教皇ベネディクト十六世のワールド・ユース・デー・ケルン大会閉会ミサ説教

2005年8月21日(日)午前10時から、ケルン郊外のマリエンフェルトで、教皇ベネディクト十六世の司式により、ワールド・ユース・デー・ケルン大会閉会ミサが行われました。ミサには100万人の青年が参加しました。以下に訳出するのは、教皇の説教の全文です。教皇の説教は、ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語で行われました。翻訳は、説教で用いられた言語を底本としています。


親愛なる友人である青年の皆様。
 イエスは、わたしたちのために、聖なるホスチアのうちにパンとなって、わたしたちを支え、養ってくださいます(ヨハネ6・35参照)。昨晩、わたしたちは、この聖なるホスチアの前で、内なる礼拝の旅を歩み始めました。聖体のうちに、礼拝は一致とならなければなりません。
 ヨハネによる福音書のことばを使えば、わたしたちは感謝の祭儀において、イエスの「時」の中にいます。聖体によって、このイエスの「時」が、わたしたち自身の「時」となります。イエスはわたしたちのただ中に来られるのです。イエスは、弟子たちとともにイスラエルの過越祭を祝いました。過越祭は、神の行った解放のわざを記念する祭りです。このわざによって、イスラエルは奴隷の状態から自由へと導かれました。イエスは、イスラエルの典礼のやり方に従いました。イエスは、パンの上に、賛美と祝福の祈りを唱えました。
 けれども、その後、新しいことが起こります。イエスは、過去に行われた偉大なわざについてだけ、神に感謝したのではありませんでした。イエスは、十字架と復活によって、自分が高く上げられることについても感謝します。また、イエスは、律法と預言者の全体をまとめた、次のことばを弟子たちに語ります。「これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである。この杯は、わたしの血による新しい契約である」。それから、イエスはパンと杯を弟子たちに与えて、自分の記念として、自分が述べたこと、また、したことを、繰り返し行うよう命じました。
 何が起こっているのでしょうか。イエスはどのようにして、自分のからだと血を与えることができるのでしょうか。
 イエスが、パンを自分のからだに変え、ぶどう酒を自分の血に変えることによって、イエスの死は先取られます。イエスは死を受け入れ、死を愛のわざに変えたのです。十字架は、外から見れば、野蛮な暴力にしか見えません。しかしそれが、内的な意味で、自分のすべてを与えつくす愛のわざとなります。これが、最後の晩餐で実際に起きた変化にほかなりません。そして、この変化が、一連の変革を引き起こしていきました。この変革は、世界の変革が起こるまで、すなわち、神がすべてにおいてすべてとなられるまで、行われます(一コリント15・28参照)。

世を新たにするもの

 すべての人は、いつも心のうちに、なんらかのしかたで世界が変わること、世界が変革されることを待望しています。ところで、唯一、世界を真の意味で新たにできるのは、このような、中心的な変革のわざだけです。暴力は愛に変わり、こうして死がいのちへと変わるからです。
 このわざは、死を愛に作り変えます。だから、死は内側から乗り越えられ、死のうちに復活が来るのです。いわば、死は、瀕死の痛手を負って、もはや勝利を得る見込みがありません。
 この変化は、存在の中心における核分裂のようなものです。それは、憎しみに対する愛の勝利、死に対する愛の勝利です。このような、悪を乗り越える、内なるいつくしみの爆発のみが、一連の変革を引き起こし、それが、世界を徐々に変えていくことができるのです。
 これ以外の変化はみな、表面的なものにとどまり、救いとなりません。だから、わたしたちは、あがないについて語るのです。わたしたちが心の底から必要としていたことが、実際に起こりました。それで、わたしたちは、この出来事にあずかることができるようになりました。イエスは自分のからだを与えることができます。それは、イエスがほんとうにご自身をささげたからです。(以上ドイツ語。以下、英語)
 暴力を愛に変え、死をいのちに変えた、この最初の根本的な変化から、他の変化が生じてきます。パンとぶどう酒は、イエスのからだと血になりました。しかし、変化はそれで終わってはいけません。変化の動きは、力を増していかなければなりません。わたしたちは、キリストのからだと血を与えられます。そこから、わたしたち自身が変化します。わたしたちが、キリストのからだとならなければなりません。わたしたちが、キリストの肉と血とならなければならないのです。
 わたしたちはみな、一つのパンを食べます。それは、わたしたちが一つになるためです。こうして、はじめに述べたように、礼拝は一致となります。もはや神は、まったくの他者として、わたしたちの前におられるのではありません。神はわたしたちのうちにおられ、わたしたちも神のうちにいます。神の力は、わたしたちを貫き、人々へと広がり、世界を満たそうとしています。こうして、神の愛は、真の意味で世界を治める基準となることができるのです。

キリストの「時」に入る

 最後の晩餐から始まった、この新しい歩みを、「礼拝」ということばのギリシア語とラテン語における意味の違いから、明らかにしてみたいと思います。ギリシア語で「礼拝」を表すことばは、「プロスキュネーシス」(proskynesis)です。このことばは、服従すること、すなわち、神を真の意味で基準と認めることを意味します。この基準は、わたしたちが従うべき規範を与えます。それゆえ、自由とは、完全な自律のもとに生活を楽しむことだけではありません。自由とは、むしろ真理と善の基準に従って生きることです。こうして、わたしたちは、真実でいつくしみ深い者となることができます。わたしたちは、はじめは自由を求めて、逆らいたくなるかもしれません。けれども、このように生きることが必要なのです。
 このような生き方を完全な意味で受け入れるために、わたしたちは第二の段階に踏み出さなければなりません。この第二の段階を、最後の晩餐はわたしたちに示しています。ラテン語で礼拝を表すことばは「アドラチオ」(ad-oratio)です。アドラチオとは、口と口を合わせること、口づけすること、抱擁すること、つまり、愛することを意味します。服従は一致となります。なぜなら、わたしたちが従うかたは、愛であるかただからです。こうして、服従は意味のあるものとなります。なぜなら、服従するということは、わたしたちに外から何かを命じるのではなく、わたしたちを心の底から解放してくれるからです。(以下、フランス語)
 もういちど最後の晩餐に戻りましょう。最後の晩餐で生み出された新しい要素は、昔から唱えられていたイスラエルの祝福の祈りに、深い意味が与えられたことです。このときから、この祝福の祈りは聖変化のことばとなりました。この聖変化によって、わたしたちはキリストの「時」にあずかることができるようになったのです。イエスはわたしたちに、過越の食事を繰り返すようにとは命じませんでした。そもそも過越の食事は、記念祭なので、好きなときに繰り返して行うことができないからです。イエスがわたしたちに命じたのは、イエスの「時」に入るようにということです。
 わたしたちは、聖別のことばがもつ聖なる力によって、このイエスの「時」に入ります。聖別において、賛美の祈りは聖変化を引き起こします。賛美の祈りは、わたしたちを、イスラエルと救いの歴史全体とに結びつけます。同時にこの祈りは、わたしたちを、この古くからある祈りが根本的にめざしていた、新しい姿へとわたしたちを導きます。
 この新しい祈り――教会はそれを「感謝(エウカリスチア)の祈り」と呼びます――が、聖体(エウカリスチア)を制定します。力あることばによって、大地から得られたたまものは、まったく新たなしかたで、神ご自身が与えるささげものに変わります。また、わたしたちも、この変化へと導き入れられます。だから、わたしたちは、ここで行われるわざを「エウカリスチア」と呼ぶのです。「エウカリスチア」は、ヘブライ語の「ベラカー」の訳です。「ベラカー」は、感謝、賛美、祝福、そしてまた、主が始められた変化を意味します。この変化とは、主の「時」の到来のことです。イエスの時とは、愛が勝利を収めた時です。いいかえれば、神が勝利を収められたということです。なぜなら、神は愛だからです。
 イエスの時は、わたしたちの時となることを望んでいます。そして、感謝の祭儀によって、わたしたちが、主がもたらそうと望んでいる変化の過程へと進んで導き入れられるならば、イエスの時は、実際にわたしたちの時となります。聖体は、わたしたちの生活の中心とならなければなりません。
 教会がわたしたちに、感謝の祭儀は日曜日の一部をなすものだというとき、そのことばは、独断によっていわれたものでも、教会が権力をもつことを望んでいわれたものでもありません。復活の朝、まず婦人たちが、次に弟子たちが、主に会う恵みを与えられました。そのときから彼らは、週の初めの日、すなわち日曜日が、主の日、キリストの日であることを知りました。創造のわざが始められた日は、被造物が新たにされる日となりました。創造とあがないは、同時に行われます。だから、日曜日は重要な意味をもつのです。
 現代、多くの文化圏において、日曜日は休日であり、また、多くの場合、土曜日とともに、自由に過ごせる「週末」となっています。それは、よいことです。しかしながら、もし神がそこにいなければ、この自由な時間は空虚なものとなります。
 

わたしたちに目的を与える、日曜日

 親愛なる友人の皆様。時として、日曜の予定の中にミサを含めることが、最初のうちは不愉快に思われるかもしれません。けれども、皆様は、ミサに積極的にあずかることによって、日曜日こそ、自由な時間のちょうど中心となるものであることがおわかりになるでしょう。
 どうか、進んで日曜のミサにあずかってください。また、人が日曜のミサを再発見する助けとなってください。それは、感謝の祭儀が、わたしたちがもっとも必要としている喜びを解き放つからです。そして、わたしたちは、感謝の祭儀をいっそう深く理解しなければなりません。わたしたちは、感謝の祭儀を好きにならなければなりません。
 ミサにあずかる努力をしてみようではありませんか。それは、努力するだけの価値のあることです。教会の典礼がもつ、内的な豊かさと、その真のすばらしさを見いだそうではありませんか。わたしたちのためにミサをささげているのは、わたしたちではありません。生ける神ご自身が、わたしたちのために会食を整えてくださるのです。
 感謝の祭儀を愛することによって、皆様はゆるしの秘跡をも再発見することでしょう。ゆるしの秘跡を通じて与えられる、神のあわれみ深いいつくしみにより、わたしたちは常に、新しい生活に向けて再出発することができるからです。(以下、イタリア語)
 キリストを再発見した人はみな、人をキリストへと導かなければなりません。大きな喜びを、自分だけのものにしておくことはできません。喜びは、人に伝えなければならないのです。
 現代世界の多くのところでは、不思議なことに、神が忘れられています。神がいなくても、何も変わらないかのように考えられています。
 けれどもまた、人は、誰に対しても、また、すべてのことについて、いらだちと、不満を感じています。
 人々はこう叫んでいるかのようです。「人生がこのようなものであるはずはない」。実際、人生がそのようなものであるはずがありません。また、神の忘却とともに、ある種の宗教が流行しています。わたしはこの現象のさまざまな形態をすべて批判するつもりはありません。こうした発見にも真の意味での喜びがあるのかもしれません。しかしながら、それを突きつめるならば、宗教はあたかも消費財のようになってしまいます。人は自分の好みのものを選び、人によってはそこから益を得ることもできるでしょう。
 けれども、「自己流」のやり方に基づいて作られた宗教は、最終的にわたしたちを助けてくれるものではありません。それは便利なものかもしれませんが、わたしたちが危機に遭ったとき、それはわたしたちを助けてはくれないのです。
 わたしたちに道を示してくれる、ほんとうの星を見つけられるように、人々を助けてください。その道とは、イエス・キリストです。キリストをより深く知るように、努めようではありませんか。そうすれば、わたしたちは確信をもって、人をキリストへと導くことができるようになります。

聖書と『カトリック教会のカテキズム』

 だから、聖書を大事にすることが重要なのです。それゆえに、また、教会の信仰を知ることも大事なのです。教会の信仰は、わたしたちに聖書の意味を解き明かしてくれるからです。聖霊は、教会を導いてその信仰を成長させ、真理を深く悟らせます(ヨハネ16・13参照)。
 教皇ヨハネ・パウロ二世は、何世紀にわたって受け継がれてきた信仰を総合的に説明する、すばらしい著作をわたしたちに与えてくださいました。すなわち、『カトリック教会のカテキズム』です。わたし自身も、最近、『カトリック教会のカテキズム綱要』を発布しました。これは、亡き教皇ヨハネ・パウロ二世の指示で作られたものです。この二冊の基本的なテキストを、皆様すべてにお勧めしたいと思います。(以下、スペイン語)
 いうまでもなく、書物だけでは十分ではありません。信仰に基づいた、共同体を築かなければなりません。
 最近の数十年間に、さまざまな運動団体や共同体が生まれました。そこでは、人々が、福音の力をはっきりと感じています。信仰の交わりを求めてください。わたしたちは、あの大いなる旅路を、ともに歩み続けようとしている、旅の仲間だからです。この旅路を、わたしたちに最初に示してくれたのは、東方から来た占星術の学者たちです。新しい共同体が自発的に活動するのは、大事なことです。しかし、教皇や司教との交わりを保つこともまた、大切です。教皇と司教は、わたしたちが個人的な道を歩もうとしているのではなく、大きな神の家族として生きていることを保証します。この家族は、主が、十二使徒を通じて設立されたものです。(以下、ドイツ語)
 再び、わたしは聖体に戻らなければなりません。聖パウロは、こういっています。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つのからだです」(一コリント10・17)。このことばによって、パウロがいおうとしたのは、次のことです。わたしたちは同じ主を与えられ、また、主はわたしたちを集めて、ご自分へと引き寄せてくださった。だから、わたしたちも互いに一つなのだと。
 けれども、わたしたちはこのことを、生活の中で示さなければなりません。わたしたちは、互いにゆるし合えることを通じて、このことを示さなければなりません。わたしたちは、人が必要とすることを感じとれる心を通じて、このことを示さなければなりません。わたしたちは、進んでものを分かち合うことを通じて、このことを示さなければなりません。わたしたちは、隣人に奉仕することを通じて、このことを示さなければなりません。わたしたちは、近くにいる人にも、遠く離れた人にも、奉仕します。遠くにいる人も、わたしたちの隣人だからです。
 今日、互いへの奉仕として、さまざまな形のボランティア活動が行われています。これらの活動は、わたしたちの社会で緊急に必要とされています。たとえば、わたしたちは、孤独な高齢者を放置してはなりません。人が苦しんでいるのを見ながら、知らぬ顔をしてはなりません。キリストのように考え、また生きるなら、わたしたちの目は開かれます。わたしたちは、もはや自分のことだけ考えて生きるのをやめます。そして、どこで、また誰が、自分を必要としているかがわかるのです。
 このように生き、また行動するなら、すぐにわたしたちは、安楽に過ごすことだけ考えているよりも、自分が人の役に立ち、人が自分を使ってくれることのほうが、はるかにすばらしいことであることに気づきます。
 青年の皆様が、大きな望みを抱いておられること、よりよい世界を作るために働きたいと望んでおられることを、わたしは知っております。人々にその望みを見せてあげてください。世界にそのことを見せてあげてください。このようなあかしこそ、世がイエス・キリストの弟子に期待している、あかしです。そして、何よりもまず、皆様の愛が示すしるしによって、世は、わたしたち信者が従う星を見いだすことができるのです。
 キリストとともに進んでいきましょう。そして、ほんとうの意味で神を礼拝しながら、生きていこうではありませんか。アーメン。

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