教皇ベネディクト十六世の就任ミサ説教

4月24日(日)午前10時からサンピエトロ広場で教皇ベネディクト十六世の就任ミサが行われました。以下はベネディクト十六世の説教の全文の翻訳です。説教はイタリア語で行われましたが、翻訳の底本としては、イタリア語テキストを参照しつつ、同時に公表された英語テキストを用いました。なお、就任ミサで読まれた聖書朗読個所は、第1朗読が使徒言行録4・8-12、詩編が詩編118、第2朗読が一ペトロ5・1-5、10-11、福音がヨハネ21・15-19でした。


来賓の皆様
親愛なる兄弟である司教と司祭の皆様
各国代表と外交使節の皆様
親愛なる兄弟姉妹の皆様

 この数日の大きな緊張を伴う日々の間、わたしたちは三つの異なる機会に諸聖人の連願を唱えました。わたしたちの教皇ヨハネ・パウロ二世の葬儀のとき、枢機卿がたがコンクラーベを開始するとき、そしてふたたび今日です。わたしたちは応唱でこう歌いました。「主よこの者を助けてください(Tu illum adiuva)」、すなわち、聖ペトロの新しい後継者を支えてくださいと。それぞれの機会に、この祈りが歌われるのを聞いたとき、わたしは特別な意味で大きな慰めを感じました。
 ヨハネ・パウロ二世が逝去された後、わたしたちは皆、どれだけ寂しく感じたことでしょうか。教皇は、26年以上にわたりわたしたちの牧者となり、わたしたちの人生の旅路を導いてくださったからです。教皇は来世の入口を通り、神の神秘に入っていかれました。
 しかし教皇は、ただひとりきりでこの道のりを歩まれたのではありませんでした。信じる者は、この世でも、死んでからも、けっしてひとりきりではありません。かの葬儀のときに、わたしたちはあらゆる時代の聖人たちに呼びかけることができました。彼らは教皇の信仰における友人であり、兄弟姉妹です。わたしたちは、聖人たちが生ける行列をなして、教皇が来世に至り、神の栄光を受けるまで、ともに歩んでくれることを知っていました。わたしたちは教皇の到着が心待ちにされていることを知っていました。いまや教皇がご自分の家族とともに、ほんとうの意味でご自分の家でくつろいでおられることを、わたしたちは知っています。
 わたしたちはまた、主が選んだ者を選出するために、荘厳にコンクラーベを始めたときに慰めを感じました。どのようにして、わたしたちはその者の名を見分けることができたのでしょうか。あらゆる文化、あらゆる国から来た115名の司教が、どのようにして、主が、つなぎ、解く使命を委ねようと望まれた者を見いだすことができたのでしょうか。

わたしたちはひとりきりではない
 あらためて、わたしたちは、自分たちがひとりきりではないことを知ります。自分たちが、神の友によって囲まれ、伴われ、導かれていることを、わたしたちは知っています。そして今、この瞬間に、神の弱いしもべであるこのわたしが、この途方もない務めを引き受けなければなりません。この務めはほんとうに、人間のあらゆる力を超えています。どうしてわたしにそのようなことができるでしょうか。どうしてわたしはそのようなことができるようになるでしょうか。
 親愛なる友人の皆様。皆様は今、神が人類と関わった歴史の中の幾人かの偉大な聖人の名を唱えながら、すべての聖人たちに祈り求めてくださいました。こうしてわたしもまた、あらためて確信をもってこういうことができます。わたしはひとりきりではありません。わたしは、ほんとうの意味で、けっしてひとりで担うことのできないことを、ひとりで担う必要はありません。神のすべての聖人たちが、かしこでわたしを守り、わたしを支え、わたしを担ってくださいます。また、親愛なる友人の皆様。皆様の祈りと、ご好意と、愛と、信仰と、希望とが、わたしとともにあります。
 実に、諸聖人の交わりは、わたしたちに先立ち、わたしたちがその名を知っている偉大な人びとの間にだけあるのではありません。わたしたち皆が、諸聖人の交わりにあずかっているのです。わたしたちは父と子と聖霊の名によって洗礼を受けました。わたしたちはキリストのからだと血のたまものからいのちを与えられます。キリストのからだと血は、わたしたちを作り変え、ご自身に似たものとしてくださいます。
 そうです、教会は生きています。それが、この数日間にわたしたちが味わったすばらしい経験です。教皇が病と死を受けた悲しい日々の間、教会が生きているということが、すばらしいしかたでわたしたちに明らかになりました。また、教会は若いいのちにあふれています。教会はその中に世界の未来をもっています。だから教会は、わたしたち一人ひとりに未来に至る道を示してくれるのです。教会は生きており、わたしたちはそのことを目の当たりにしています。わたしたちは、復活した主が弟子たちに約束した喜びを経験しているからです。教会は生きています。教会が生きているのは、キリストが生きているからです。キリストがまことに復活したからです。
 あの復活祭の日々に、わたしたちが教皇の顔に見た苦しみのうちに、わたしたちはキリストの受難の神秘を観想し、またキリストの受けた傷に触れました。しかし、この日々において、わたしたちはまた、深い意味で、復活したかたに触れることができました。わたしたちは短い闇の期間の後に、主の復活の実りとして、主が約束された喜びを経験することができたのです。

教会は生きている
 教会は生きています。このことばをもって、わたしはここに集まってくださったすべての皆様に、すなわち、敬愛すべき兄弟である枢機卿と司教の皆様、親愛なる司祭、助祭、教会で働く人びと、カテキスタの皆様に、大きな喜びと感謝とともに、ご挨拶を申し上げます。男女修道者の皆様にご挨拶申し上げます。皆様はわたしたちの姿を作り変える神の現存をあかししておられます。信徒の皆様にご挨拶申し上げます。皆様は、神の国の建設という、世界中の、生活のあらゆる分野にまで広がる、大きな課題に取り組んでおられます。わたしはまた、洗礼の秘跡によって新たに生まれながら、わたしたちと完全な交わりをもたないすべてのかたがたに、大きな愛情を込めてご挨拶申し上げます。そして、わが兄弟姉妹であるユダヤ人の皆様、わたしたちは皆様と偉大な霊的遺産によって結ばれています。この遺産は、神の取り消すことのできない約束に基づくものです。最後に、力を一つに集めた波のように、わたしの思いは、信仰をもっている人も、信仰をもたない人も含めて、現代のすべての人びとに向かいます。
 親愛なる友人の皆様。今、わたしが統治の計画を申し上げる必要はありません。わたしは4月20日水曜日のメッセージの中で、わたしが自分の使命と考えていることを示すことができました。また、それを申し上げるほかの機会もあることと思います。
 わたしのほんとうの統治の計画は、自分の意志を行うことではありませんし、自分自身の考えを実行することでもありません。わたしのほんとうの統治の計画は、全教会とともに、主のことばとみ旨に耳を傾け、主に導かれることです。それは、わたしたちの歴史のこのときにおいて、主ご自身が教会を導いてくださるためです。計画について申し上げる代わりに、わたしは、ペトロの奉仕職の開始を表すために、典礼で用いられる二つのしるしについて簡単にお話ししたいと思います。また、これらの二つのしるしは、ともに、今日の聖書朗読で読まれたことをはっきりと反映しています。

羊を守るための聖なる熱意
 最初のしるしは、パリウムです。パリウムは羊毛だけで織られ、わたしの肩にかけられます。4世紀以来ローマ司教が身に帯びてきた、この昔からあるしるしは、キリストのくびきを表すものと考えられます。神のしもべたちのしもべである、ローマ市の司教は、それを自分の肩にかけます。
 神のくびきは、わたしたちが受け入れる神のみ旨です。このみ旨は、わたしたちを押さえつけ、わたしたちから自由を奪う、重荷ではありません。神が求めることを知り、いのちの道がどこにあるかを知ること、これがイスラエルの喜びであり、イスラエルに与えられた大きな誉れでした。それはまたわたしたちの喜びでもあります。神のみ旨は、わたしたちを疎外するのではなく、たとえ苦しい場合があるにせよ、わたしたちを清めてくれます。それゆえ、それはわたしたちを自分自身へと導いてくれるのです。こうして、わたしたちは神に仕えるだけでなく、全世界と、歴史全体の救いに役立つものとなります。
 さらに、パリウムのもつ象徴的な意味はもっと具体的です。小羊の毛は、見失った病気の羊、あるいは弱い羊を表します。羊飼いはこのような羊を肩に背負い、いのちの水のあるところまで運びます。教父たちにとって、羊飼いが荒れ野で羊を捜すという、見失った羊のたとえは、キリストと教会の神秘を表しました。わたしたち一人ひとりを含めた、人類は、荒れ野で見失われ、道に迷った羊です。神の子は羊を迷ったままにしておきません。神の子は、人類をみじめな状態に置かれたまま放置することができないのです。主は立ち上がり、天の栄光を捨てて、羊を捜しに出かけ、十字架に至るまで、羊を捜し続けます。主は羊を肩に担ぎます。こうして主は、わたしたち人類を担ってくださいます。主はわたしたち皆を担ってくださいます。主は、羊のために自分のいのちを捨てる、よい羊飼いだからです。
 パリウムが何よりもまず示しているのは、わたしたち皆が、キリストに担われているということです。しかし、パリウムは同時に、互いに担い合うようにとわたしたちを招きます。そこからパリウムは、羊飼いの使命を表すしるしとなるのです。この使命について、第2朗読と福音が述べています。牧者はキリストの聖なる熱意に力づけられなければなりません。牧者は、多くの人びとが荒れ野で暮らしていることに無関心でいることができません。また、荒れ野にも多くの種類のものがあります。
 貧しさによる荒れ野もあれば、飢えと渇きによる荒れ野、遺棄や、孤独、愛の失敗からくる荒れ野もあります。神が見いだせないことによる荒れ野、自分の尊厳や人生の目標が感じられない、心の空しさからくる荒れ野もあります。内的な意味での荒れ野があまりにも広大であるがゆえに、外的な意味での世の荒れ野が広がっています。
 そのため、地上の富は、もはやすべての者が暮らすための神の庭を築くために用いられるのではなく、搾取と破壊を行う権力のために用いられています。全教会とその牧者たちは、キリストのように、民を荒れ野から連れ出し、いのちの地、神の子との友愛、わたしたちにいのちを与える唯一のかた、あふれるいのちへと導くように努めなければなりません。

神の忍耐強さによるあがない

 小羊というしるしも深い意味をもっています。古代中近東では、王たちが自分の民の羊飼いの装いをするのが習慣となっていました。それは彼らの権力を表す、皮肉な象徴でした。王にとって、臣民は、羊飼いが意のままに用いることのできる羊のようなものだったのです。全人類の羊飼いである、生ける神が小羊となったとき、神は、しいたげられ、殺される小羊の側に立ちました。こうして神は、自分がほんとうの羊飼いであることを現されたのです。「わたしはよい羊飼いである。・・・・わたしは羊のためにいのちを捨てる」(ヨハネ10・14-15)。わたしたちをあがなうのは、権力ではなく、愛です。これが神のしるしです。神ご自身が愛だからです。
 わたしたちは、神がご自身の力を示し、決定的な一撃をもって、悪を滅ぼし、よりよい世界を造ってほしいと、どれほどしばしば望むことでしょうか。あらゆる権力思想はまさにこのようなしかたで自らを正当化します。そこでは人類の進歩と解放を妨げるならば何でも破壊することが正当化されるのです。わたしたちは神の忍耐強さのゆえに苦しんでいます。にもかかわらず、わたしたちは神の忍耐強さを必要としています。小羊となられた神は、世が救われるのは十字架につけられたかたによるのであって、彼を十字架につけた者によるのでないと、わたしたちに語るからです。世は、神の忍耐強さによってあがなわれます。世を破壊するのは、人間の性急さなのです。
 羊飼いの基本的な性格の一つは、自分に委ねられた民を愛することでなければなりません。もちろん彼は、自分が仕えるキリストを愛しています。キリストはペトロにいいました。「わたしの羊を飼いなさい」。そして今、キリストはそのことばをわたしにもいっておられます。「飼う」とは「愛する」ことを意味します。そして、「愛する」とは苦しむ準備ができていることを意味します。「愛する」とは、ほんとうによいものを羊に与えることを意味します。すなわちそれは、神の真理、神のことばで養うこと、神の現存によって養うことです。その現存を、神は聖なる秘跡によってわたしたちに与えてくださいます。
 親愛なる友人の皆様。このときにあたって、わたしがいえるのは、このことだけです。わたしのために祈ってください。わたしが主をよりいっそう愛することを学ぶことができるように。わたしのために祈ってください。わたしが主の群れをよりいっそう愛することを学ぶことができるように。主の群れとは、いいかえれば、皆様であり、聖なる教会であり、皆様の一人ひとりであり、皆様すべてのことです。わたしのために祈ってください。わたしが狼を恐れて逃げ出すことのないように。互いに祈り合いましょう。主がわたしたちを担ってくださり、わたしたちが互いに担い合うことを学べるように。

疎外から神の光へ
 ペトロの奉仕職の開始を表すために、今日の典礼で用いられる二番目のしるしは、漁夫の指輪の授与です。福音書で読まれた、牧者となるようにというペトロへの呼びかけは、不思議な漁(すなど)りの話の後に行われます。網を降ろしても何もとれなかった夜が明けてから、弟子たちは復活した主が岸におられるのを見ます。主は弟子たちに、もう一度網を打つようにいいます。すると、網はいっぱいになって、引き上げることができませんでした。網は153匹もの大きな魚でいっぱいでした。「それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」(ヨハネ21・11)。
 イエスの弟子たちとの地上での歩みの最後に語られるこの話は、地上での歩みの最初の話に対応しています。そこでも、弟子たちは一晩中かかって何もとることができませんでした。そこでも、イエスはシモンを招いて、もう一度沖に漕ぎ出すようにいわれます。すると、まだペトロと呼ばれていなかったシモンは、驚くべき答えをします。「先生、おことばですから、網を降ろしてみましょう」。その後、シモンにその使命が与えられます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5・1-11)。
 今日も、教会と使徒たちの後継者たちは、歴史の海の沖に漕ぎ出して、網を降ろすように命じられています。それは、人びとを、福音へと――神と、キリストと、まことのいのちへと、導くためです。
 教父たちは、このただ一つの任務について、きわめて意義深い注解を行っています。彼らはこういっています。水に住むように造られた魚にとって、海から引き上げられ、人間の食べ物として用いるために、生存のために不可欠な水から引き離されることは、死を意味します。しかしながら、漁師の使命においては、その逆のことが真理となります。わたしたちは疎外された状況の中に、苦しみと死をもたらす海水の中に生きています。わたしたちは、光の失われた闇の海の中で生きているのです。福音の網は、わたしたちを、死をもたらす水から引き上げ、神の光の輝きの中へ、まことのいのちへと、わたしたちを導きます。このことは、実際に真実です。人間をとる漁師となるという、この使命を与えられてキリストに従うとき、わたしたちは、人びとを、さまざまな形の疎外という塩の味のついた海から連れ出し、彼らをいのちの地、神の光へと導くからです。このことは、真実です。わたしたちの人生の目的は、人びとに神を示すことだからです。そして、神が目に見えるようになってはじめて、ほんとうの意味での人生が始まります。キリストのうちに生ける神と出会ってはじめて、わたしたちは生きるとはどういうことであるかを知るのです。
 わたしたちは、進化の結果、偶然に生まれた、無意味な産物のようなものではありません。わたしたち一人ひとりは、神のはからいに基づいて生まれたのです。わたしたち一人ひとりは、神から望まれ、愛され、必要とされています。福音に驚きを感じること、キリストと出会うこと以上にすばらしいことはありません。キリストを知ること、わたしたちがキリストの友であることを、人に語ること以上にすばらしいことはありません。牧者の務め、人間をとる漁師の務めは、骨の折れるものだと考えられることが多いかもしれません。しかし、それはすばらしく、崇高な務めです。なぜなら、それはほんとうの意味で、喜びに奉仕すること、世の中に入ることを望んでいる、神の喜びに奉仕することだからです。

一致への招き、勇気あるあかし
 ここで付け加えたいことがあります。羊飼いの姿も、漁師の姿も、ともに、一致への招きをはっきりと示すものです。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10・16)。これは、よい羊飼いについての話の終わりに、イエスが述べたことばです。153匹の大きな魚の話も、次のような喜ばしいことばで締めくくられています。「それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」(ヨハネ21・11)。
 ああ、愛する主よ、わたしたちは今、悲しい思いで、網が破れていることを認めなければなりません。けれども、わたしたちは悲しんでいてはいけません。主が与えられた、失望に終わることのない約束のゆえに、わたしたちは喜ぼうではありませんか。そして、主が約束された、一致へと至る道のりを歩むために、なしうるすべてのことをしようではありませんか。このことを、わたしたちが主にささげる祈りの中でも、心にとめましょう。わたしたちは主に願い求めます。そうです、主よ、あなたがなさった約束を思い起こしてください。わたしたちが一人の羊飼いのもとに、一つの群れとなることができるようにしてください。あなたの網が破れないようにしてください。わたしたちが一致に仕えるしもべとなれますように、助けてください。
 今このときにおいて、わたしは、1978年10月22日の、教皇ヨハネ・パウロ二世がその奉仕をこのサンピエトロ広場で始めたときのことを思い起こします。教皇がそのとき述べたことばは、わたしの耳につねにこだましています。「恐れるな。キリストに向けて扉を開きなさい」。
 教皇は、この世で権勢と権力をもつ人びとに呼びかけました。彼らは、もし自分たちがキリストを迎え入れ、信仰の自由を認めたならば、キリストが自分たちの権力の一部を取り上げるのでないかと恐れていました。そうです、キリストは彼らから奪うに違いありませんでした。腐敗した支配を、ほしいままに行動するために法と自由を操作することを。しかし、キリストは、人間の自由や尊厳、あるいは公正な社会の建設に関わることがらは、何一つ奪うことはありませんでした。
 教皇はまた、すべての人びとに、とりわけ若者たちに語りかけました。もしかすると、わたしたちは皆、ある意味で恐れているのではないでしょうか。もしキリストが自分たちの人生に完全に入ってくることを許し、自分自身をキリストに向けて完全に開いたならば、キリストがわたしたちから何かを取り去るのではないかと、わたしたちは恐れているのではないでしょうか。もしかすると、わたしたちは、大事なこと、かけがえのないこと、人生をすばらしいものにしてくれることを、あきらめるのを、恐れているのではないでしょうか。それゆえ、わたしたちは、ついには自分たちの自由が制限され、奪われることになる危険を冒しているのではないでしょうか。
 そしてふたたび、教皇はいいます。そうではありません。キリストを自分たちの人生の中に受け入れても、わたしたちは何も失いはしません。人生を自由で、すばらしく、崇高なものにしてくれるものを、絶対に、何も失うことはありません。そうです。キリストと友になることによってはじめて、わたしたちの人生の扉は大きく開かれるのです。キリストと友になることによってはじめて、人間の存在に秘められた大きな力が、ほんとうの意味で明らかになるのです。キリストと友になることによってはじめて、わたしたちは美と、解放された自由を経験することができるのです。
 そこで今日、わたし自身の長い人生経験に基づいて、力強く、深い確信をもって、親愛なる若者の皆様に申し上げます。キリストを恐れないでください。キリストは何も奪うことはありません。また、キリストは皆様にすべてのものを与えてくださいます。自分自身をキリストにささげるなら、わたしたちは百倍を受けます。そうです、キリストに向けて、大きく、大きく、扉を開きなさい。そうすれば、皆さんはまことのいのちを見いだすでしょう。アーメン。

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