教皇ベネディクト十六世の32回目の一般謁見演説 詩編139(後半)

12月28日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の32回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4水曜日の晩の祈りで用いられる、詩編139の後半(朗読箇所は詩編 […]

12月28日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の32回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4水曜日の晩の祈りで用いられる、詩編139の後半(朗読箇所は詩編139・13-16、23-24)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
詩編139の前半の解説は、2週間前の12月14日の30回目の一般謁見演説で行われています。
謁見には、日本からの巡礼者をはじめ、20,000人の信者が参加しました。
演説の後に行われた祝福の終わりに、教皇は、イタリア語で、2004年12月26日に発生したスマトラ沖地震による津波の犠牲者を思い起こして、次のように述べました。「終わりに、今日、1年前に津波の被害に遭われた人々を心から思い起こしたいと思います。この津波によって、きわめて多くの人が亡くなり、また、環境に対する甚大な被害が生じました。津波の被害に遭われたこれらの人々と、最近起こった天災の被害に遭い、わたしたちの具体的で積極的な支援を必要としている、世界の他の地域のかたがたのために、主に祈りたいと思います」。
なお、この日、教皇公邸管理部は、教皇ベネディクト十六世が選出された4月から12月までの教皇謁見(一般謁見と個別謁見)、典礼、「お告げの祈り」の参加者数を発表しました。それによると、4月24日の教皇就任ミサから12月までの教皇行事への参加者数の合計は285万5,500人でした。4月27日の初回からこの日の32回目までの一般謁見の参加者は81万人で、最多月は10月の19万人、次いで6月の13万人、9月の12万6千人でした。ちなみに、教皇ヨハネ・パウロ二世は、最後の3か月(2005年1月から3月)に4回の一般謁見を行い、その参加者数は計23,000人だったとのことです。なお、教皇ベネディクト十六世の4月から12月までの個別謁見の参加者は、計25万1,000人、典礼への参加者は、計39万4,500人、「お告げの祈り」の参加者は計140万人でした。


1 今日は、降誕の八日間の中で、幼子殉教者の祝日です。この水曜日の一般謁見で、わたしたちは、詩編139についての考察を再開したいと思います。詩編139は、晩の祈りの中で二つに分けて唱えられています。前半(1-12節)では、すべてのところにおられる、全能の神、存在と歴史の主であるかたが観想されました。その後、このきわめて美しく、深い感情の込められた、知恵に満ちた賛歌は、この後半で、全宇宙の中で最高の、また最も驚くべき存在である、人間に焦点を当てます。詩編は、この人間について、神が造られた「驚くべきもの」と述べています(14節)。
 実際、このテーマは、この数日間、わたしたちが過ごしている、降誕祭の雰囲気にとてもふさわしいものです。降誕節の間、わたしたちは、人となられた神の子の偉大な神秘を記念しているからです。実に、神の子は、わたしたちの救いのために「幼子」となられました。
 全宇宙に及ぶ、造り主のまなざしと存在を考察した後、今日わたしたちが取り上げる詩編の後半では、神のいつくしみ深いまなざしが人間に向けられます。詩編は、この人間の完全なかたちでの始まりについて考察します。
 人間は、母の胎内でまだ「形のない」状態にあります。ここで使われているヘブライ語のことばは、ある聖書学者たちによって「胎児」の意味に解釈されてきました。このことばは、胎児を、小さな、卵の形に丸まった存在として表します。けれども神は、すでにこの存在に対して、優しく愛に満ちたまなざしを向けます(16節)。

2 母の胎内で行われる神のわざについて述べるために、詩編作者は、聖書の古典的なイメージを用いて、いのちを生み出す母の胎を「深い地の底」にたとえます。「深い地の底」は、偉大な母なる大地の変わることのない活力を表します(15節)。
 まず用いられるのは、自分の芸術作品、すなわち傑作を「形づくり」、制作する、陶工や彫刻家のたとえです。創世記の中で、人間の創造について、こう述べられている通りです。「主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくられた」(創世記2・7)。
 それから、「織物」のたとえが用いられます。「織物」のたとえは、細やかな皮膚と筋肉と神経が、骨格に「織り込まれる」ことを表します。ヨブも、この「織物」のたとえをはじめとしたさまざまなイメージを用いて、苦しみに打ちひしがれ、さいなまれながら、人間という神の傑作を、全力でほめたたえました。「御手をもってわたしを形づくってくださったのに(・・・・)。心を留めてください、土くれとしてわたしを造(・・・・)られたのだということを。あなたはわたしを乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、骨と筋を編み合わせ、それに皮と肉を着せてくださった」(ヨブ10・8-11)。

3 神が、まだ「形のない」状態にある胎児がどのようになるかを見ておられるという、この詩編の考えは、きわめて力強いものです。この被造物である人間が、地上の生活の中で過ごし、わざを行う日々は、すでに主のいのちの書の中に記されています。
 こうして、すべてを超えた神の知識の偉大さが、あらためて示されます。神の知識は、人間の過去と現在だけでなく、まだ隠されている未来の人生にまで及ぶからです。しかしここには、神の手で形づくられ、その愛に抱かれている、この小さな出生前の人間という被造物の偉大さも示されています。聖書は、その存在の最初の瞬間から、人間をたたえます。
 ここで、大聖グレゴリオが『エゼキエル書講話』の中で、わたしたちが先に取り上げた、次の詩編のことばを用いて行った考察に耳を傾けたいと思います。「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている」(16節)。このことばから、教皇にして教父であるグレゴリオは、キリスト教共同体の中で、霊的な道のりを歩く力が弱いすべての人々についての、独創的で優れた考察を述べました。
 グレゴリオは、信仰とキリスト教生活において力の弱い人々も、教会という建物の一部であるといいます。「にもかかわらず、彼らは善意の徳によって教会に加えられる。たしかに彼らは不完全で小さな者である。しかし、彼らは、彼らに理解できる限りのしかたで、神と隣人を愛し、自分たちにできるすべての善いわざを行うことをないがしろにしない。完全なわざと熱心な観想に心を開くことができるほどの霊的たまものを与えられていないにしても、彼らは自分たちにわかる範囲で、進んで神と隣人を愛する。
 それゆえ、このような者たちも、たとえ重要な役割を果たすことはなくても、教会の建設に貢献することができる。なぜなら、教えや、預言や、奇跡を行うたまものや、世を完全に忌み嫌うことにおいて優れていなくても、彼らは畏れと愛という基盤の上に立ち、それを自分たちのよりどころとしているからである」(『エゼキエル書講話』2・3・12-13:Opere di Gregorio Magno, III/2, Roma, 1993, pp. 79, 81)。
 聖グレゴリオのメッセージは、霊的生活と教会生活の道を歩みながら疲れてしまうことの多いわたしたちすべてに、慰めとなるものです。主はわたしたちを知っておられ、わたしたちすべてを愛をもって守ってくださいます。

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