教皇ベネディクト十六世の36回目の一般謁見演説 詩編144(後半)

1月25日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の36回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4木曜日の晩の祈りで用いられる、詩編144の後半(朗読箇所は詩編1 […]

1月25日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の36回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4木曜日の晩の祈りで用いられる、詩編144の後半(朗読箇所は詩編144・9-15)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
詩編144の前半の解説は1月11日の34回目の一般謁見で行われています。
謁見には8,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

1 今日、キリスト教一致祈祷週間が終わります。キリスト教一致祈祷週間の間、わたしたちは、キリストの弟子の完全な一致という大きなたまものを与えてくださるように、常に主に祈り求めなければならないことを考察しました。実際、教会や教会共同体が共同で行うエキュメニズムへの取り組みをより真剣かつ実り豊かなものにするために、祈りは決定的な役割を果たします。
 今日の集いの中で、わたしたちは再び詩編144についての考察を行います。詩編144は、夕の祈りで二つに分けて唱えられるからです(1-8節および9-15節参照)。詩編の雰囲気は相変わらず賛歌ですが、この後半では、「油注がれた者」が登場します。「油注がれた者」とは、優れた意味で「聖別されたかた」すなわちイエスです。イエスはすべての人をご自分のもとに呼び寄せます。それは、彼らが一つとなるためです(ヨハネ17・11、21参照)。賛歌のほとんどが、繁栄と平和を描く場面で占められているのは、偶然ではありません。繁栄と平和は、メシアが訪れる時代を典型的に示す、象徴だからです。

2 そのため、この詩編は「新しい」歌と呼ばれます。聖書の中で「新しい」ということばは、ことばの外的な意味での新しさを指すだけでありません。このことばは、それ以上に、最終的な完成によって希望が実現されることを表しています(9節参照)。それゆえ、詩編は歴史の目標を歌います。そのとき、悪はついに声を発することができなくなります。詩編作者は、この悪について、「むなしいこと」、「欺き」と述べます。これらは偶像崇拝を意味することばです(11節参照)。
 しかし、こうした消極的な意味での出来事に続いて、もっと多くの分量をさいて、積極的な意味での出来事が述べられます。すなわち、新たな、喜びに満ちた世が到来しつつあることが述べられます。これこそ真の意味での「シャローム」、すなわち、メシアがもたらす「平和」です。新しい世の輝きは、社会生活のさまざまな姿で描かれます。ここで述べられているのは、わたしたちがその実現を希望する、より公正な社会の姿でもあります。

3 まず、家庭のことが述べられます(12節参照)。家庭の基盤は、子どもを生む力にあります。未来の希望である息子は、力強い苗木にたとえられます。娘は固い柱だといわれます。この柱は、神殿の柱のように家を支えます。家庭の次に述べられるのは、経済生活です。農場では、穀物が倉を満たし、牧場では牛が草をはみ、家畜が肥えた畑を耕しています(13-14a節参照)。
 次に、町に目が向けられます。共同体の住民全体は、ついに、平和と安定という貴重なたまものを与えられます。実際、侵入者が攻撃した際に、町の城壁に開いた「破れ」は、ついになくなります。略奪や捕囚をもたらした、敵の襲撃は終わります。貧しい人、傷ついた人、被災者、孤児の上げる「叫び声」も聞かれません。これらは戦争のもたらす悲しむべき結果だからです(14b節)。
 
4 さまざまなかたちで描かれた、このような未来の世界の実現は、メシアと、その民に委ねられます。わたしたちは皆、メシア、すなわちキリストの導きに従いながら、この安寧と平和を実現するために、ともに働かなければなりません。そのために、わたしたちは、憎しみと暴力と戦争による、破壊的な行動をなくさなければなりません。しかし、わたしたちは、愛と正義である神の側に立たなければなりません。
 だから、詩編は次のことばで結ばれます。「いかに幸いなことか、このような民は。いかに幸いなことか、主を神といただく民は」。神はすべての善の中の善なるかた。他のすべての善を可能にするかたです。神を認め、霊的かつ道徳的な価値観を守る民だけが、真の意味で、深い平和を見いだし、世と他の民に平和をもたらす力となることができます。そこで、このような民は、詩編作者とともに、信頼と希望に満たされながら、「新しい歌」を歌うことができるのです。この「新しい歌」ということばによって、わたしたちは、新しい契約、すなわち、キリストとキリストの福音がもたらした新しい出来事そのものを、自然に思い起こします。
 聖アウグスチヌスがわたしたちに述べるのは、このことにほかなりません。アウグスチヌスは、この詩編を読む際に、「十弦の琴をもってほめ歌を歌います」ということばの意味も明らかにしています。アウグスチヌスは、この十弦の琴は、十戒にまとめられた律法のことだと考えます。けれども、わたしたちは、この十弦すなわち十戒をかなでるためにふさわしい鍵を見いださなければなりません。聖アウグスチヌスはいいます。この十弦すなわち十戒が、愛の心をもってかなでられたとき、それは初めてすばらしい音を出すことができます。愛は律法を完成します。唯一の愛が開く空間として掟を実行する人が、真の意味で「新しい歌」を歌います。わたしたちをキリストの思いに結びつける愛は、「新しい人」が歌う、真の意味での「新しい歌」です。この「新しい人」が、「新しい世」を造り出すこともできます。詩編はわたしたちに、「十弦の琴」をもって、すなわち新しい心をもって歌うように招きます。それは、キリストの思いをもって歌い、愛の空間の中で十戒を行い、こうして、世の平和と安寧の実現に役立つものとなるためです(『詩編注解』143・16:Nouva Biblioteca Agostiniana, XXVIII, Roma, 1977, p. 677参照)。

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