教皇ベネディクト十六世 ワールド・ユース・デー・ケルン大会中の神学生との集会における演説

2005年8月19日(金)午後5時から、ケルンの聖パンタレイオン教会で、教皇ベネディクト十六世は、神学生との集会を行いました。聖パンタレイオン教会は、10世紀に修道院として建てられた、ロマネスク様式の教会です。集会には世 […]

2005年8月19日(金)午後5時から、ケルンの聖パンタレイオン教会で、教皇ベネディクト十六世は、神学生との集会を行いました。聖パンタレイオン教会は、10世紀に修道院として建てられた、ロマネスク様式の教会です。集会には世界の神学生2,000名が参加しました。集会では、晩の祈りが行われた後、神学生、司祭、司教がそれぞれ一人ずつ、これまでの自分の召命の道についてのあかしを行いました。あかしを行った司祭は、カザフスタンのアレクサンダー・フィックス神父、司教は、カナダのケベック大司教のマルク・ウーレット枢機卿です。その後、教皇の演説が行われました。
以下に訳出するのは、集会で行われた教皇の演説の全文です。教皇の演説は、ドイツ語、フランス語、英語、イタリア語、スペイン語で行われました。翻訳には、演説で用いられた言語を底本として用いています。


親愛なる司教職と司祭職にある兄弟の皆様。
親愛なる神学生の皆様。
 盛大な歓迎をしてくださった皆様に、心からの愛情と感謝をこめてご挨拶申し上げます。特に、皆様が、五大陸の多くの国から来てくださったことに感謝いたします。わたしたちは、ここでほんとうに、全世界のカトリック教会の姿を目のあたりにしています。
 わたしは特に、個人的なあかしをしてくださった、神学生、司祭、司教のかたがたに感謝申し上げます。今伺った、皆様の通られた道は、感動的なものだったと申し上げなければなりません。主はこのかたがたを、予期せぬしたかたで、また彼らの計画によらずに、司祭職に導かれたからです。
 心から感謝いたします。この集まりをもつことができたことをうれしく思います。これはすでにいわれていたことですが、わたしは、このケルンでの数日間の予定の中に、若い神学生たちとの特別な集会を入れなければならないと望みました。それは、召命がもつ意味を、この機会に実際に目に見えるように示すためでした。召命は、ワールド・ユース・デーの中で、ますます重要な役割を果たしてきているからです。雨さえも、天から降って、わたしたちを祝福してくれているようです。
 若い神学生の皆様は、キリストとの個人的な関係を築き、キリストと出会うために、貴重な時間をささげながら、教会の重要な任務を果たす準備をしておられます。実際、これこそ神学校が意味することです。神学校とは、場所ではなく、イエスの弟子として過ごす生涯の中の、重要な時間のことなのです。
 皆様の心の中には、この第20回ワールド・ユース・デーのテーマとなっていることばが鳴り響いていることでしょう。「わたしたちはイエスを拝みに来たのです」。また、占星術の学者たちがイエスを捜し求め、見いだした、感動的な物語全体も、皆様の心の中で鳴り響いていることでしょう。三人の学者はそれぞれ――わたしたちが今聞いたばかりの、三つのあかしのことを思い起こしてみたいと思います――、星を見て、旅立ちました。彼らは暗闇を通りながらも、神の導きによって、目的地にたどり着くことができました。
 福音書に記された、占星術の学者たちが、イエスを探して、見いだした物語は、神学生の皆様にとって、特別な意味をもっています。なぜなら、皆様は、司祭職への召し出しを識別し――それはほんとうの意味での旅だといえます――、確認するために歩んでおられるからです。このことについて、すこし考えてみたいと思います。(以上、ドイツ語。以下、フランス語)

キリストを見いだすために旅立つ

 どうして占星術の学者たちは、遠くの地から、ベツレヘムへと旅立ったのでしょうか。その答えは、神秘的な「星」にあります。彼らはこの星を「東方で」見ました。そして彼らは、この星が「ユダヤ人の王」の星だとわかりました。すなわち、それは、メシアが生まれたことを示すしるしでした(マタイ2・2参照)。だから、彼らは、強い希望に力づけられて旅しました。星はこの希望をさらに強めました。そして、彼らを「ユダヤ人の王」へと、神である王そのものへと導きました。これが、わたしたちの歩む旅の意味です。すなわち、それは、世にあって、神である王に仕えることなのです。
 占星術の学者たちは、大きな望みに促されて旅立ちました。それで、彼らはすべてのものを捨て、旅立つことができたのです。彼らは、常にこの星を待ち望んでいたかのように思われます。あたかも、この旅は彼らの運命にはじめから刻み込まれていたもので、それがついに実現したかのようです。
 親愛なる友人の皆様。これが、招かれるということの神秘です。これが、召命の神秘です。この神秘は、すべてのキリスト信者にいえることです。けれどもこの神秘は、キリストとしっかりと結ばれながら、キリストに従うために、すべてを捨てるようにとキリストに招かれた人のうちに、何よりもはっきりと示されるのです。
 神学生がこの招きのすばらしさを体験するのは、「恋に落ちる」ともいうべき、恵みの瞬間においてです。彼の魂は驚きに満たされます。そこで彼は、祈りのうちにこういわないではいられません。「主よ、なぜわたしなのでしょうか」。けれども、愛には「なぜ」ということがありません。愛は無償のたまものです。わたしたちはそれに、自らをささげることをもって答えるのです。(以下、英語)
  神学校で過ごす期間、行われるのは、養成と識別です。ご存知の通り、養成にはさまざまな要素がありますが、その中心にあるのは、人格の統合です。この統合は、人間的、霊的、また文化的な次元で行われます。人格の統合が最終的にめざしているのは、神学生が、神を深く知るようになることです。この神は、イエス・キリストのうちにそのみ顔を示されました。
 そのために、聖書を深く学ぶことが必要です。また、教会の信仰と生活を学ぶことも必要です。聖書は、教会のうちに、いのちのことばとして住まうからです。こうした学習は、理性から生じる問いと、現代の生活がもつ広い文脈とに、関連づけられなければなりません。
 こうした勉学は、骨が折れるものだと思われることもあるかもしれません。けれども、勉学は、わたしたちがキリストと出会ったことにとって、また、キリストを告げ知らせるように招かれた、わたしたちの召命にとって、不可欠な部分をなすものです。こうした勉学の目的は、堅固でつりあいのとれた人格を形成することです。このような人格が、司祭の務めをしっかりと受け止め、また責任をもって果たすことができるのです。
 養成担当者の役割は、何よりも重要です。部分教会における司祭職の質のよしあしは、神学校の質のよしあしにかかっています。したがって、それは、養成責任者の質にかかっています。

重要な「春」の時代としての神学校生活

 親愛なる神学生の皆様。それゆえにこそ、わたしたちは今日、この集まりの場に霊的なかたちで参加しておられる、皆様の上長、教授、教員のかたがたに心から感謝をささげます。彼らが、委ねられた重要な務めをできる限り果たすことができるように、助けてくださるよう、主に願いましょう。
 神学校で過ごす期間行われるのは、旅と探究です。けれども、何よりそこで行われることは、キリストの発見です。青年は、自らキリストを経験してこそ、はじめて、真の意味で主のみ旨を理解し、したがって、自らの召命を理解することができるのです。
 皆様がイエスを知れば知るほど、イエスの神秘は皆様を引き寄せます。皆様がイエスを見いだせば見いだすほど、皆様はイエスを求めるように促されます。これが霊によって動かされるということです。この動きは、生涯にわたって続くものです。また、この霊の動きによって、神学校で過ごす時間は、大きな実りを約束し、また、真の意味での「春」となるのです。(以下、イタリア語)
 ベツレヘムに着いた占星術の学者たちが、「家に入ってみると、幼子は母マリアとともにおられた。彼らはひれ伏して幼子を拝んだ」(マタイ2・11)。ついに、待ち望んでいた時が来ました。彼らは、イエスと出会ったのです。
 「家に入ってみると」。この家は、ある意味で、教会を表しています。救い主と出会うには、家に、すなわち教会に入らなければなりません。
 神学校で過ごす期間、若い神学生の意識の中で、成熟という、きわめて重要なことが行われます。神学生は、教会を「外から」見るのではなく、それにいわば「内側から」触れるようになります。教会は、神学生の「家」です。なぜなら、教会は、「母マリア」が住む、キリストの家だからです。
 神学生に、その幼子イエスを示すのは、マリアです。マリアは神学生を幼子に紹介し、ある意味で神学生に幼子を見せ、触らせ、その腕に抱かせます。マリアは神学生に、イエスを心の目で観想すること、またイエスによって生きることを教えます。
 神学校生活のあらゆる瞬間、わたしたちは、聖母がわたしたちとともにおられることを、愛をこめて体験することができます。聖母は、神学生の一人ひとりを、沈黙のうちに行われる黙想、祈り、そして兄弟愛のうちに、キリストとの出会いに導きます。マリアは、何よりも感謝の祭儀において、わたしたちが主と出会うのを助けてくださいます。感謝の祭儀において、主は、みことばと聖別されたパンによって、わたしたちの日ごとの霊的な糧となるからです。(以下、スペイン語)

聖性の秘密

 「彼らはひれ伏して幼子を拝み、・・・・黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」(マタイ2・11-12)。旅はその頂点に達します。出会いは礼拝となります。出会いは、さらに信仰と愛のわざとなります。この信仰と愛は、マリアから生まれたイエスのうちに、人となった神の子を認めるからです。
 この占星術の学者たちのしたことは、シモン・ペトロや他の使徒たちの信仰を、前もって示しているのではないでしょうか。それは、パウロやすべての聖人の信仰、とりわけ、教会の二千年の歴史の中で輝く、多くの神学生と司祭の聖人たちの信仰を、前もって示しているのではないでしょうか。
 聖性の秘密は、キリストを友として愛し、キリストのみ旨に忠実に従うことのうちにあります。聖アンブロジオはこういっています。「キリストは、わたしたちのすべてです」。聖ベネディクトも、いかなるものもキリストへの愛より優先させないようにと、いましめています。
 キリストが、皆様のすべてとなりますように。親愛なる神学生の皆様。何よりも皆様は、皆様にとっていちばん大切なものを、キリストにささげてください。教皇ヨハネ・パウロ二世が、世界青年の日のメッセージでこういっている通りです。皆様の自由という黄金を、熱心な祈りという乳香を、深い愛という没薬をささげましょう(「2005年世界青年の日のメッセージ」4参照)。(以下、ドイツ語)
 神学校は、宣教の準備を行う時期です。占星術の学者たちは、「自分たちの国へ帰っていった」。そして、彼らはきっと、自分たちがユダヤ人の王と出会ったことをあかししたにちがいありません。
 皆様も、神学校で長く必要な養成を受けた後、キリストの奉仕者として叙階されるために、派遣されます。皆様の一人ひとりは、「キリストの代理者」として、人々のもとへ帰っていきます。
 占星術の学者たちは、故郷に帰る旅の途中で、きっと、危難や労苦を味わい、道に迷い、疑いを抱いたことでしょう。彼らを導いた星は、消えていたからです。いまや彼らは、自分の心の中に光を携えていました。彼らは、この光を守り、育まなければなりませんでした。そのために、彼らは常にキリストを思い起こしました。その聖なるみ顔と、その言い表しえないほどの愛を思い起こしたのです。
 親愛なる神学生の皆様。神が望まれるならば、いつの日か、皆様もまた、聖霊の聖別を受けて、宣教を始められることでしょう。イエスのことばをいつも思い出してください。「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15・9)。皆様がキリストに結ばれ、キリストとともに、キリストのうちにとどまるならば、キリストが約束された通り、皆様は豊かに実を結ぶでしょう。あなたがたがキリストを選んだのではありません。わたしたちはこのことを、先ほどのあかしの中で聞いたばかりです。キリストがあなたがたを選んだのです(ヨハネ15・16参照)。
 これが、皆様の召命と派遣の秘密です。この秘密は、原罪の汚れなきマリアのみ心のうちに守られています。マリアは皆様の一人ひとりを、母としての愛をもって見守ってくださいます。いつも、信頼をもって、マリアにより頼みましょう。
 わたしは皆様を愛し、毎日皆様のために祈ります。心から、皆様すべてに、わたしの祝福を与えます。

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