教皇ベネディクト十六世の教皇庁開発援助促進評議会総会参加者への演説

以下に訳出したのは、教皇ベネディクト十六世が2006年1月23日(月)に教皇庁クレメンス・ホールで行った、教皇庁開発援助促進評議会総会参加者への演説の全文です。この演説の中で、教皇は、1月25日に発布した最初の回勅『神は […]

以下に訳出したのは、教皇ベネディクト十六世が2006年1月23日(月)に教皇庁クレメンス・ホールで行った、教皇庁開発援助促進評議会総会参加者への演説の全文です。この演説の中で、教皇は、1月25日に発布した最初の回勅『神は愛』の解説を行いました。
教皇庁開発援助促進評議会総会のテーマは、コリントの信徒への手紙一13章13節の「その中で最も大いなるものは、愛である」でした。
教皇の演説はイタリア語で行われました。翻訳の底本としてイタリア語原文を用い、合わせて、『オッセルバトーレ・ロマーノ』英語版2006年2月1日付4頁に掲載された教皇庁による英訳を参照しました。小見出しと改行は英訳に基づきます。


 

 総会参加者の皆様。
 ダンテが『神曲』の中で読者を誘った宇宙の旅は、永遠の光を前にして終わります。この永遠の光は、神ご自身です。この光は、同時に「太陽と、ほかのかの星々を動かす愛」(『神曲』天国篇145行〔寿岳文章訳、集英社、1987年、301頁〕)です。光と愛は同一のものです。この二つは、宇宙を動かす、根源的な創造する力です。
 ダンテのこの『天国篇』のことばは、アリストテレスの思想を表すものだとしても――アリストテレスは、「エロース(愛)」が世界を動かす力だと考えたからです――、にもかかわらず、ダンテはこのギリシア哲学者が想像もできなかった、まったく新しいことに気づいたのです。この永遠の光は、さらに三つの円球の中に示されます。ダンテはそれを、わたしたちがよく知っている簡潔な詩節を用いてわたしたちに示します。「おお永遠(とこしえ)の光よ、おん自らの中にのみいまし、おん自らのみを知り、おん自らに知られ知りつつ、おん自らを愛し笑(えら)ぎたもうものよ!」(『神曲』天国篇124-126行〔前掲寿岳文章訳、300頁〕)。

愛の新しさ

 実際、この知識と愛の三位一体の円球として現された神よりも、さらに驚くべきなのは、ダンテが描いた、人間の顔――イエス・キリストの顔――の姿です。この顔は、ダンテにおいて、光の円球の中心に現れます。神は無限の光です。ギリシア哲学者は、この神の測り知りえない神秘を洞察しました。しかし、この神は、人間の顔をもっています。わたしたちはこう付け加えることができます――この神は、人間の心をもっているのです。
 ダンテのこの幻は、一方で、神に対するキリスト教の信仰と、理性と諸宗教の世界によって行われた探究との連続性を示しています。しかしながら、他方で、あらゆる人間による研究を超えた新しい要素が現れます。すなわち、神ご自身だけがわたしたちに示すことのできる、新しい要素です。それは、愛の新しさです。この愛に促されて、神は人間の顔をもちました。さらに神は、肉と血、すなわち、人間存在の全体をとるまでに至りました。
 神の「エロース」は、宇宙の根源的な力だけではありません。この愛は、人間を創造し、また、人間にかがみこみます――エルサレムからエリコに下る途中の道で、強盗に遭って傷つき、横たわっていた人にかがみこんだ、よいサマリア人のように。
 今日、「愛」ということばは、人がそれを口にすることをほとんどはばかるほどに、使い古され、消耗し、誤用されています。けれども、「愛」は根源的なことばです。それは、根源的な現実を表すことばです。わたしたちは、このことばを簡単に廃止することはできません。むしろわたしたちは、このことばをあらためて取り上げ、浄め、その本来の輝きを取り戻させなければなりません。こうして「愛」は、わたしたちの生涯を照らし、わたしたちの生涯を正しい道に導くことができるのです。

回勅のテーマとしての愛
 このような意識に基づいて、わたしは最初の回勅のテーマとして「愛」を選びました。わたしは、ダンテがその幻の中で大胆なしかたでまとめたことを、少しでも現代と現代の生活に対して表現しようと試みました。ダンテは「視力」について語っています。この「視力」は、彼が見つめるほど「変わりゆく」もの、すなわち、内的な意味で変わるものでした(『神曲』天国篇112-114行参照)。
 それはまさにこういうことです。信仰とは、見て、理解することです。見て、理解することによって、信仰はわたしたちを造り変えます。わたしが目指したのは、神への信仰が――それも、人間の顔と心をとった神への信仰が、何よりも重要であることに、光を当てることでした。 
 信仰は、自分一人のものにしたり、棚上げしたりすることができるような、一つの理論ではありません。信仰はきわめて具体的なものです。信仰は、わたしたちの生活様式を決める基準です。敵意や欲望が力を振るう時代、宗教の誤用を支持することが、憎しみの神格化にまで至った時代にあって、わたしたちは中立的な理性だけで身を守ることはできません。わたしたちは生ける神を必要としています。死に至るまでわたしたちを愛してくださった、神を必要としています。そのため、この回勅の中で、「神」、「キリスト」、「愛」というテーマは、キリスト教信仰の何よりも重要な導き手として、一つにまとめられています。わたしは信仰の人間的な側面を示そうと望みました。「エロース(性愛)」はその一面をなしています。「エロース」は、人間が、神によって造られた自分の身体性を肯定することです。男と女の間の不解消の結婚は、創造の中にその根源的な形を見いだすことを、肯定することです。
 さらにここでもう一つのことが生じます。すなわち、「エロース」は「アガペー」に造り変えられるということです。人を愛するとき、その愛はもはや自分だけのことを求めず、他者への配慮となります。このような愛は、人のために進んで犠牲をささげます。また、それは新たな人間のいのちのたまものへと開かれています。

キリスト教的な「アガペー」と「エロース」
 キリスト教的な「アガペー」、すなわちキリストに従って行われる隣人愛は、「エロース」と別のものでもありませんし、また、「エロース」を脇に置くものでも、「エロース」と敵対するものでもありません。その反対に、キリストは、人間のためにご自身を犠牲にささげることによって、新しい次元を開きました。この新しい次元は、キリスト信者が貧しい人や苦しんでいる人のために献身した愛の歴史を通じて、いっそう発展しました。
 初めて回勅を読むと、この回勅は、関係のない二つの部分に分かれているような印象を与えるかもしれません。第一の理論的な部分は、愛の本質について語っています。第二の部分は、教会の愛のわざと、愛のわざを行う組織について語っています。
 しかし、わたしが関心をもったのは、これら二つのテーマの同一性です。この二つのテーマを十分に理解するためには、二つのテーマを同一のことがらとして考えなければなりません。最初から、聖書の証言がわたしたちに示すところに基づいて、愛の本質について語る必要がありました。キリスト教的な神の姿から出発して、どのようなしかたで人間が愛のために造られたかを示さなければなりませんでした。また、初めは男と女の間の「エロース」として現れる愛が、どのようにして、内的な意味で「アガペー」、すなわち人に自らを与える愛に造り変えられなければならないかを、示す必要がありました。そして、このような変容は、「エロース」の真の本性に対応するものなのです。
 以上の考察に基づいて、次に、聖書に述べられた神への愛と隣人愛が、キリスト教的生活の中心であり、信仰の実りであることが示されます。
 しかし、続く第二部では、「アガペー」という完全な意味で人格的な行為は、自分独りのものにとどまることはできず、共同体としての教会の本質をなす行為とならなければならないことを強調することが必要となりました。つまり、「アガペー」は、組織の形を必要とします。この組織は、教会の共同体としての活動によって表されます。

教会の愛のわざの源泉
 教会の愛の組織は、教会の実体にたまたま付け加えられた、社会福祉の一形態でも、他の人に任せることのできる活動でもありません。むしろ、それは教会の本性の一部をなしています。
 神の「ロゴス(みことば)」は、人間の宣教、すなわち信仰のことばを必要とします。それと同じように、神そのものにほかならない「アガペー(愛)」も、教会の「アガペー」すなわち愛の活動を必要とします。この愛の活動は、第一に、きわめて具体的に、隣人を助けることを意味します。しかし、それだけでなく、愛の活動はまた本質的に、人に神の愛を伝えることも意味しています。わたしたち自身が、この神の愛を与えられたからです。愛のわざは、ある意味で、生ける神を目に見えるものとします。
 愛の組織において、「神」や「キリスト」が自分たちと無関係なことばであってはなりません。実に、これらのことばは、教会の愛のわざの本来の源泉を示しています。「愛のわざ(カリタス)」の力は、スタッフと協力者全員の信仰の力にかかっているのです。
 苦しんでいる人を見ると、わたしたちの心は揺り動かされます。けれども、愛の活動は、たんなる慈善事業を超えた意味をもっています。人の苦しみを和らげたいと、わたしたちを内的に促すのは、神ご自身です。ですから、わたしたちは究極的に、神ご自身を、苦しんでいる世界にもたらします。
 わたしたちが自覚的に、はっきりと、神ご自身をたまものとして与えれば与えるほど、より効果的なしかたで、わたしたちの愛は世界を変容させ、希望を呼び覚ますことになります。この希望は、死を超える希望です。また、このようにして初めて、希望は人間にとって真の意味での希望となるのです。
 主が皆様のシンポジウムを祝福してくださいますように、願い求めます。

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