教皇ベネディクト十六世の世界代表司教会議第11回通常総会開会ミサ説教

2005年10月2日(日)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世司式の下、世界代表司教会議第11回通常総会開会ミサが行われました。ミサは55名の枢機卿、7名の総大司教、123名の司教、40名の司祭、37名の専門家、4名のオブザーバーが共同司式しました。以下に訳出するのは、教皇がミサで行った説教の全文です(原文はイタリア語)。
10月2日は年間第27主日で、聖書朗読箇所は、イザヤ5・1-7、フィリピ4・6-9、マタイ21・33-43でした。


 今日の主日に読まれた、イザヤ書と福音書の箇所は、聖書の中のもっとも偉大なたとえを述べています。すなわち、ぶどう畑のたとえです。
 聖書の中で、パンは、人が日々の生活で必要とするすべてのものを表します。水は地を豊かにします。水は、それなしには生きていけない、もっとも大切な恵みです。これに対して、ぶどう酒は、被造物のすばらしさを表します。ぶどう酒によって、わたしたちは日常生活の範囲を超えた宴(うたげ)を祝うことができます。ぶどう酒は「人の心を喜ばす」のです。
 こうして、ぶどう酒とぶどうの木はまた、愛のたまものを表すたとえとなりました。愛のたまものによって、わたしたちはある意味で神を味わうことができます。そこで、今読まれた預言書の箇所は、愛の賛歌で始まります。神はぶどう畑を造りました。ぶどう畑のたとえで表されているのは、神が人類を愛した歴史であり、また、神がご自分の選んだイスラエルを愛した歴史です。
 今日の朗読を聞いて、最初に考えるのはこのことです。神は、ご自分にかたどって造られた人に、愛する能力を与えました。すなわち、造り主である神を愛する能力を与えました。イザヤ書の愛の賛歌によって、神はその民の心に、また、わたしたち一人ひとりに、こう語りかけようと望んでおられます。神はいいます。「わたしは、わたしにかたどり、わたしに似せて、あなたを造った。わたしは愛である。それゆえ、あなたが、あなたのうちに愛を輝かせ、愛をもってわたしに答えるなら、あなたはわたしのかたどりとなる」。
 神はわたしたちに期待しています。神は、わたしたちに愛してもらうことを望んでおられます。そのような呼びかけが、わたしたちの心を動かさないでいられるでしょうか。わたしたちは感謝の祭儀を行い、この感謝の祭儀の中で、聖体についてのシノドスを開始します。まさに今このときに、神はわたしたちと会いに来ておられます。わたしと会いに来ておられます。神は答えてもらえるでしょうか。それとも、わたしたちは、神がイザヤ書の中で述べている、ぶどう畑のようになるのでしょうか。「わたしの愛する者は・・・・よいぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」。わたしたちの生き方は、もしかすると、多くの場合、ぶどう酒ではなく、酢なのではないでしょうか。わたしたちは、自分への憐れみや、争いや、無関心のうちに生きているのではないでしょうか。

酸っぱいぶどう酒と、よいぶどう酒

 そこから、わたしたちは、今日の朗読によって、二番目に、次の重要なことを考えます。今日の朗読箇所は、何よりも、神がいつくしみをもって創造を行ったこと、また、神が大いなる選びによって、わたしたちを探し求め、わたしたちを愛してくださったことを語っています。けれども、同時に、その後の歴史で起こったことも語られます。すなわち、人間が犯した過ちです。
 神はよく選んだぶどうを植えましたが、実ったのは酸っぱいぶどうでした。酸っぱいぶどうとは何のことでしょうか。イザヤはいいます。神が期待していた、よいぶどうは、正義と公正を表します。これに対して、酸っぱいぶどうは、暴力と、流血と、圧政です。圧政により、民は不正のくびきをかけられて、叫び声を上げます。
 福音書では、別のたとえが語られます。ぶどう畑はよいぶどうを実らせますが、それを守っているのは、雇われた農夫たちです。農夫たちはよいぶどうを主人に収めようとしません。彼らは主人が送ったしもべたちをたたき、殺すばかりか、主人の息子まで殺してしまいます。農夫たちの望みは単純です。彼らは主人になりたかったのです。彼らは自分たちのものでないものを自分のものにしたのです。
 旧約でまず述べられるのは、社会正義を侵すこと、人が人をないがしろにすることへの非難です。しかしながら、もっと深く考えてみると、律法、すなわち、神が与えた法をないがしろにする態度の裏には、神そのものをないがしろにしようとする態度があります。そこには、ただ、権力を手にしたいという望みだけがあります。イエスのたとえ話の中で、このことがよく述べられています。農夫たちは主人に仕えることを望みませんでした。そして、この農夫たちの姿は、わたしたちを映す鏡でもあります。わたしたち人間は、わたしたちが管理するよう委ねられた被造物を奪い取っているからです。
 わたしたちは独占的な所有者となることを望んでいます。わたしたちは、世界と自らの人生を、無制限に所有したいと望んでいます。神はわたしたちにとって邪魔な存在となります。神を敬っても、それはことばの上にすぎません。公共生活から神を追放して、神を完全に無視することさえあります。こうして、神はもはや意味をもたなくなります。個人の意見としてのみ神を語ることを認め、公共の領域、すなわち現実世界とわたしたちの実生活において神を許容しないような寛容は、寛容でなく、偽善にすぎません。
 人間が世界の唯一の所有者となり、自己の唯一の主人となるなら、そこにはいかなる正義もありえません。権力と利益を手にする者だけが、支配することになるからです。実際に、地上の収穫をわがものとするために、農夫たちは息子をぶどう園からほうり出して殺さなければなりませんでした。けれども、その後、ぶどう園はすぐに不毛の地となり、森の猪(いのしし)に荒らされます。答唱詩編が述べている通りです(詩編80・14)。

最終的に与えられる、神の約束

 そこから、わたしたちは、今日の朗読が述べている、三つ目の点を考えてみたいと思います。旧約でも新約でも、主は、自分に逆らうぶどう畑に裁きを与えると告げます。イザヤが預言した裁きは、アッシリア人とバビロニア人による激しい戦争と捕囚によって実現しました。主イエスが告げた裁きは、何よりも、70年に起こったエルサレムの破壊を指しています。
 けれども、わたしたちヨーロッパの教会、西方教会全体も、裁きを受けることを心配しなければなりません。福音の中で、主がわたしたちの耳に呼ばわるのは、主が黙示録の中で、エフェソにある教会にあてて述べる、次のことばです。「もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」(黙示録2・5)。わたしたちは、光までも取り去られることがありうるのです。だから、わたしたちはこの警告を心の中で真剣に受け止める必要があります。同時に、わたしたちは、主に向かってこう叫ばなければなりません。「わたしたちが回心できるように、助けてください。ほんとうの意味で新たにされる恵みをわたしたちに与えてください。わたしたちの中にある光を消し去らないで下さい。わたしたちの信仰、希望、愛を強めてください。わたしたちがよい実を結べるようにしてください」。
 ここで、次の疑問がわきます。「今日の朗読箇所と、福音には、約束も、慰めのことばもないのだろうか。いわれているのは、裁きへの恐れだけなのだろうか」。そうではありません。主は約束しておられます。そして、その約束こそが、わたしたちに述べられた、もっとも重要なことです。アレルヤ唱では、こういわれています。これは、ヨハネによる福音書からとられたことばです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15・5)。
 この主のことばによって、ヨハネはわたしたちに、神のぶどう畑の話のほんとうの意味での最終的な結末を明らかにします。すなわち、神が敗れることはないということです。最後に神は勝利を得ます。愛が勝利するのです。今日読まれた福音で述べられるぶどう畑のたとえ話でも、その結びのことばの中に、そのことが隠されたかたちで暗示されています。はっきりとそう書かれてはいませんが、この話は息子の死で終わっていません。イエスは、詩編からとられた新しいたとえを用いて、この息子の死について述べるからです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(マタイ21・42、詩編118・22)。
 息子の死から、新しいいのちが生まれ、新しい家、新しいぶどう畑が造られます。主はカナで、水をぶどう酒に変えました。主はご自分の血をまことの愛のぶどう酒に変えました。このようにして、主はぶどう酒をご自分の血に変えられます。二階の広間で、主の死が先取られました。主はきわみまで愛しつくすわざを通して、その死を、自己を与えるたまものへと変えました。主の血は、主が与えたたまものです。このたまものは、愛にほかなりません。だから主の血は、造り主が待ち望んでいた、まことのぶどう酒なのです。こうして、キリストご自身がぶどう畑となりました。このぶどう畑は、常によい実を結びます。その実とは、わたしたちに与えられたキリストの不滅の愛が、わたしたちとともにとどまるということです。

永遠の愛の宴

 たとえで語られたこれらのことばが、ついには聖体の神秘のうちに一つにまとまります。聖体によって、主は、いのちのパンと、ご自身の愛のぶどう酒をわたしたちに与えます。そして主は、わたしたちを永遠の愛の宴に招きます。わたしたちは、感謝の祭儀を行うとき、この感謝の祭儀のために、御子の死が代価としてささげられたことを思います。すなわち、主のいのちがいけにえとしてささげられました。この主のいのちのいけにえが、聖体の中に現存し続けているのです。わたしたちは、このパンを食べ、この杯を飲むたびごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのだと、パウロはいっています(一コリント11・26参照)。
 しかしながら、わたしたちはまた、この死からいのちが生まれたことを知っています。イエスが、ご自身をささげるわざによって、この死を愛のわざに変えたからです。イエスは死を根底から変えました。愛が死に打ち勝ったのです。聖なる聖体によって、主は十字架から、すべての人をご自分のもとへ引き寄せます(ヨハネ12・32)。こうして主は、わたしたちを、ぶどうの木の枝に変えます。このぶどうの木とは、主ご自身です。もしわたしたちが主に結ばれたままでいるなら、わたしたちも実を結ぶでしょう。こうしてわたしたちはもはや、自己満足の酢になることも、神とその被造物に不平を鳴らす酢となることもありません。わたしたちは、神の喜びに生きるよいぶどう酒、隣人を愛するよいぶどう酒になるからです。
 主が恵みを与えてくださるよう祈りましょう。これから始まる三週間のシノドスにおいて、わたしたちが聖体について美しいことを語るだけでなく、聖体の力に生かされて生きることができますように。親愛なるシノドス参加司教の皆様。マリアを通して恵みが与えられるように、祈り求めましょう。皆様と、皆様が派遣され、代表しておられるさまざまな共同体の皆様に対して、心からの愛をこめてご挨拶申し上げます。わたしたちが聖霊のわざに従って、キリストのうちに、キリストとともに、世が神の実り豊かなぶどうの木へと変わる手助けをすることができますように。アーメン。

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