教皇ベネディクト十六世の23回目の一般謁見演説 フィリピ2

10月26日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の23回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4主日の前晩の祈りで用いられる、フィリピの信徒への手紙の賛歌(朗 […]

10月26日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の23回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4主日の前晩の祈りで用いられる、フィリピの信徒への手紙の賛歌(朗読個所はフィリピ2・6、9-11)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には50,000人の信者が参加しました。
フィリピの信徒への手紙の賛歌は、今年6月1日に行われた、ベネディクト十六世の6回目の一般謁見演説で、その前半が取り上げられています。なお、演説の中で述べられる、この賛歌における下降と上昇という二つの動きについて触れているのは、ヨハネ・パウロ二世がこの賛歌について行った一般謁見演説です(2003年11月19日と2004年8月18日の一般謁見演説を参照)。
「お告げの祈り」の後、最後にイタリア語で行われた祝福の中で、教皇は、ロザリオの月の終わりにあたり、次のように述べました。「聖なるロザリオにささげられた10月が終わろうとしています。わたしは、皆様が、この伝統的にキリスト信者の民が唱えてきた祈りを、敬虔な心をもって唱えてくださるように招きます。教会と世界が必要としているたくさんのことのため、特に、地震の被害を受けた人、自然災害によって身体的にも身の回りのことでも被害を受けた人のために祈りましょう。わたしたちが困難な状況にある人々に十分な霊的な支援と物質的な支援を行うことができますように」。


 

1 さまざまな詩編や賛歌を用いて行われる、教会の祈りの晩の祈りに従って、今日は再び、驚くべき、また重要な賛歌が唱えられました。この賛歌は、フィリピの信徒への手紙の中に聖パウロが挿入したものです(フィリピ2・6-11)。
 わたしたちは以前に、このテキストが、下降と上昇という二つの動きを含むということを申し上げました。キリスト・イエスは、まず、ご自分が本性としてもっておられた神性の栄光の身分から、へりくだって、「十字架の死」に至るまで降りていくことを選びます。こうしてイエスは、ご自分がまことの人でありながら、わたしたちのあがない主であることを示します。イエスは、悲しみと死というわたしたちの現実を、真の意味で、また完全なしかたで引き受けたからです。

2 二番目の、上昇の動きは、キリストの過越の栄光を現します。この栄光は、キリストの死後、神の御稜威(みいつ)の栄光のうちに、再び現れるからです。
 御父は、受肉と受難によって示された御子の従順のわざを受け入れ、いまや彼を「高く上げ」ます。ギリシア語本文に書いてあるとおりです。キリストが高く上げられたことは、キリストが神の右の座に着くことによってだけでなく、また、キリストに「あらゆる名にまさる名」(9節)が与えられることによって表されます。
 さて、聖書で用いられる「名」ということばは、ある人物の真の本質と、特別な役割を表します。「名」はその人の内面の奥深くにあるあり方を表すのです。愛によって、死に至るまでへりくだった御子に、御父は比類のない地位を与えます。すなわち、「主」という高い「名」です。この名は、神自身の名なのです。

3 実際、天上のものも、地上のものも、地下のものも、ひざまずき、声を合わせて、はっきりと信仰を告白します。「イエス・キリストは主である」(11節)。ギリシア語で、イエスは「キュリオス」であるといわれています。「キュリオス」は明らかに王を意味する称号です。このことばは、ギリシア語訳聖書では、モーセに示された神の名、すなわち、口にすることのできない聖なる名を指しました。
 したがって、一方では、イエス・キリストが万物を支配する主であることが認められます。だから彼は、足元にひざまずくすべての被造物からたたえられます。しかしながら、他方で、キリストは神の姿、神の身分であるという信仰が宣言されます。そこから、彼が礼拝を受けるのにふさわしいことが示されるのです。

4 この賛歌では、肉となったみことばが真の人間であることよりも(ヨハネ1・14参照)、人をつまずかせる十字架のことが述べられます(一コリント1・23参照)。この十字架は、復活の出来事と組み合わされ、復活の出来事で頂点に達します。自らをいけにえとするほど従順だった御子に答えて、御父は御子に栄光を与えます。人間も被造物もこれに合わせて御子をたたえます。キリストが唯一のかたなのは、キリストの役目が、あがなわれた世界の主であることだからです。世は、キリストの「死に至るまで」の従順のゆえに、キリストによってあがなわれました。この救いの計画は、御子によって完全に実現します。そこで、信じる者は、何よりも典礼によって、この救いの計画を告げ知らせ、その実りを味わうよう招かれます。
 これが、このキリスト賛歌がわたしたちをそこへと導く目的なのです。教会は、この賛歌を、何世紀にもわたって黙想し、歌い、人生の導きとしてきました。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」(フィリピ2・5)。

5 この賛歌について、ナジアンズの聖グレゴリオが知恵に満ちたしかたで書いた考察に耳を傾けたいと思います。この4世紀の偉大な教会博士は、キリストをたたえる詩の中で、こう述べています。イエス・キリストは「その神的本性のいかなる部分も脱ぎ捨てることがありませんでした。にもかかわらず、彼は悪臭を放つ傷に身をかがめてそれを癒し、わたしを救ってくださいました。・・・・彼はダビデの子孫でしたが、アダムを造られたかたです。彼は肉となられましたが、肉体と関わりをもちませんでした。彼は母から生まれましたが、その母はおとめでした。彼は限りある存在でしたが、無限なかたでもありました。彼は飼い葉桶の中に置かれましたが、星が占星術の学者たちを導きました。占星術の学者たちは、贈り物を携えて彼のもとに来ると、彼の前でひざをかがめました。彼は死すべき者として悪魔と戦いましたが、悪魔は彼に打ち勝てませんでした。彼は三度戦って、誘惑する者を退けました。・・・・彼はいけにえとしてささげられましたが、大祭司でもありました。彼は自分をささげたにもかかわらず、神なるかたでした。彼は神に自分の血をささげました。こうして彼は全世界を清めました。彼は十字架につけられて地上から上げられましたが、釘が罪を貫きました。・・・・彼は死者のもとに下りましたが、陰府(よみ)から復活して、多くの死者を復活させました。初めに起こることは人間の悲惨を表しますが、その後に起こることは不死であることの豊かさを示します。・・・・不死の御子は地上の姿をとりました。それは、彼があなたを愛するがゆえです」(『詩集』2:Collana di Testi patristici, LVIII, Roma, 1986, pp. 236-238)。
 この黙想の終わりに、わたしたちの人生のために、二つのことばについて、特に申し上げたいと思います。
 まず申し上げたいのは、聖パウロの勧めのことばです。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」。イエスと同じ思いを抱くように努めようではありませんか。イエスの思いに倣って、考え、決断し、行動するように努めようではありませんか。わたしたちがイエスと同じ思いを抱きたいならば、こうした道を歩もうではありませんか。よい道を歩もうではありませんか。
 もう一つのことばは、ナジアンズの聖グレゴリオのものです。「イエスはあなたを愛しています」。この優しいことばは、わたしたちを大いに慰めます。けれどもそれは、日々担うべき、大きな責任をも意味しています。

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