教皇ベネディクト十六世のイエズス会総長への書簡「回勅『ハウリエティス・アクアス』発布50周年にあたって」

以下に訳出したのは、教皇ベネディクト十六世が教皇ピオ十二世回勅『ハウリエティス・アクアス』発布50周年に際して、2006年5月15日付でイエズス会のペーター・ハンス・コルヴェンバッハ総長に宛てて送った書簡の全文訳です。 […]

以下に訳出したのは、教皇ベネディクト十六世が教皇ピオ十二世回勅『ハウリエティス・アクアス』発布50周年に際して、2006年5月15日付でイエズス会のペーター・ハンス・コルヴェンバッハ総長に宛てて送った書簡の全文訳です。
『ハウリエティス・アクアス』(1956年5月15日)は、イエスのみ心の信心の推進をテーマとした回勅です(「ハウリエティス・アクアス(Haurietis aquas)」とは、回勅の冒頭で引用された、イザヤ書12章3節のウルガタ訳ラテン語テキストのことばで、「あなたたちは・・・・水を汲む」の意味)。イエスのみ心の信心は、マリア訪問会の修道女の聖マルガリタ・マリア・アラコク(1647-1690年)へのイエスの出現をきっかけに17世紀に広まりました。イエズス会は、聖マルガリタ・マリア・アラコクの霊的指導者の聖クロード・ド・ラ・コロンビエール(1641-1682年)以来、み心の信心の普及に努めました。
翻訳の底本として、イタリア語の原文を用い、合わせて、『オッセルバトーレ・ロマーノ』英語版2006年6月14日付4頁に掲載された教皇庁による英訳を参照しました。


 

イエズス会総長ペーター・ハンス・コルヴェンバッハ神父へ

 「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」(イザヤ12・3)。ピオ十二世は、イエスのみ心の信心の祝日が全教会で祝われるようになって百周年を記念する回勅の冒頭に、この預言者イザヤのことばを掲げました。50年が経った今日も、このイザヤのことばはその意味をすこしも失っていません。
 回勅『ハウリエティス・アクアス』は、イエスのみ心の信心を奨励することによって、信者が神と神の愛の神秘に心を開き、そこから造り変えられるようにと勧めました。50年が過ぎた今も、キリスト信者にとって、イエスのみ心との関係を深め続けることはふさわしい務めです。すなわち、キリスト信者は、救いをもたらす神の愛の内に信仰を刷新し、自分の生活の中にますます神を迎え入れなければならないからです。
 回勅『ハウリエティス・アクアス』は、あがない主の刺し貫かれた脇腹を、源泉として、わたしたちに指し示します。わたしたちはこの源泉から、イエス・キリストについての真の知識を得、イエス・キリストの愛をより深く経験しなければなりません。
 イエス・キリストにおいて神の愛を「知ること」。イエス・キリストにしっかりと目を注ぎながらイエス・キリストを「経験すること」。ついにはイエス・キリストの愛の経験を完全なしかたで「生きること」。イエス・キリストをほかの人に「あかしすること」――これらのことがいかなることであるかを、わたしたちは、こうしていっそう理解できるようになります。
 わたしの敬愛すべき前任者であるヨハネ・パウロ二世のことばを用いるなら、実際、「人間の心は、キリストのみ心の内に、自分の人生と目的の本来の、また独自の意味を知り、真の意味でのキリスト教的生活の価値を理解し、人間の心のある種の倒錯から自分を守り、神に対する子としての愛と隣人愛を結びつけることを学びます。こうして、救い主の心が願った真の回復がもたらされます。そのとき、憎しみと暴力によって積み上げられた残骸の上に、キリストのみ心の文明を築くことが可能となるのです」(教皇ヨハネ・パウロ二世「イエズス会総長ペーター・ハンス・コルヴェンバッハ神父への手紙――福者クロード・ド・ラ・コロンビエールの列福にあたって(1986年10月5日)」:Insegnamenti, vol. IX/2, 1986, p. 843)。

イエス・キリストの内に神の愛を知る
 回勅『神は愛』の中で、わたしはヨハネの第一の手紙のことばを引用しました。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」。それは、キリスト信者であることは、ある人格との出会いによって始まるのだということを強調するためでした(教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛』1参照)。
 神は御子の受肉の内に、もっとも深いしかたでご自身を現しました。神は御子の内に「目に見える」ものとなったからです。それゆえ、わたしたちはキリストとの関係の内に、神が本当にどういうかたであるかを認めることができるのです(回勅『ハウリエティス・アクアス』29-41、回勅『神は愛』12-15参照)。 
 繰り返していえば、神の愛のもっとも深い表現は、キリストが十字架の上でご自分のいのちをわたしたちのために与えたことの内に見いだされます。だから、わたしたちは、何よりもキリストの苦しみと死を仰ぎ見ることによって、わたしたちに対する神の限りない愛をいっそうはっきりと知ることができるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3・16)。
 さらに、このわたしたちに対する神の愛の神秘は、イエスのみ心の礼拝と信心の内容であるだけではありません。同様に、それはすべての真の霊性とキリスト教的信心の内容でもあるのです。ですから、この信心の基盤は、キリスト教そのものと同じくらい古いのだということを強調することは重要です。
 実際、わたしたちのあがない主の十字架に――すなわち「自分たちの突き刺した者」(ヨハネ19・37。ゼカリヤ12・10参照)に目を注ぐことによって、わたしたちは初めてキリスト者となることができるのです。
 回勅『ハウリエティス・アクアス』がふさわしく思い起こしているように、キリストの脇腹の傷と釘跡は、数知れない魂にとって、「キリストの愛を表す主要なしるしと象徴」になりました。この愛が、これらの魂の生涯をはっきりと内側から形づくったのです(回勅『ハウリエティス・アクアス』52参照)。
 十字架につけられたかたの内に神の愛を認めることは、内的な経験となりました。この経験に促されて、人びとはトマスとともに告白しました。「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)。また、人びとは、神の愛に無制限に迎え入れられることの内に、深い信仰に達することができました(回勅『ハウリエティス・アクアス』49参照)。

イエス・キリストのみ心を仰ぎ見て、神の愛を経験する
 この神の愛への信心は、認識をもたらすだけでなく、何よりも、信頼をこめてこの信心への奉仕に身をささげることによって、この愛を個人的に経験することを可能にします。このことを注意深く考察して初めて、この神の愛への信心のきわめて深い意味が示されます(同62参照)。
 もちろん経験と認識を切り離すことはできません。両者は互いに関連しています。さらに、謙遜な祈りと寛大な自由という態度があって初めて、神の愛についての真の認識を得ることができることを強調しなければなりません。
 こうした内的な態度から出発して、人は槍で刺し貫かれた主の脇腹に目を注ぎます。このまなざしは、沈黙の礼拝へと変わります。主の刺し貫かれた脇腹から「血と水」とが流れ出ました(ヨハネ19・34参照)。この脇腹を仰ぎ見ることにより、わたしたちは、そこからもたらされる多くの恵みのたまものを知ることができるようになります(回勅『ハウリエティス・アクアス』34-41参照)。また、イエスのみ心の信心に含まれる、すべての他のキリスト教的礼拝の形へと導かれます。
 わたしたちは、信仰が神の愛の経験の実りだと考えます。ですから信仰は、恵みであり、神からのたまものです。しかし、人が信仰を恵みとして経験できるようになるためには、まず、自らの内に信仰をたまものとして受け入れ、このたまものに基づいて生きようと努めなければなりません。回勅『ハウリエティス・アクアス』は、信者を神の愛の信心へと招きます(回勅『ハウリエティス・アクアス』72参照)。この神の愛への信心によって、わたしたちは、神が「わたしたちのために」、「わたしのために」進んでこの苦しみをご自身に負ったことを絶えず思い起こさずにはいられません。
 み心の信心を実践するとき、わたしたちは、神の愛を知って感謝するだけでなく、この愛にわたしたちの心を開き続けます。それは、わたしたちの生活が、いっそう神の愛の模範に倣って形づくられるようになるためです。神は「わたしたちに与えられた聖霊によって」神の愛を「わたしたちの心に」注いでくださいました(ローマ5・5参照)。ですから神は、うむことなくその愛を受け入れるようにわたしたちを招きます。そこから、わたしたちは、救いをもたらすキリストの愛へと自分をすべてささげ、自分をキリストに奉献するように招かれます(回勅『ハウリエティス・アクアス』4参照)。この招きがまず目指しているのは、わたしたちが神と関係をもつようになることです。
 このことから、わたしたちの信仰と、わたしたちの愛における生活にとって、なぜみ心の信心がかけがえのない重要な意味をもつかがわかります。み心の信心は、わたしたちのためにご自身を犠牲としてささげた神の愛へと完全に方向づけられたものだからです。

経験した愛を生き、あかしする
 内面的に神を受け入れた人は皆、神によって形づくられます。神の愛を経験した人は、その愛を「召命」として生きなければなりません。人はこの「召命」にこたえなければなりません。主は「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(マタイ8・17)かたです。この主に目を注ぐことによって、わたしたちは人の苦しみと必要にもっと気づくことができるようになります。
 槍で刺し貫かれたイエスの脇腹を礼拝しながら観想することにより、わたしたちは、人びとを救おうとする神のみ旨を感じることができるようになります。この観想によって、わたしたちは、救いをもたらす神の憐れみに自分をゆだねることができるようになります。それと同時に、この観想は、神の救いのわざにあずかり、神の道具となりたいというわたしたちの望みを強めます。
 開かれた脇腹から「血と水」とが流れ出ました(ヨハネ19・34参照)。この脇腹から与えられたさまざまなたまものによって、わたしたちの人生もまた、人のために、その人の内から「生きた水が川となって流れ出る」源となることができます(ヨハネ7・38。回勅『神は愛』7参照)。
 あがない主の刺し貫かれた脇腹への信心は、愛の経験をもたらします。この愛の経験によって、わたしたちは自分の中に閉じこもる危険から守られ、進んで人のために生きることができるようになります。「イエスは、わたしたちのために、いのちを捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです」(一ヨハネ3・16。回勅『ハウリエティス・アクアス』38参照)。
 神がまずわたしたちにご自分の愛を与えてくださいました。このことを経験することによって初めて、わたしたちは、神が与えた愛のおきてにこたえることができるようになります(回勅『神は愛』14参照)。
 感謝の祭儀によって常に新たに示される十字架の神秘の内に、愛は目に見えるものとなります。この愛の礼拝が、わたしたちが愛することができること、また、自分を与えることができることの基盤です(回勅『ハウリエティス・アクアス』69参照)。こうしてわたしたちは、キリストに用いられる道具となります。このようなしかたで初めてわたしたちは、キリストの愛を、信頼の置けるしかたで告げ知らせる者となりうるのです。
 しかしながら、わたしたちは、このような神のみ旨に対する開かれた態度を、あらゆる瞬間に絶えず新たにしなければなりません。「愛は『完成』することも、完全なものとなることもありません」(回勅『神は愛』17参照)。
 「槍で刺し貫かれた脇腹」の内に神の限りない救いのみ旨が輝いています。ですから、この脇腹を仰ぎ見ることを、過去の礼拝ないし信心の形と考えてはなりません。「刺し貫かれた心」という象徴に歴史的な信心の表現を見いだした神の愛の礼拝は、神との生きた関係にとって不可欠なものであり続けます(回勅『ハウリエティス・アクアス』62参照)。
 わたしは、回勅『ハウリエティス・アクアス』発布50周年の記念によって、多くの人の心がキリストのみ心の愛にこれまでにましていっそう熱心にこたえるように促されることを願います。このような願いをこめて、わたしは神父様と、イエズス会のすべての修道者の皆様に特別な使徒的祝福をお送りします。皆様はこの根本的な信心を今も積極的に推進しておられるからです。

2006年5月15日、バチカンにて
教皇ベネディクト十六世

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