教皇ベネディクト十六世の 『啓示憲章』発布40周年記念国際会議参加者への挨拶

以下に訳出したのは、教皇ベネディクト十六世が2005年9月16日に、カステル・ガンドルフォ教皇公邸において、『啓示憲章』発布40周年記念国際会議参加者との謁見に際して行った挨拶の全文です。同国際会議は、教皇庁キリスト教一 […]

以下に訳出したのは、教皇ベネディクト十六世が2005年9月16日に、カステル・ガンドルフォ教皇公邸において、『啓示憲章』発布40周年記念国際会議参加者との謁見に際して行った挨拶の全文です。同国際会議は、教皇庁キリスト教一致推進評議会とカトリック聖書連盟の共催で、9月14日から18日までローマで開催されました。会議のテーマは「教会生活における聖書」です。会議には世界98か国から400名が参加し、日本からも髙見三明大司教のほか、司祭と信徒計5名が参加しました。
 この挨拶の中で、教皇は、「霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)」という伝統的な方法によって、聖書と祈りを結びつけることを提案しています。霊的読書は、古代の教父のオリゲネス(185頃-254年頃)にさかのぼり、後に修道生活の実践の中心となりました。聖パコミオス(290頃-346年)、聖アウグスチヌス(354-430年)、大聖バジリオ(330頃-79年)、聖ベネディクト(480頃-547/60年頃)などの修道規則でも、霊的読書と手作業と聖務日課が修道生活の根本に位置づけられています。霊的読書は、聖書の読書(研究)、黙想、祈り、観想という4つの段階に分けられます。最初に霊的読書を4段階に分けて考察したのは、12世紀のカルトゥジア会の修道士グイゴ(1193年頃没)の著書『修道院生活者の梯子(はしご)』だといわれます。なお、「レクチオ・ディヴィナ」については、ロッシ・デ・ガスペリス「神のことばを祈る」(『神学ダイジェスト』56号[1984年]43-53頁)という記事がありますので、一読をお勧めします。
 教皇の挨拶はイタリア語で行われましたが、翻訳は、イタリア語原文を参照しながら、教皇庁の発表した公式の英語訳を底本としました。


枢機卿の皆様
司教職と司祭職にある敬愛すべき兄弟の皆様
親愛なる兄弟姉妹の皆様

 「教会生活における聖書」に関する会議に参加された皆様に、心からのご挨拶を申し上げます。本会議は、『啓示憲章』発布40周年を記念するために、カトリック聖書連盟と教皇庁キリスト教一致推進評議会が開催したものです。第2バチカン公会議のもっとも重要な文書の一つと関連して、この会議が開催されたことを喜ばしく思います。
 枢機卿と司教の皆様にご挨拶申し上げます。皆様は先頭に立って、神のことばをあかしするからです。神学者の皆様にご挨拶申し上げます。皆様は、神のことばを研究・解釈し、現代のことばに翻訳してくださるからです。司牧者の皆様にご挨拶申し上げます。皆様は神のことばの中に、現代のさまざまな問題の適切な解決を見いだそうとしておられるからです。
 聖書の翻訳と普及のために奉仕しておられる、すべての皆様に心より感謝いたします。皆様は、聖書のメッセージを説明し、教え、解釈する手段を提供してくださるからです。それに関連して、わたしはカトリック聖書連盟の活動に対して、特別に感謝申し上げたいと思います。皆様は聖書のための奉仕職を推進し、教導職の指針を忠実に守り、聖書の分野でのエキュメニカルな協力に対して心を開いてくださっているからです。
 わたしは、東方教会と西方教会のさまざまな教会・教会共同体に属する、カトリック教会以外の代表の皆様が、この会議に参加してくださっていることをたいへんうれしく思います。また、世界の大宗教の代表者の皆様に対しても、心からの尊敬の念をこめてご挨拶申し上げます。
 わたしは、若年の神学者だったとき、『啓示憲章』が起草されるのを自ら目の当たりにしました。わたしはこの文書をめぐって行われた活発な討議に参加したからです。『啓示憲章』は、次のたいへん意味深いことばで始まります。「神のことばをうやうやしく聞き、確信をもって宣(の)べるにあたり、聖なる公会議は・・・・(Dei Verbum religiose audiens et fidenter proclamans, Sacrosancta Synodus …)」(『啓示憲章』1)。このことばによって、公会議は、教会がいかなるものであるかを指摘しています。すなわち、教会とは、神のことばを聞き、宣べ伝える共同体なのです。
 教会は、自分だけで生きることはできません。教会は福音によって生きています。また、教会は、自らが歩んでいく方向を、福音のうちに、常に、そして新たに見いだします。あらゆるキリスト信者は、次のことを肝に銘じ、また、自らにあてはめなければなりません。まずみことばを聞く者が、みことばを告げ知らせる者となりうるのです。実際、キリスト信者は、自分の知恵を教えるのではなく、神の知恵を教えなければなりません。神の知恵は世から見れば愚かなものに見えることもしばしばだからです(一コリント1・23参照)。
 教会は、聖書の中にキリストが生きておられることをよく知っています。それゆえにこそ、『啓示憲章』が述べているように、教会は、主のからだを敬うのと同じように、常に聖書を敬ってきました(『啓示憲章』21参照)。だから、この公会議文書が引用しているように、聖ヒエロニモは、「聖書を知らないことは、キリストを知らないことである」といったのです(『啓示憲章』25参照)。
 教会と神のことばは、分かちがたく結ばれています。教会は神のことばによって生かされています。また、神のことばは、教会によって、教会の教えを通して、また教会生活全体の中に響きわたります(『啓示憲章』8参照)。それゆえ使徒ペトロは、聖書に述べられたいかなる預言も、個人の解釈に委ねてはならないといういましめを、わたしたちに与えています。「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、けっして人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からのことばを語ったものだからです」(二ペトロ1・20)。
 わたしたちは、『啓示憲章』の影響のおかげで、近年、神のことばの根本的な重要性があらためて深く再評価されるようになったことを、神に感謝したいと思います。そこから、教会生活の刷新が行われてきました。この刷新は、特に説教、信仰教育、神学と霊性において、さらにはエキュメニカルな対話においても行われています。教会はたえず刷新され、若返らなければなりません。神のことばは、老いることも衰えることもありません。だから、神のことばは、教会を若返らせるための最高の手段となります。まことに、神のことばこそが、聖霊によって、常にわたしたちを真理全体へと導くのです(ヨハネ16・13参照)。
 これに関連して、わたしは何よりも「霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)」という古代の伝統を思い起こし、また勧めたいと思います。祈りとともに聖書を熱心に読むことにより、内的な対話が生まれます。この対話の中で、聖書を読む人は神が語ることばを聞きます。また、その人は、祈りのうちに、開かれた信頼の心をもって、神に答えます(『啓示憲章』25参照)。こうした実践を効果的なしかたで推進するなら、わたしは、それが教会に新しい霊的な春をもたらすことを確信しています。それゆえ、聖書への奉仕職において、霊的読書に重点を置くことをますます奨励しなければなりません。またそのために、新たな方法も用いることができます。その際、新しい方法は、注意深く検討され、時代に合ったものとしなければなりません。神のことばは、わたしたちの足の灯(ともしび)であり、わたしたちの歩みを照らす光であることを、けっして忘れてはなりません(詩編119・105参照)。
 わたしは、皆様の活動、ご計画、皆様が参加しておられるこの会議の上に、神の祝福がありますように祈り求めます。そしてわたしも、皆様を生かしている希望にあずかりたいと思います。地の果てに至るまで、「主のことばが、速やかに宣べ伝えられますように」(一テサロニケ3・1参照)。こうして、救いが宣べ伝えられるのを聞いて、全世界が信じ、信じて希望し、希望して愛するようになりますように(『啓示憲章』1参照)。心から皆様に感謝申し上げます。

PAGE TOP