教皇ベネディクト十六世の初聖体を受けた子どもたちとの集会でのカテケジス

教皇ベネディクト十六世は、10月15日(土)午後6時から、サンピエトロ広場で、初聖体を受けた子どもたちとの集会を司式しました。この集会は、今年初聖体を受けたか、受ける予定の子どもたちを招いて行われたものです。集会のテーマ […]

教皇ベネディクト十六世は、10月15日(土)午後6時から、サンピエトロ広場で、初聖体を受けた子どもたちとの集会を司式しました。この集会は、今年初聖体を受けたか、受ける予定の子どもたちを招いて行われたものです。集会のテーマは「天のパン」です。この集会の開催は、今年6月12日の「お告げの祈り」のことばの中で、教皇によって発表されました。この機会に、この「お告げの祈り」のことばも、本ホームページ上に訳出・掲載しています。
集会には、子ども10万人が、またその家族とカテキスタ、小教区主任司祭などを含めると、計15万人が参加しました。
集会では、聖書朗読に続いて、7名の子ども(男子4名、女子3名)が教皇に質問を行い、教皇がそれらの質問に一つひとつ答えました。集会は、聖体礼拝で締めくくられました。
以下に訳出したのは、子どもたちの質問と、これに答えて行われた教皇のカテケジスの全文です(原文はイタリア語)。なお、訳文は、小学生でも読めるように、漢字を少なくし、適宜、ふりがなを振っていることをお断りします。


 

1 アンドレア「親愛(しんあい)なる教皇様。あなたの初聖体(はつせいたい)の日のことを覚えておられますか」。

 まず、皆様がこの信仰の祭典(さいてん)を開催(かいさい)してくださり、ここに喜んで集まってくださったことに感謝申し上げたいと思います。皆様にご挨拶(あいさつ)申し上げるとともに、今、皆様の一人から受けた抱擁(ほうよう)にも感謝したいと思います。この抱擁が、皆様全員を代表して象徴的(しょうちょうてき)な意味で行われたものであることは、いうまでもありません。
 今の質問について申し上げますと、もちろん、わたしが初聖体を受けた日のことはよく覚えています。それは69年前の1936年3月の、すてきな日曜日でした。よく晴れていて、教会がとてもきれいに見えました。音楽も流れていました。ほんとうにたくさんのすばらしいことがあったのを覚えています。わたしたちは30人ほどでした。それは、500人足らずの人しか住んでいない、わたしの小さな村の、男の子と女の子でした。
 けれども、わたしのうれしく、また、すてきな思い出の中心にあったものは、このことでした。それは、今日、代表者のかたがおっしゃったのと同じことです。わたしには、イエスがわたしの心の中に入ってこられたこと、イエスがほんとうにわたしのところに来てくださったということが、わかったのです。また、イエスと一緒に、神ご自身も、わたしとともにいてくださいました。それでわたしは、これが愛のたまものだということがわかりました。このたまものは、人生(じんせい)が与えてくれる他のどのようなものよりも、ほんとうの意味で価値(かち)のあるものです。
 ですから、初聖体の日に、わたしはほんとうに、うれしくてしかたありませんでした。なぜかというと、イエスがわたしのところに来てくださったからです。そしてわたしは、わたしの人生の新しい段階(だんかい)が始まったことがわかりました。わたしはそのとき9才でした。それ以来(いらい)、わたしは、この聖体拝領(せいたいはいりょう)をとおして与えられた、イエスとの出会いに、忠実(ちゅうじつ)でいることを大事にするようになりました。わたしは、わたしにできるかぎりのやりかたで、主にこう約束しました。「わたしは、いつもあなたとともにいたいと望みます」。また、わたしはこう祈りました。「でも、何よりも、あなたがわたしとともにいてください」。それで、わたしはそのように生きてきました。神の助けによって、主は、どんなにむずかしいことがあっても、いつもわたしの手をとって導いてくださったからです。
 こうして、わたしの初聖体の日は、イエスとともに歩む、わたしの人生の歩みの始まりともなりました。どうか皆様にとっても、この聖体年(せいたいねん)に皆様が受けた初聖体が、イエスとの一生変わらない友情の始まりとなり、また、イエスとともに歩む旅の始まりとなりますように。なぜならば、イエスとともに歩むなら、わたしたちはうまく歩むことができますし、よい人生を送ることもできるからです。

2 リヴィア「教皇様。初聖体を受ける前に、ゆるしの秘跡(ひせき)を受けました。わたしは別のときにもゆるしの秘跡を受けたことがあります。教皇様にお聞きしたいのです。聖体拝領をするときには、いつでもゆるしの秘跡を受けなければならないのですか。同じ罪を犯しているときでも、ゆるしの秘跡を受けなければいけませんか。なぜかというと、わたしはいつも同じ罪を犯しているように思えるからです」。

 二つのことを申し上げたいと思います。一番目に申し上げたいのは、このことです。もちろん、聖体拝領をする前に、いつでもゆるしの秘跡を受けなければならないということはありません。ゆるしの秘跡を受けなければならないような、重大(じゅうだい)な罪を犯している場合(ばあい)は別ですが。ですから、聖体拝領をする前に、かならずゆるしの秘跡を受ける必要(ひつよう)はありません。これが第一にいいたいことです。ゆるしの秘跡を受けなければならないのは、ほんとうに重い罪を犯したときや、イエスに深く背(そむ)くようなことをしたときだけです。つまり、あなたがイエスともっていた、友だちとしての関係(かんけい)がこわれて、もういちどやりなおさなければならなくなったときです。大罪(だいざい)を犯したとき、いいかえると、重い罪を犯したときにだけ、聖体拝領を受ける前にゆるしの秘跡を受けなければなりません。これが第一にいいたいことです。
 二番目に申し上げたいのは、このことです。いまいったとおり、聖体拝領を受ける前にかならずゆるしの秘跡を受けなければならないということはありません。けれども、そうであっても、ある程度(ていど)定期的(ていきてき)にゆるしの秘跡を受けるのは、役に立ちます。おっしゃったとおり、わたしたちはいつでも同じ罪を犯します。でも、ごみはいつも同じですが、わたしたちは、少なくとも週に一度は、家や部屋のそうじをします。それは、きれいなところに住むためです。やりなおすためです。もし、そうじをしなければ、ごみは目には見えなくても、たまっていきます。同じようなことが、心にもいえます。わたしにもいえます。もし一度もゆるしの秘跡を受けなければ、心のことがおろそかになります。すると、いつでも自己満足(じこまんぞく)してしまい、自分がいつもよくなるように努力(どりょく)しなければならないこと、自分が進歩(しんぽ)しなければならないことを、忘れてしまうでしょう。ゆるしの秘跡によって、イエスは、わたしたちの心をきれいにしてくださいます。わたしたちの心がきれいになると、わたしたちの良心(りょうしん)はもっと注意(ちゅうい)深くなりますし、もっといろいろなことに気づくようになります。それで、わたしたちはもっと大人の心をもてるようになり、また、人間らしくなることができます。
だから、二つのことを申し上げました。ゆるしの秘跡を受けなければならないのは、重い罪を犯したときだけです。でも、定期的にゆるしの秘跡を受けるのはよいことです。それは、心をきれいで美しいものにするため、また、わたしたちが毎日、大人として成長していけるためです。

3 アンドレア「初聖体の勉強をしていたとき、カテキスタの先生が、イエスが聖体の中におられるとおっしゃいました。でも、どうやってイエスは聖体の中におられるのですか。わたしはイエスを見ることができません」。

 ええ、わたしたちはイエスを見ることができません。でも、目に見えなくても、存在(そんざい)する、大事なものがたくさんあります。たとえば、わたしたちは自分の頭の中を見ることができません。でも、わたしたちは考えています。わたしたちは知能(ちのう)を見ることができませんが、わたしたちは知能をもっています。ようするに、わたしたちは心を見ることができません。でも、心は存在します。そして、心が働いているのがわかります。なぜなら、わたしたちは、話したり、考えたり、なにかを決めることができるからです。また、たとえば、わたしたちは電流を見ることができません。でも、わたしたちには電流が存在することがわかります。ここにはマイクがあって、マイクから音が出ています。また、ここには照明(しょうめい)もあります。
 ですから、ほんとうの意味でわたしたちの生活と、わたしたちが住んでいる世界を支えている、いちばん大事なものを見ることはできません。けれでも、わたしたちには、その働きを知ることも感じることもできます。それは電気にもいえます。電流は見ることができませんが、照明は目に見えます。
 復活(ふっかつ)した主も、同じです。わたしたちは復活した主を、目で見ることはできません。けれども、イエスがおられれば、かならず、人びとが変わること、また、よくなっていくことは、わかります。イエスがおられれば、かならず、人びとは平和を築(きず)き、仲直(なかなお)りすることが、もっとできるようになるからです。ですから、わたしたちは、主ご自身を見ることはできませんが、主の働きを見ることができるのです。そこから、わたしたちは、イエスがおられることがわかります。そして、今いったとおり、目に見えないものこそ、いちばん大事なものなのです。だから、この、目に見えないけれども、力のある主と出会いましょう。主は、わたしたちがよく生きることができるように助けてくださるかただからです。

4 ジュリア「教皇様。だれでも、わたしに、日曜日にミサに行くことは大切だといいます。わたしたちは喜んでミサに行きます。でも、両親は、日曜日は寝ていたいからといって、ほとんどの場合、いっしょにミサに行ってくれません。日曜日に、友だちの両親は店で働いています。また、うちの家族は、よく日曜日に、いなかのおじいちゃん・おばあちゃんの家に行きます。両親に一言いっていただけないでしょうか。日曜日にいっしょにミサに行くのが大切だということを、両親にわからせていただけないでしょうか」。

 あなたがご両親を愛し、敬(うやま)えばこそ、日曜日にいっしょにミサに行きたいと考えるのも当然のことと思います。ただ、ご両親にもやらなければならないことがたくさんあるのも、たしかです。それでも、娘としての尊敬(そんけい)と愛情をもって、ご両親にこうおっしゃることができるのではないでしょうか。「お父様、お母様。イエス様のところに行くことは、わたしにとっても、お父様とお母様にとっても、大切なことです。イエス様のところに行けば、わたしたちは豊かになります。イエス様のところに行くのは、生活の大切な一部です。いっしょに、ちょっとでも、ミサに行く時間を作りましょう。なんとかすれば、ミサに行けると思います。おばあちゃんの住んでいるところでも、ミサにあずかれるかもしれません」。かんたんにいうなら、わたしはこう申し上げたいのです。ご両親を愛し、敬いながら、ご両親に、こう申し上げたいと思います。「どうかご理解ください。これは、わたしにとってのみ大切なことではありません。また、これは、カテキスタだけがいっていることでもありません。ミサは、わたしたち皆(みな)にとって大切です。ミサは、日曜日の光として、わたしたち家族全員を照らしてくれるのです」。

5 アレッサンドロ「ミサにあずかり、聖体拝領を受けることは、ぼくたちの毎日の生活にとってどのように役に立つのでしょうか」。

 ミサにあずかり、聖体拝領を受けることによって、わたしたちは生活の中心を見いだすことができます。わたしたちはたくさんのものに囲まれて生きています。教会に行かない人は、自分たちにまさにイエスが欠けていることを知らずにいます。けれども、彼らは自分たちの生活に何かが足りないことを感じています。神がわたしの人生にいなければ、どうなるでしょう。イエスがわたしの人生にいなければ、どうなるでしょう。イエスは、わたしを導くかただからです。わたしになくてはならない友だからです。人生の大切な喜びだからです。わたしを人間として成長させ、わたしが悪い習慣(しゅうかん)に打ち勝ち、人間として大人になるための力となるかただからです。
 ですから、イエスとともに過ごし、聖体拝領を受けることによって、どういう効果(こうか)があるかを、ただちに知ることはできません。けれども、何週間がたち、何年が過ぎたのちに、わたしたちは、神がともおられないこと、イエスがともにおられないことを、日増(ひま)しにはっきりと感じるようになります。神がいないことは、とても重大(じゅうだい)で、破壊的(はかいてき)な影響(えいきょう)を及(およ)ぼします。何年ものあいだ無神論(むしんろん)が支配(しはい)した国々のことをかんたんに思い出すことができます。そこでは、どれだけ心も大地も破壊されたことでしょうか。このことから、聖体拝領を受けて、イエスに養っていただくことが、大切なことがわかると思います。それは、何よりも大切なことだといってもよいと思います。わたしたちを照らし、わたしたちの人生を導いてくだるのは、イエスです。イエスは、必要なときにわたしたちを導いてくださいます。

6 アンナ「親愛なる教皇様。イエスは弟子たちに『わたしはいのちのパンである』といわれました。イエスがこのことばで何をいおうとしていたかを、教えていただけますでしょうか」。

 まずはじめに、パンとは何かを、はっきりと説明(せつめい)しなければならないでしょう。現代(げんだい)のわたしたちは、おいしい料理(りょうり)や、さまざまな種類(しゅるい)の食べ物を食べています。けれども、もっと素朴(そぼく)な食事をしているところでは、パンは、食べ物の基本(きほん)です。イエスがご自分のことを「いのちのパン」といわれたとき、「パン」は、すべての食べ物を、一言(ひとこと)で簡単(かんたん)に表しているといってよいでしょう。また、わたしたちは生きていくために、からだのために食事をとらなければなりません。同じように、わたしたちは、心のためにも、つまり、魂(たましい)や、何かをやりとげる意志(いし)のためにも、食事をとる必要があります。わたしたち人間には、からだだけでなく、心もあります。わたしたちは、知能と意志を使って、ものを考える存在(そんざい)だからです。心と魂も食事をしなければなりません。心と魂が成長して、ほんとうの意味で満たされるためです。だからイエスはこういわれたのです。「わたしはいのちのパンである」。それはこういう意味(いみ)です。イエスご自身が、わたしたちが自分の魂と、わたしたちの内(うち)なる心が必要としている、かてを与えてくださいます。なぜなら、心も食事をとらなければならないからです。たとえどんなにそれが重要(じゅうよう)であっても、科学技術(かがくぎじゅつ)が作り出すものだけでは足りません。わたしたちはほんとうに、神がわたしたちの友となってくださることを必要としています。友となってくださった神に助けられて、わたしたちは正しい決断(けつだん)をすることができるからです。わたしたちは人間として大人になる必要があります。いいかえると、イエスは、わたしたちが大人になるため、わたしたちがよく生きることができるために、わたしたちにかてを与えてくださるのです。

7 アドリアーノ「教皇様。今日は聖体礼拝(せいたいれいはい)をすると聞きました。聖体礼拝とは何ですか。どうやって行うのですか。教えていただけますでしょうか。ありがとうございます」。

 直接(ちょくせつ)に、「礼拝」とは何か、「礼拝」とはどうやって行うかを考えてみたいと思います。なぜなら、わたしたちはすべてのことを、礼拝するためにふさわしく準備(じゅんび)するからです。わたしたちは祈りをとなえ、聖歌(せいか)を歌い、ひざまずきます。これらのことをすることを通じて、わたしたちはイエスのみ前に近づきます。
 もちろん、あなたのなさった質問にもっと深い意味で答えなければなりません。どうやって礼拝をするかだけでなく、礼拝とは何かについて、答えなければなりません。こういうことができると思います。礼拝するとは、イエスがわたしの主であると認めることです。イエスが、わたしの歩むべき道を示してくださるかたであると認めることです。そして、イエスが示す道を知り、イエスが示す道を歩むことによって、はじめてわたしはよく生きることができるのだと、認めることです。
 ですから、礼拝するとは、このようにいうことです。「イエスよ、わたしはあなたのものです。わたしはあなたに従って生きていきます。わたしはけっして、あなたとのこの友情を、あなたとのこの交わりを失いたくありません」。こういうこともできると思います。礼拝するとは、何よりも、イエスを抱いて、イエスにこう申し上げることだと。「わたしはあなたのものです。あなたにお願いいたします。どうかいつもわたしとともにいてください」。

(集会の終わりに教皇が述べたことば:)
 親愛なる少年少女の皆様。親愛なる兄弟姉妹の皆様。このきわめてすばらしい集会の終わりに、わたしが申し上げたいのは、この一言だけです。感謝します。
 この信仰の祭典のために、感謝します。
 わたしたちが互いに、またイエスとともに集まれたことを、感謝します。
 そして、いうまでもなく、この集会を開催できるようにしてくださったすべてのかたがたに、感謝します。カテキスタ、司祭、修道女の皆様、そして皆様すべてに、感謝します。
 最後に、すべての典礼の最初で使われることばを繰り返して、皆様に申し上げます。「皆様に平安がありますように」。主が皆様とともにいてくださいますように。皆様に喜びがありますように。こうして、人生がすばらしいものとなりますように。
 よい日曜日をお過ごしください。おやすみなさい。主とともに、ごきげんよう。ほんとうに有難うございます。

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