在の教皇庁広報評議会)も司牧指針をはじめ、さまざまな文書を発表しています。教皇ヨハネ・パウロ二世自身も、毎年、世界広報の日にメッセージを発表してきました。しかし、ヨハネ・パウロ二世が広報メディアだけをテーマとして使徒的書簡を書いたのは、これが初めてです。
 ヨハネ・パウロ二世は、その教皇としての活動の中で、メディアの役割をきわめて重視しました。教会は「広報メディアを用いることが、(福音宣教という)主の命令に答えることになると考えるからです」(本書7)。実際、ヨハネ・パウロ二世の在位中、教皇庁の広報活動もめざましく強化されています。1984年にナバロ・バルス報道官が任命され、1991年にバチカン・インフォーメーション・サービスの通信が始まり、1997年には教皇庁のインターネット・ホームページが開設されました。教皇庁の広報の公開性は、ヨハネ・パウロ二世の逝去に前後して、世界が目の当たりにすることになりました。もちろん、本文書で述べられるとおり、ヨハネ・パウロ二世は、メディアがもたらす負の側面を避けるために、細心の識別が必要であることも強調しています。
 なお、翻訳の底本として英語版を用いましたが、同時にオリジナルのイタリア語版を参照しています。
 教皇の使徒的書簡の翻訳は、通常は書籍の形で刊行していますが、本文書は現代の広報メディアに関するものであるため、今回は特別に、また初めて、カトリック中央協議会の広報誌である『会報』(第417号:2005年9月号)およびカトリック中央協議会ホームページで発表することとしました。


教皇ヨハネ・パウロ二世 使徒的書簡
「急速な発展-広報活動に携わる人びとへ 」

1.メディアの分野における技術の急速な発展が、現代社会における進歩のしるしの一つであることは間違いありません。進化し続けるこうした技術革新を目の当たりにするとき、わたしの敬愛すべき先任者である、神のしもべ、教皇パウロ六世が1963年12月4日に発布した、第二バチカン公会議『広報機関に関する教令』に書かれたことばは、いっそう適切なものとなったように思われます。「とくに現代において、人間の英知が神の助けのもとに、被造物から引き出した技術上の驚嘆すべき数多くの発明のなかで、人間精神と密接な関係を持ち、あらゆる種類の報道、思想、指令を容易に伝達するための新たな手段を、母なる教会は特別な配慮をもって受け取り、支援する」(1)。 

Ⅰ 『広報機関に関する教令』の結果生まれた、実りある進歩

2.この教令が発表されてから40年以上が経った今、広報メディアが教会に与える挑戦について考察することは、適切なことだと思われます。パウロ六世がこう述べているとおりです。「こうした有力な手段を使わなければ、教会は主の前で後ろめたく感じるでしょう」(2)。実際、教会は、福音をのべ伝えるためにマス・メディアを利用するよう求められているだけではありません。救いのメッセージを、こうした有力な広報手段が造り出し、拡大する「新しい文化」と統合することも、今日、これまでにもまして求められているのです。このことから、現代の広報の方法や技術の利用は、第三千年期における教会の宣教の不可欠な要素であることがわかります。
 こうした意識に促されて、キリスト教共同体は、宗教教育、福音宣教と要理教育、広報の分野における司牧者の養成、さまざまな広報メディアの利用者や視聴者の、大人としての責任ある態度に向けた教育のために、広報手段の利用において大きな進歩を遂げてきました。

3.現代のように豊かな情報伝達の可能性がある世界において、新しい福音宣教は多くの問題に直面しています。そのために、わたしは回勅『救い主の使命』の中で、現代の最初のアレオパゴスは情報伝達の世界だということを強調したいと望みました。情報伝達手段は人類を一致させ、よくいわれるように、人類を「一つの地球村」に変えることができます。広報メディアは非常に重要なものとなり、多くの人に、個人や家族、また社会人としての行動の手引きと導きを与える主要な手段となっています。わたしたちは複雑な問題を扱うことになります。なぜなら、文化自体が、その内容と切り離されて、これまで知られていなかった技術と用語による、新しい情報伝達の手段が存在するということそのものから、生まれているからです。
 わたしたちは、世界的な情報伝達の時代に生きています。人びとは数えきれないほどの瞬間瞬間に、マス・メディアが与えるさまざまな影響を受け、少なくともそうした影響にさらされています。そのような影響として、人格や意識の形成、情緒的関係の意味の解釈と構築、教育過程と発達過程の統合、さまざまな文化の形成と普及、社会・政治・経済生活の発展を挙げるにとどめたいと思います。
 マス・メディアは、人間の発展に関する有機的で正しい考え方に従って、正義と連帯を促進することができますし、また促進しなければなりません。そのために、正確かつありのままに事件を報道し、完全なしかたで状況と問題を分析し、さまざまな意見に議論の場を提供することが必要です。影響力のある広報メディアの利用に関する真の意味での倫理の前提となるのは、真実と正義という最高の基準であり、自由と責任を成熟したかたちで行使することです。

Ⅱ 福音に基づく識別と宣教の務め

4.マス・メディアの世界も、キリストによるあがないを必要としています。広報の過程と価値を信仰の観点から検討する上で、聖書の理解を深めることが役立つことは間違いありません。聖書は、メッセージを伝えるための「大いなる体系」です。このメッセージは、一時的また偶然的なものではなく、救いをもたらす内容を含んでいるがゆえに、根本的なものだからです。
 救いの歴史は、神と人間の間のコミュニケーションの物語であり、記録です。このコミュニケーションは、情報伝達のあらゆる形態・手段を用いて行われました。人間は、神の像と似姿に従って創造されました。それは、神からの啓示を受け入れ、神との愛の対話を行うことができるようになるためでした。罪のために、個人的な次元でも、社会的な次元でも、この対話のための能力は変化しました。こうして人間は、神を理解できず、神から切り離されるという苦い経験を味わわなければならなくなり、また、味わい続けています。しかしながら、神は人類を見捨てることなく、ご自分の子を遣わしました(マルコ12・1-11参照)。みことばの受肉によって、コミュニケーションは、きわめて深い、救いをもたらすための意味を持つようになります。こうして人類は、聖霊によって、救いを受け入れ、またこの救いを世界にのべ伝え、あかしする能力を与えられました。

5.このようにして、みことばの受肉によって、神と人類の間のコミュニケーションは完全なものになりました。神は愛のわざによってご自身を示しました。この愛と、人類による信仰の応答とが結ばれて、実り豊かな対話が生まれます。まさにそのために、わたしたちは、「わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11・1)という弟子たちの願いを、ある意味でわたしたち自身のことばとして用いながら、優れた広報手段によって、どうすればわたしたちが神と、また人びとと心を通わせばよいか、わたしたちに悟らせてくださいと、主に願うことができるのです。こうした究極的に重要なコミュニケーションを目指す上で、メディアは、時間や場所や言語の壁を超えて、あらゆるところにいる人びととわたしたちをつなぐための、またとない機会を与えてくれます。メディアは、信仰の内容をさまざまなしかたで伝え、神を探し求めるすべての人が、イエス・キリストによって完全なかたちで示された神の神秘と対話できるようにしてくれるのです。
 受肉したみことばはわたしたちに、御父や人びととどのように交わればよいかという模範を残しました。沈黙しているときも、黙想しているときも、あるいは、どんな所で、またどんなしかたで説教していても、わたしたちは御父や人びとと交わることができます。主は、聖書を説き明かし、たとえを通じてご自身を示し、家の中で親しく語らい、広場や道端、湖のほとりや山の上で語りかけました。自ら主と出会った人は、無関心ではいられなくなり、主に倣うように促されます。「わたしが暗闇であなたがたにいうことを、明るみでいいなさい。耳打ちされたことを、屋根の上でいい広めなさい」(マタイ10・27)。
 しかしながら、こうしたコミュニケーションが頂点に達して、完全な交わり(コミュニオン)となる瞬間があります。それが、聖体との出会いです。「パンを裂い」(ルカ24・30-31参照)たときに、それがイエスだとわかった信者たちは、イエスの死と復活を告げ知らせ、喜びと勇気をもって神の国をあかしするよう、駆り立てられずにはいられません(ルカ24・35参照)。

6.あがないによって、信じる者が持つコミュニケーションのための能力は、いやされ、刷新されます。キリストと出会うことによって、信じる者は新たな被造物となり、民の一員となることができました。十字架上で死んだキリストは、ご自分の血によってこの民を勝ち取り、彼らを三位一体の内なるいのちへと導き入れてくださいました。三位一体は、父と子と聖霊の間の、完全かつ無限の愛の、絶え間なく循環するコミュニケーションにほかならないからです。
 コミュニケーションは、教会にとって不可欠なさまざまの側面と結びついています。教会は、すべての人に喜ばしい救いの知らせを告げ知らせることを使命とするからです。だからこそ教会は、交わりを深め、神のことばをいっそう徹底的にのべ伝えるために、神から与えられたまたとない手段として、広報メディアがもたらした機会を用いるのです(3)。メディアは、神の民の持つ普遍的な性格を明らかにします。メディアは、地方教会の間でいっそう密接かつ直接的な交流が行われることを可能にし、相互の意識と協力関係を深めるからです。
 わたしたちは、強力なメディアが存在することを、神に感謝したいと思います。信者が信仰の精神をもって、また聖霊の光に忠実にそれを用いるならば、メディアはすみやかに福音を伝え、教会共同体間の交わりのきずなをいっそう効果的なものとすることができるからです。

Ⅲ 発想の転換と司牧の刷新

7.福音と宗教的価値観の伝達、エキュメニカルな、また諸宗教間の対話と協力の促進、さらに、人間の人格の尊厳を尊重し、共通善を重んじるような社会の建設に不可欠な、堅固な原則の擁護のために、教会は、広報メディアが貴重な手段となると考えます。教会は、自らに関する情報を伝え、福音宣教と要理教育と養成の領域を広げるために、広報メディアを進んで用います。それは、広報メディアを用いることが、主の命令に答えることになると考えるからです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい」(マルコ16・15)。
 もちろんそれは、確実性の時代が、すでに取り返しのつかないほど過去のものとなったと固く信じられている現代において、たやすい任務ではありません。実際、多くの人が、人間は、意味の喪失に支配された世界の中で、一時的ではかないものをたよりに生きることを学ばなければならないと信じています(4)。このような状況において、広報メディアは、「福音をのべ伝えるため」に用いることもできれば、「また、福音を人の心の中で沈黙させるために」(5)用いることもできるのです。このことは、信者、それもとりわけ、親、家族、子どもと若者の養成に携わるすべての人にとって、重大な挑戦となるものです。メディアにかかわる仕事に関して特別な才能に恵まれた人は、司牧的な賢明さと知恵をもって、教会共同体から励ましを受けなければなりません。それは、彼らがマス・メディアの広大な世界と対話できる専門家になるためです。

8.メディアの評価は、メディアの分野の専門家だけでなく、教会共同体全体で行うべきものです。すでに述べたように、広報メディアが信仰表現のさまざまな側面を取り上げるのであるなら、キリスト信者は、自分たちがその中で生きているメディア文化に注意を払わなければなりません。まず典礼です。典礼は、わたしたちと神との、またわたしたちと人びととの、最高の基本的なコミュニケーションの表現です。次に、要理教育です。要理教育は、現代の言語と文化の中で生活する人びとに向けて行われるものだということを忘れてはなりません。
 今日の広報のあり方は、教会に対して、わたしたちが生きている時代に適切に対処するために、ある種の司牧的かつ文化的な見直しを行うよう促しています。何よりもまず司牧者が、そのために責任をとらなければなりません。福音を社会に浸透させ、人びとが福音のメッセージに耳を傾け、それを受け入れるのを促すために、可能なあらゆることをしなければなりません(6)。マス・メディアを用いるカリスマを持つ会に属する奉献生活者は、この点に関して特別な責任を帯びています。メディア教育のための霊的また専門的な養成を受けた、こうした会は、「司牧的にふさわしい場合であればいつでも、進んで力を貸さなければなりません。これは、メディアの乱用から生じる損害を抑えるため、また、より質の高いプログラムを奨励し、その内容が道徳律を重んじ、人間的、キリスト教的価値を豊かに持つものとなるために実行されなければなりません」(7)。

9.マス・メディアの重要性を考えて、15年前、わたしは、マス・メディアの使用を個人や小グループの企画に完全に委ねるのは不適当だと判断し、それをはっきりと司牧計画に組み入れることを提案しました(8)。とりわけ新しい情報通信技術は、さらに便利なコミュニケーションの手段を生み出しています。こうしたコミュニケーションの手段を、キリスト教共同体のさまざまな業務における司牧的統治や組織づくりのために役立てなければなりません。そのことを示す、現代のはっきりした例の一つが、インターネットです。インターネットは、多くの情報の提供源となるだけでなく、人びとが相互にコミュニケーションを行うためにも適しています(9)。多くのキリスト信者が、すでにこの情報通信手段を創造的なしかたで利用しています。彼らは、福音宣教や教育だけでなく、教会内の通信、管理、統治のために、インターネットが持つ力を探究しているのです。しかしながら、インターネットと並んで、他の新しい通信手段や、伝統的なメディアも用いる必要があります。日刊紙、週刊紙、さまざまな出版物、カトリック機関が放送するテレビとラジオは、教会内のコミュニケーション全体から見て、その大きな有用性を失っていないからです。
 伝える内容を、さまざまなグループの必要に合わせなければならないのは当然です。しかし、常に目指さなければならないのは、人びとが、伝えられた内容の倫理的・道徳的側面に気づくようにすることです(10)。同じく、メディア業界で働く人が、日常業務の中で生じる特殊な緊張関係や倫理的ジレンマに対処することができるように、彼らに必要な養成と司牧的な配慮を与えるよう努めることも重要です。このような人びとの多くが、「倫理や道徳の分野で正しいことを知り、実行したいと真面目に望み」、教会に指導と助けを期待しているからです(11)。

Ⅳ マス・メディア――社会的な大問題の十字路

10.教会は、主から救いの告知を委ねられているがゆえに、人類の教師でもあります。それゆえ教会は、最近の広報手段の発展がもたらす展望と責任に関して、理解を深めるために寄与しなければならないと考えます。とりわけ、広報手段の発展は、一人ひとりの人の良心に影響を及ぼし、彼らの思考を形づくり、ものの見方を規定します。そのため、マス・メディアが伝統文化を保護し促進すべきだということを、強く、またはっきりと強調しなければなりません。広報メディアは、教育や倫理的責任の点でも、法や制度的規範との関連からも、権利と義務とから成る、全体的な枠組みの中に位置づけられなければなりません。
 メディアを、共通善に奉仕するように積極的なかたちで発展させることは、一人ひとりの人の責任でもあり、またすべての人の責任でもあります(12)。メディアは、経済、政治、文化と密接な関係を持っています。ですから、人格の中心的な意味と尊厳、社会の基本的な単位としての家庭が持つ、すべてに優る重要性、また、さまざまなことがらの間の適正な関係を守ることができるような、運用のシステムが必要です。

11.わたしたちには、取り組まなければならない3つの根本的な課題があります。すなわち、教育と参加と対話です。
 まず求められているのは、マス・メディアを賢明かつ適切なかたちで理解し、用いることができるようにするための、教育という大きな仕事です。メディアが社会に導入した新しいことば遣いが、学習過程も、人間関係のあり方も変容させています。ですから、適切な教育を行わないと、こうしたメディアは、人間に奉仕するどころか、深刻なかたちで人間の道具化や操作をもたらす恐れがあります。このことは、とくに若者についていえます。若者は本来、新しい技術を好むので、なおさら、メディアを責任をもって批判的に用いるための教育がいっそう必要とされるのです。
 第二に、メディアへのアクセスの問題と、メディアの管理における共同責任に基づく参加の問題について、注意を喚起したいと思います。広報メディアが人類全体の善益を目指すものであるなら、すべての人が真の意味でその運営に参加することを可能にするような、新しい手段を常に見いださなければなりません。それには、適切な法的措置を講じることも含みます。わたしたちは共同責任の文化をはぐくむ必要があります。
 最後に、マス・メディアは、相互の認識を深める手段となることを通じて、連帯と平和のための対話を促進するという、大きな可能性を持っていることを忘れてはなりません。マス・メディアは、民族間の理解を深めるために用いられれば、善をもたらす力強い手段になりますが、不正と紛争を助長するために用いられれば、破壊的な「武器」ともなるのです。敬愛すべきわたしの先任者である教皇ヨハネ二十三世は、メディアが潜在的に有するそのような危険を、すでに回勅『パチェム・イン・テリス』(13)の中で、人類に対する預言として警告しました。

12.「教会における世論」の役割と、「世論における教会」の役割に関する考察は、大きな関心を呼び起こしました。カトリック新聞・雑誌編集者国際会議の参加者との謁見において、わたしの敬愛すべき先任者であるピオ十二世は、もし教会に世論がなかったら、教会生活には何かが欠けていると述べました。以来、これと同じ見解は、他の機会にも繰り返して表明されてきました(14)。また、教会法でも、一定の条件の下で、自己の意見を表明する権利が認められています(15)。確かに、信仰の真理は、恣意(しい)的な解釈に委ねられるものではありません。また、他者の権利の尊重は、意見の表明を自ずから制約します。しかし、正義と英知を尊重しながら対話するのであれば、カトリック信徒が意見交換を行うことは、依然として可能だといわなければなりません。
 教会共同体内で行われる広報も、教会と全世界との間で行われる広報も、メディアの世界にかかわるさまざまな問題に、開かれた態度で、また現代的なしかたで臨むことが求められています。こうした広報は、建設的な対話となる必要があります。キリスト教共同体が、世論をより正しく知り、また識別できることを促すためです。他の団体や集団と同じように、教会にも、自らの活動を知らせる必要と権利があります。しかし、必要な場合には、適切なかたちで秘密を保持できることも必要です。ただし、それによって教会の出来事についての広報が遅れたり、不十分になることがないように留意しなければなりません。これは、信徒と牧者の協力がきわめて必要とされる分野の一つです。公会議が適切にもこう強調しているとおりです。「信徒と牧者との間のこの親しい交わりから、教会のために多くの善がもたらされることを期待すべきである。事実、こうして信徒の中に責任感が強められ、気力が育成され、信徒の力が牧者の働きに容易に結び合わされるようになる。他方、牧者は信徒の経験に助けられて、霊的なことがらにおいても現世的なことがらにおいても、より正確に、より適切に判断することができるようになる。このようにして全教会はそのすべての肢体によって強められ、世の生命のために自分の使命をより効果的に果たすことができるのである」(16)。

Ⅴ 聖霊の力によって行われるコミュニケーション

13.信徒とすべての善意の人びとが抱える、現代の大きな課題は、世界の健全な発展に寄与しうるような、真実で自由なコミュニケーションを確保することです。誰もが、どうすれば細心の識別と、絶え間ない監視を行うことができるか、知ることを求められています。それは、情報通信手段が持つ魅力的な力を、健全に批判できる能力を高めるためです。
 この分野においても、キリストを信じる者は、聖霊の助けにより頼むことができることを知っています。さまざまなイデオロギーや、利潤や権力への欲求、さまざまな個人・集団間の抗争や紛争、さらにまた、人間の弱さや社会の悪によって、コミュニケーションに本来備わっているむずかしさは、いっそうはなはだしいものとなりえます。このことを考えるとき、聖霊の助けはいっそう必要とされます。現代の科学技術は、情報通信の速度と量、またその利用のしやすさを著しく増大させました。その一方で、科学技術は、精神と精神、心と心の間で交わされる、微妙な交流を配慮することがありません。けれども、このような交流こそが、連帯と愛に仕えるあらゆるコミュニケーションを性格づけるのです。
 救いの歴史を通して、キリストは、御父を「伝える者」として、わたしたちの前に姿を現しました。「神は、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1・2)。永遠のみことばは、ご自身を伝えるために肉となりました。みことばは、自分のことばに耳を傾ける人びとに常に敬意を払い、彼らの置かれた状況と、彼らの必要とするものがいかなるものかを教えました。みことばは、人びとの苦しみに同情し、人びとが聞きたいと望むことだけを、はっきりと語りました。そのことばには、強制も妥協もなく、いつわりもごまかしもありませんでした。イエスは、コミュニケーションが倫理的な行為であるということを教えました。「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。いっておくが、人は自分の話したつまらないことばについてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって罪ある者とされる」(マタイ12・35-37)。

14.使徒パウロは、広報にかかわる人びと(政治家、ジャーナリスト、視聴者)に対して、はっきりとこう呼びかけています。「だから、いつわりを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。・・・・悪いことばを一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つことばを、必要に応じて語りなさい」(エフェソ4・25、29)。
 広報に従事する人びと、とりわけ社会の中で重要なこの分野で働く信者の皆さんに向かって、わたしも呼びかけたいと思います。これは、普遍教会の牧者としてのわたしの奉仕職を始めたときから、わたしが全世界に向かって表明したいと望んできたことばです。「恐れることはありません」。
 最新の科学技術を恐れることはありません。こうした「驚嘆すべき」科学技術は、神がわたしたちに委ねたものだからです。それは、わたしたちがこれらの技術を発見し、用い、真理を知らせるためです。さらに、わたしたちが神の子であり、神の永遠の国を継ぐ者であるという、わたしたちの尊厳と使命に関する真理を知らせるためです。
 世から反対を受けることを恐れることはありません。イエスはわたしたちにこう約束しているからです。「わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16・33)。
 自分の弱さと力のなさを恐れることはありません。神である師がこういっておられるからです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20) 。キリストの希望、恵み、愛の知らせを伝えてください。そのために、この移り行く世において、とこしえに変わることのない天の姿を常に生き生きと保たなければなりません。その姿は、かつていかなる伝達手段によっても、直接伝えることのできなかったものです。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(一コリント2・9)。
 わたしたちにいのちのことばを与えたかた、変わることのない主のことばを心の中で思いめぐらしたかたであるマリアに、わたしは現代世界における教会の歩みを委ねます。わたしたちの救い主キリストのうちに生きることの美しさと喜びを、あらゆる手段を用いて伝えることができるように、聖なるおとめがわたしたちを助けてくださいますように。
 皆様の上にわたしの祝福をお送りします。

 

2005年1月24日、ジャーナリストの守護者である聖フランシスコ・サレジオの祝日
                         バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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